第5章 日本の古代ジオポリティーク 第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (上)
第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (上)
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (下)
第2節 白村江の戦の戦後処理―実に典型的な国民国家の残滓
第3節 所与の島嶼国家運営―大陸の環境決定と相容れない日本の環境決定
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (上)
「白村江の戦」の日韓現地踏査に参加するため扶安(ぶあん)郡を訪れた。ソウルからバスを乗り継いで南下、3時間ほどの所要時間で到着、「白江(ぺくぐぁん)」現在名「錦江」の河口に立つ。河口の土手に「白村江(はくすきのえ)戦跡」のモニュメントが在った。
この地において「倭(わ)(以下「日本」という)・百済(くだら)軍と唐・新羅(しらぎ)軍の戦いが行われた」と思いを馳せるが、後にそのイメージは覆される。663年、日本が朝鮮半島でいったん滅びた(660)百済復興に賭ける百済王朝の遺臣を助勢する日本の「白村江の戦」には国家的な “Geopolitik” が潜在する。
1 伏線
白村江の戦は、663年に日本が朝鮮半島に約4万2千人を派兵した戦争である。この戦いよりも前の時代にも日本が朝鮮半島の他国と干戈を交えた歴史があった。
一つは「神話」として扱われて来た『日本書紀』巻第9「神功皇后」の新羅遠征である。仲哀天皇(192-200)の皇后神功は実子応神天皇(270-310)即位までの間(201-270)、摂政として実権を掌握し、仲哀天皇が神託「海を越えて宝の有る国(新羅)に侵攻せよ」を実行しなかったから早世したと、自ら「高浪を渡り、船舶を整えて財(宝)の地を求めよう」と新羅に侵攻したとされる。しかし、「日本と新羅間のギクシャクとした関係」を象徴するものの信憑性には乏しい。
第2は、『日本書紀』・朝鮮の『三国史記』・中国吉林省に在る高句麗の『好太王碑(広開土王碑)碑文』に記されている「日本・高句麗間の戦争(391-404)」である。
碑文には「日本が高句麗の属国である百済・新羅を破り高句麗にまで侵攻したので広開土王(好太王)が迎え撃って勝利した」(文責:筆者意訳)とある。
4世紀に入ると中国王朝(西晋)の衰退に合わせ、支配あるいは冊封下の地域は中国王朝(西晋)の影響から離れて行った。
313年、朝鮮半島北部の高句麗(こうくり)は、漢王朝時代から中国が支配していた楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼして支配下に置き「朝鮮半島北部の覇者」として名乗りを上げた。
朝鮮半島の南部には、紀元前2世紀から4世紀にかけて馬韓・弁韓・辰韓の小国・部族・集団などの連合体が存在した。しかし、中国王朝(西晋)の弱体化は馬韓・弁韓・辰韓にとって後ろ楯として頼り甲斐が無くなり、独自に安全保障体制を構築しなければならなくなった。それが、馬韓は百済、辰韓は新羅という統一国家に転じ建国した事情である。
ここに朝鮮半島における高句麗・新羅・百済が鼎立してさらに朝鮮半島全体の覇を競うようになる三国時代(韓国では紀元前1世紀-7世紀/日本では4-7世紀)が始まる。
朝鮮半島南部にとって最大の関心事は高句麗の勢力拡大の脅威対処であった。弁韓は、東西の辰韓(新羅)、馬韓(百済)に挟まれ国体を強化しなければ強国に侵蝕される恐れが生ずるという悩ましい現実に直面していた。しかし、他方で高句麗と直接に対峙する地勢的環境になかったため、弁韓地域内の小国・領邦・部族がまとまることなく「伽耶(かや)諸国」のままであった。
