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第6章 領邦国家の成立 第2節 王権神授と王位継承

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク

第6章 領邦国家の成立
第1節 封建領主の支配
第2節 王権神授と王位継承
第3節 王位継承戦争

第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章  戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 封建社会において領域および領民を支配する封建領主が統治権を確立維持するため、被統治者に対してその根拠を明確にすることは、封建領主の地位とその権威を保障する上で重大な関心事であった。

 他方でエクメーネの領域統治が地理学的に一領域・一民族・一言語の社会に限って行われ、かつ、エクメーネ誕生時代から集団が共有する、例えば集団で行わなければならない稲作のような生存のための作業において自然発生する穏やかなリーダーシップの世界では「理屈」抜きに成熟し確立して行く「権力」の発生があって、統治者の権力・権限をことさら理論形成する必要が無かった。その代表が日本のケースである。

 先に述べたが「所与の国家日本」では、「民」を巻き込んで覇者たる地位を激しく争い勝ち、奪い取る必要が無いため「王権神授」、「権威主義」、「社会契約論」に関する「理屈」は縁遠かった。

 統治する領域・領民、言語や生活の風俗習慣が共有されない「他」領域・「他」民族が隣接して存在して絶えず権利や利益の競合で争わざるを得ない「エクメーネが競合する」、「エクメーネが集団移動する」、「エクメーネとエクメーネの境が前進後退する」地理学的事情から抜け出られない大陸では「いわゆる異民族共生社会」の統治に統治者の権限を「王権神授」、「権威主義」、「社会契約論」などをもって「民」に認知させ「服従心」を得る必要があることを否めない。

 それは、「統治」が実に地政学的、”Geopolitik” である大陸において悩ましく、また関心を寄せるテーマとして扱われてきたことでもある。

 いわゆる権威主義は、いわば暴力的に従属させ、非服従に対しては暴力をもって制裁する形態を採っている体制であり、今日でも「力の支配」が布かれている国家の統治体制を言っている。
 それは必ずしも「恐怖政治」ではなく、被統治の対象である民衆が喜んで受け容れる場合もあって、究極には「権威主義」の源に居る統治者の意に添わなければ対象者が排除されてしまうことになる比較的緩やかな体制もある。
 また「権威主義」では常に自国よりも力の強い相手が現れ、自国を侵略する恐れにさいなまれ、その恐怖から逃れるために、相手が力尽くで迫ってきたら甚大な被害の及ぶ報復を行う。その報復は、常時、相手に意識させ得るよう様々な形で、当の相手に対して直接間接に強い示威活動を行って「力の程度」を知らしめる活動を行うのが通例である。

 こう考えると「権威主義」は厄介で悩ましいが理解し易い。しかし相手の迷惑行為を止める手立てに乏しい。

 ここで「王権神授」を採り上げたのは、王権神授を経て社会契約、そして民主主義に至った大陸に所在する諸国との関わり合いを理解する上で、王権神授を分かっている方がより良いと考えたからである。それは地政学的、”Geopolitik” という文脈においても役立つに違いない。

1 王権神授の所以

(1) キリスト教にルーツ

 ローマ帝国がキリスト教を国教とした理由は、キリスト磔刑後約300年にしてキリスト教信者の数が一般民衆だけではなく、ローマ皇帝下における将軍、役人において侮れない数に上っておりキリスト教の容認が統治にプラス効果をもたらすと判断されたと考えるのが妥当であろう。迫害や排除は、逆効果であって属州においても同様のローマ統治にキリスト教信者を取り入れる利を採ったと考えるのが ”Geopolitik” 上も妥当である。

 他方で、キリスト教伝説的理由も語り継がれてきた。ローマ皇帝ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(在位西方正帝312-324・ローマ皇帝324-337)は自身、306年に正帝を自称以来、ローマ帝国における複数の自称皇帝たちを排除する戦いを行っていた。マクシミアヌスを310年、マクセンティウスを312年、最後にリキニウスを324年に倒しローマ帝国の再統一を果たした。この際の勝利に、別けてもリキニウスとの苦戦にキリスト教の神の啓示があって勝利したとされている。