しかし、この状態は東西の侵蝕を免れ得ず、又東の新羅・西の百済と北の高句麗との敵味方関係に脅かされ、加えて新羅と百済を「伽耶諸国の奪い合い」という争いに巻き込むことにもなって行った。
百済が高句麗と敵対すると、百済と敵対している新羅の高句麗への接近が生じ「新羅・百済の一触即発」の事態を促すことになった。そこで朝鮮半島の鼎立状態の中で分が悪くなった百済は、対等以上の立場を築くため「日本との連合」を謀ったわけである。
日本が朝鮮半島に進出するにあたっては伽耶諸国(日本では「任那」と呼称)を拠点とした。 百済にとっては、高句麗・新羅の連合に対抗する手段として、日本との連合に「日本が重視する任那の存在を百済がバックアップする」というアピールは有効であった。同時に、日本にとって任那を堅持するため百済の助力を得るのは好都合であった。
『日本書紀』・『好太王碑』には相互の戦力について触れていないため、軍事衝突=戦争に至った場合、日本・百済連合が高句麗・新羅連合より優位に立てるか否かの算段は見えない。単純に「2国対1国」が「2国対2国」になり拮抗するという考えは乱暴に過ぎるが、「百済が日本の任那維持を支援する」と「日本は百済に対して『集団的自衛権行使』の軍事支援を行う」という関係成立は百済の大きなプラスであった。
このいわば同盟構築は、日本の朝鮮半島派兵のきっかけとなったばかりではなく派兵の頻度も増して行った。しかし、日本の新羅・高句麗侵攻は失敗に終わる。
『好太王碑』の記述を整理する。
・百済と新羅は高句麗の臣下で服属している
・391年、日本軍が百済、新羅など三韓諸国に侵攻、勢力圏を拡張中である
・396年、高句麗好太王は百済の諸城を落とし首都を包囲、百済が降伏、百済王子・貴族
子弟の人質と多数の奴隷を得て凱旋した
・399年、百済は高句麗から離反、日本と同盟したため好太王は平壌に派兵、圧力を加えた。
平壌において新羅の使者が好太王に謁見、日本軍の新羅侵攻の窮状を訴え、高句麗への臣
従を条件に援軍を得、翌400年には高句麗が兵力5万の援軍を送り日本軍の新羅侵攻を排
除した
・404年、好太王は、朝鮮半島中西部、楽浪郡南部の帯方郡に侵攻した日本軍を撃退、追撃、日本軍は伽耶で全滅
「好太王碑碑文」には「高句麗が優位な時期の記述」、「日本書記内容」には「日本が優位な時期の記述」が見られ、本文脈においてそれぞれの時期がずれていることから、記述上の競合は無く、日本・高句麗間の記述に整合性がある。
『日本書紀』(巻第11・仁徳天皇・313-399)には、朝鮮半島との関係が次のように記されている。
・314年、新羅が朝貢した
・315年、高句麗が鉄製の盾・的を貢上したので試射、優れた性能を確認、盛大に饗応した
・330年、新羅の朝貢が無かったので使節を派遣して理由を正すと、即朝貢に来日した
・354年、使節を百済に派遣、国郡の境界を明定、百済王一族酒君(さけのきみ)に無礼あ
り𠮟責、日本へ送致の処分が行われた
・366年、新羅が朝貢せず拒んだため兵を挙げて攻撃、応戦する新羅軍に勝利、捕虜を得た
・371年、高句麗が朝貢に来日した
このように、「高句麗への侵攻と撤退/新羅との戦争の繰り返し/百済と日本の連合/高句麗と新羅の接近/百済と高句麗・新羅連合との対峙」といった状況証拠は、「日本と百済の接近」を語っている。このような朝鮮半島情勢と日本の対朝鮮半島有事対応が次の戦争の伏線となって行く。
2 「白村江の戦」の引き金
(1) 百済の滅亡(660)―百済王家の遺臣からの「百済復興」へ向けての援軍要請―
『日本書紀』に朝鮮半島の鼎立三国の一つであり、日本との関係が濃密であった百済が、唐・新羅の連合軍によって滅亡したこと、百済遺臣たちが百済再興のために戦っている様子が知らされる。
『日本書紀』巻第26(斉明天皇4-5年-658-659年)
百済が滅亡する1年ほど前、斉明天皇(655-661)は唐の長安に東漢長直阿利麻(やまとのあやのながのあたいありま)を朝貢使として派遣した。彼らは難破するなどしたが、苦労して長安までたどり着き天子(唐の皇帝)に拝謁、天子は日本の天皇の息災、蝦夷征伐の様子を尋ねるなどねんごろな対応を示した。しかし、部下から百済を攻撃する件を悟られないよう耳打ちされた天子は、日本からの朝貢使を軟禁、幽閉して帰国させなかった。
『日本書紀』巻第26(斉明天皇6年-660年)
7月、百済から遣使が来日し天皇に「大唐、新羅が連合して百済を滅ぼし義慈王、王后、太子は捕虜として連れ去らました」と奏じた。これを耳にした日本は兵を集め城柵の修繕、山川の遮断を行うなどして防衛を強化した。前年、百済に派遣していた大使小花下安曇連頬垂(つらたり)が帰国し「百済が新羅に攻め入り帰還する際騎馬が寺の金堂を昼夜休まず巡って草をはむとき以外は止みませんでした」と報告した。これは百済が攻められる予兆だったのだろう。
『日本書紀』巻第26(斉明天皇6年-660年)
高麗(高句麗)からの亡命僧侶(沙門)道顕の著書『日本世紀』によれば、「新羅の金春秋(新羅武烈王)は唐の蘇定方大将軍の助勢を得て百済を挟撃して滅ぼした。しかしこれは百済の自滅である。義慈王の夫人が妖女、悪女で国権を欲しいままにして賢臣を誅殺した報いが亡国を招いた」と記している。義慈王以下50人は洛陽で天子の面前に引き出されたが、天子は恩赦を施した。
『日本書紀』巻第26(斉明天皇6年-660年)
1か月後の10月、福信は百人余の唐軍捕虜(後に美濃国不破・片縣・二郡に帰化)を手土産に付け佐平貴智を斉明天皇に遣わし援軍を要請するとともに、「日本に(人質として)滞在中の百済の王子(せしむ)余豊璋を迎えて百済国王としたい」と乞うた。
斉明天皇は「百済は依るすべなく日本を頼ってきた。戈を枕に胆をなめて耐えている志を無にしてはならない。ともに戦い悪賊新羅を倒し百済を復興する。余豊璋をねんごろに送り届けよ」と命じた。
『日本書紀』巻第26(斉明天皇6年-660年)
(唐蘇定法将軍、新羅王金春秋両軍の挟撃に遭って都城泗沘を落とされた百済の遺臣)西部恩率(16位階の第3)鬼室福信(義慈王の従兄弟)は、残った百済軍をかき集め憤然と任射岐山(にきぎのむれ)に陣を整え、達率(16位階の第2)餘自進は中部に在る久麻怒利城(くまなりのさし-熊津城くまなりじょう)に構えそれぞれが新羅に反撃を始めた。当初は丸腰で棍棒を持って戦い、新羅軍から武器を奪い徐々に武器を持つ隊容を整えていった。この反撃に唐が加わらなかったので百済が優勢に戦った。福信らは、この戦闘で百済復活の足掛かりとなる城を奪還した。百済の旧国民はこの2人を、国を再興する鬼神の勇者佐平(16位階の第1位)と歓呼した。
これら一連の記述から、日本は百済の災難を傍観できない何らかの「因縁」を理由に参戦に踏み切ることになったと推察できる。「何故」白村江の戦いに「参戦」したのか、恐らくは、「日本・百済の戦争(391-404)」以来、百済との連帯が「日本にとって『義を見てせざるは勇無きなり』を発揚」させ、斉明天皇の「百済は依るすべなく日本を頼ってきた。戈を枕に胆をなめて耐えている志を無にしてはならない。ともに戦い悪賊新羅を倒し百済を復興する」『日本書紀』巻第26(斉明天皇6年-660年)の決断を引き出したのであろう。