 313年、コンスタンティヌスが行ったキリスト教を含む「宗教寛容令(ミラノ勅令)」によってローマ帝国はキリスト教を公的に容認した。

 コンスタンティヌスは、325年にキリスト磔刑の場所とされるゴルゴダの丘に聖墳墓教会を献堂した。加えて、コンスタンティヌスの母ヘレナが夢でキリスト磔刑の十字架が埋められている場所を告げられ、ゴルゴダの丘であったとされる場所を掘り起こし326年に十字架の木片の一部、磔刑に使用された釘を発見、現在はキリストが実際に身に着けた「聖遺物」として大事にされている。

 この一連のコンスタンティヌスの行為は、皇帝位に就くに当たって「神の加護」に対する感謝を表すと同時に「皇帝位と神の啓示」を、たとえそれがキリスト教を統治の道具(手段)とするのであっても、キリスト教をローマ帝国の国教に導き、「皇帝は神の代理者」とみなす伏線としたと考えられる。状況証拠ではあるが、「王権神授」の起源をここに求めることもあながち間違いとは言えまい。

 イエス・キリストは「王」と呼ばれ磔刑に処せられたのであるが、その流れにおいて封建領主や貴族が「神から与えられた権利」として自分の立場を「王権神授」をもって正当化する時代精神があったことも「王権神授」確立の後押しをしたと言える。

 イエス・キリストやその弟子たちが行った超常現象を身近にした民衆のキリスト教への帰依は、コンスタンティヌスやその母ヘレナに起きた超常現象によって拍車がかかり、王権にまで及んだキリスト教の「秘跡」が「王権神授」を正当化・神聖化して、王権の権威を高めたことであろう。それは、封建領主たちの中央集権化を進める一層の後押し効果となった。

(2) 宗教改革と王権神授

 宗教改革(1517)はカトリックが腐敗を重ねた結果起きた浄化運動であり、カトリックに対抗(抵抗)した聖職者やキリスト教信者がプロテスタント信者に転換していった。プロテスタントは、「王権神授」も癒着・腐敗の一因であると成し、宗教改革によって王権神授の絶対性が揺らいだことも確かである。

 カトリックとプロテスタントが対立した三十年戦争(1618-1648)は封建社会における封建領主の再編を促した。

 西ローマ帝国滅亡の後、その残滓を引き継いだのはローマ教皇が支持する神聖ローマ帝国の建国(800)であった。ドイツの大帝カールⅠ兼ねてフランス国王シャルルマーニュⅠはローマ教皇から王権神授そのものを象徴する戴冠を受けた。しかし神聖ローマ帝国は、一国の国家形態ではなく、現在のフランス東部、ドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア東部に所在する300にも達する封建領邦の連合体であった。

 三十年戦争はこの神聖ローマ帝国を戦場と化し、神聖ローマ帝国の封建領主連合体は崩壊してしまった。本来カトリック側に立って戦うはずであったフランスは、宰相リシュリューの「神聖ローマ帝国に代わるヨーロッパの主導権をフランスが握り、ハプスブルグ家に代わってフランス王朝ブルボン家が立つ」策謀実現のためプロテスタント側で戦った。

 リシュリューは戦争そのものの主役をスウェーデンのグスタフ・アドルフⅡに譲るものの、グスタフⅡが戦死したため終戦への道筋を演出する主役を担った。このフランスの宰相リシュリューはカトリックの枢機卿でもあった。終戦を見ずに没するがリシュリューの後任者マザランもまた枢機卿であった。それにもかかわらず、ここには王権神授ではなくドロドロした政争に依る実権掌握の時代精神が旺盛である。

 当然敵対したローマ教皇とは対立したわけだが、三十年戦争終戦後のヨーロッパ秩序の形成を主導したのがフランスであり、リシュリューの野望は遂げられた。

 三十年戦争後のウエストファリア体制は、神聖ローマ帝国麾下に在った300にも達する大中小封建領主の主権を認め国境が明定され平等性が謳われた。

 この講和会議が行われ、ウエストファリア体制構築がなされたミュンスターとオスナブリュックはドイツ・ベルリン東方約350キロメートルに位置している都市である。2022年10月、ミュンスターにおいてG7外相がウクライナを攻撃しているプーチンの戦争について休戦・終戦を協議したが、日本のメディアでミュンスターが900万人の犠牲者を出した三十年戦争の終戦会議が行われた場所であることに触れたのは一紙だけであった。