日本の参戦決心は、日本人のDNA として繰り返し、勝敗に拘泥せず国内外の戦争において「止むに止まれぬ戦争」などと発動され、多くのケースで加担した相手と共倒れする歴史を記してきた。
「白村江の戦」時の朝鮮半島情勢および唐との関係を整理しておく。
① 戦争は「百済・日本」連合と「新羅・唐」連合の対決であった
② 高句麗には百済、新羅、唐が侵攻していた
③ 日本は唐、新羅、百済それぞれと交流交易の関係にあって敵対を回避したかった
④ 日本は唐による冊封体制参入要請を拒否していた
このような国際環境は百済に味方する日本を実に微妙な立場に置くことになっていった。
(3)「白村江の戦」の勝算
・指揮運用
鬼室福信の要請で日本に滞在していた百済王家直系の余豊璋は、日本の戦国期の小早川秀秋や豊臣秀頼と同様、戦時指揮官としては不適格であった。
日本から派遣された4万2千の兵士及び歴戦の名将上毛野君稚子(かみつけのわかこ)・阿倍比羅夫(あべのひらふ)そして百済軍の優れた指揮官鬼室福信を疑心暗鬼し、助言を採用せず鬼室福信を殺した上、敗色濃い戦況の中、最後は逃亡してしまう。
対する唐・新羅連合軍は、唐の劉仁軌将軍、新羅の文武王の下、実に連携の取れた士気旺盛な戦闘に徹して連戦連勝して行った。
・戦力比
日本派遣軍4万2千人、百済5 千人、戦闘船は唐の大型船に比べ、小型船800余隻であった。対する唐・新羅連合は、唐軍13万人、大型唐船170隻余、そして新羅軍5万人であった。戦闘結果は、唐・新羅側は不明であるが、日本・百済側は、船400隻余、兵1万人、馬1千頭を失っている。
・指揮統率・作戦運用
指揮官の能力、統御のセンス、敵味方戦力比、兵站及び根拠基地の有無、天象気象地形地物の情報など、いったんは滅亡した百済軍はさて置き、「日本・高句麗戦争」を経験しているにもかかわらず、日本軍の戦い方は余豊璋に振り回されるがままであった。
白江においては、中国黄河が運ぶ砂によって朝鮮半島西の黄海沿岸にできる干潟に日本の小型戦闘船のほとんどが打ち上げられ、身動きできないまま焼き討ちされている。
滅亡国家の再興戦争では「籠城作戦」は自軍を敗戦に導く。数的劣勢を克服する戦いでは、専ら機動作戦を変幻自在に行って失地を回復し、根拠基地を増やし「燎原(りょうげん)の火」の如く戦わなければならないのだが、緒戦から「防戦・籠城」に入った戦いは自滅を待つだけであった。
暗愚の指揮官余豊璋の無知な戦いが開戦から日本・百済連合軍敗北の運命を決し、百済の再興を妨げたと言える。
今日、日本の安全保障政策における「シビリアン・コントロール能力に対する不安」が白村江の戦いやアジア・太平洋戦争の二の舞を起こす蓋然性は極めて高いことに思いが至ってしまう。
ちなみに、アジア・太平洋戦争の米日戦力比(アメリカが日本の○○倍)は、人口が1.83倍、兵力が最大時1.49倍(1230万人:826万人)、1940年国内総生産が4.61倍(9,308億ドル:2,018億ドル)、最大時の艦船保有が2.89倍(427.2万トン918隻:148万トン385隻)、航空機が3.73倍(40,810機:10,938機)、石炭供給が11倍、石油供給が222倍、鋼鉄生産が3倍、砲弾供給量が40倍、アルミが5.6倍であり、国力に圧倒的な差がある大国強国に対する挑戦には戦闘力を経済的かつ有効に使う緻密な戦争計画が必須であった。
『世界最終戦論』において国力の整備がどれほど重要かを説いた石原莞爾がどのように見ていたか、「日米決戦」について東条英機が如何に無知蒙昧な精神論で戦おうとしていたか、「白村江の戦」において「彼に対する我の戦力差の甚だしく劣勢な戦いに勝算が無い」ことを日本は既に学習済みであったはずである。
*次回第19回に続く[ 3「白村江の戦」のための急速準備―徴募・造船―]