 閑話休題、「主権国家」体制の姿を導いた三十年戦争は、当然のように「王権神授」をアーカイブに追いやることになった。

2 ナポレオン戦争

(1) フランス革命

 フランス革命は市民革命であって、王政の廃止に成功した。当然、王権神授は消滅する。しかし、王権神授は衰退したものの「権威に対する絶対的な服従」の思想は残った。それが権威主義と言われ独裁色が強い、現在でも見られる統治思想である。

 キリスト教を国の宗教として取り入れた国では、王や皇帝が神によって選ばれ、その権力は神から授けられたと考えられてきた。キリスト教の広まりは、また神の名のもとに統治する、及び戦争する正当性が謳われる時代精神を作ることにもなった。

 もう一方で王権神授は神の絶対性からの権威建てが強調され、絶対王政が誕生した。他方、社会契約説が生まれた要因は、民主や人権の思想を導入する絶対性への批判が込められていたと考えられる。

 しかし、王権神授と絶対王政は双方とも王権の正当性を保障する手段として用いられた。

 王権神授は、神から下された王や皇帝の権力・権威が神の意志から来るのであって、王権の正当性や権威を神に帰属させ不可侵なものとしていた。困ったことにこの時代精神は、教会に社会的、政治的影響力を与えた。それは、教会が王権神授を言うことで王や皇帝と癒着の温床を作ることにもなったからである。

 他方、絶対王政は、王や皇帝が国家の全権力を握り、王や皇帝の意思が国の法にとって代わる体制である。優れた統治者であれば国の隆盛をもたらすが、逆の場合は国を亡ぼすだけではなく世界全体に受け入れ難い時代精神を生むことが多い。それはむしろ、宗教と距離を置いた権威主義に近い体制であると言えるかも知れない。

 このように考えるとフランス革命は中世と近世を分け、王政と民主政を分ける現象であったと言えよう。フランス革命に含めて考えるべき社会現象ではあるが、次にナポレオン戦争を王権神授の消滅を決定づける現象としてまとめにしたい。

(2) ナポレオン戦争

 ナポレオン戦争が敵に回したのは対仏大同盟に象徴される封建領主国家群であった。勿論封建領主国家は王権神授による王制をしいていた。封建社会において特権を享受していた領主たちを相手にナポレオンは「王権神授を絶滅させる市民革命キャンペーン」を行っていたのではないだろうか。

 ナポレオン皇帝の戴冠式を見てみたい。

 この絵でナポレオンはすでに戴冠しているのだが、未完成の下絵にはナポレオンが自ら戴冠しているスケッチが残されている。本来、皇帝戴冠の儀式はローマ教皇が行ってきた。その残滓は、英国王戴冠はカンタベリー大僧正が行っていることに見られる。「戴冠の絵」はナポレオンが手ずから后妃ジョセフィーヌに戴冠を行っている絵である。
 ナポレオンの後方にいる教皇は右手で十字を切って祝福している様子だが、祝福している顔には見えない。実は、当初、所在無げに両手を膝にして座っているだけの構図であった・・・実際そうであったであろう・・・が、ナポレオンが祝福するように描けと指示したという言い伝えがある。

 即ち、「王権神授」をナポレオンが拒絶している象徴が、本来王権神授の象徴でもある「戴冠式」の絵に描かれているのだ。ローマ帝国皇帝への端緒を作ったユリウス・カエサルがこの戴冠式に参列している。ナポレオンの背後に目戦を移すとカエサルのデス・マスクと全く同じ顔がナポレオンを見つめているのだ。カエサルは「王権神授」ではなく、全くの実力で地位を得たことをカエサルに認めて欲しかったのであろうか。

 ナポレオンが神ではなく自分の力で皇帝位を得たこと、カトリックと一線を画すことを意図して描かせた絵として「ナポレオン戴冠」を見ると、まさに、「王権神授」の時代と決別した時代の分かれ道の象徴とも見て取れるのである。

 もう一つの状況証拠は、ナポレオンを相手にする包囲網が「対仏大同盟」と称した封建領主国家群であったことである。また、歴史は、ナポレオンのモスクワ遠征失敗、ナポレオンの百日天下、ワーテルローの敗戦によって「戦上手のナポレオンの退場」に至るのだが、棚ぼたの封建領主国家の「王政復古」はつかの間の封建領主たちの春であった。

 ヨーロッパにおける「王権神授との決別」は王政復古「ウィーン体制」の終焉を告げた「諸国民の春(1848革命)」で再確認された。