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第1章 ジオポリテイ―ク序説 第3節 戦争の世紀を演出したアクター

〈国際地政学研究所の林吉永さんの「避戦の地政学」連載の第3回目です。「地政学」というと戦争するのに不可欠な学問分野だと思われてきましたが、タイトルにあるように「避戦」の立場から地政学の転換をめざすものです。林さんは航空自衛隊の空将補を経験されたあと、防衛研究所で戦史部長を務めました。40回以上続く予定です。〉

 「”Revolution in Military Affairs”:略語 ”abbreviation” はRMA」という言葉がある。日本語訳「軍事革命」ではクーデターと誤解されることからRMA(アール・エム・エイ)が常用語化している。その含意は「軍事的な、あるいは軍事上の変革」を言い、「思想や技術など軍事に係わる変革が戦争を変え、戦間期の社会現象に転化し、その社会変化もまた戦争を変える」である。

 RMAという言葉の発端は、1955年、英国の歴史学者マイケル・ロバーツが、英国クィーンズ大学ベルファストにおける就任記念講演で、「16世から17世紀にかけてスウェーデン国王グスタフⅡ・アドルフ(1594-1632……以下括弧内「年」を省略する)がスペインの覇権に対抗した戦争において、傭兵の軍団制を整備し、歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦戦法による戦闘効果を上げるなどの軍制改革を行った」ことを「1560-1660年のRMA」と指摘したことにある。

 当時の戦争は傭兵が主力の部隊同士が戦った。傭兵は、戦争で稼ぐプロであって戦死すると元も子も無くなるから「国や国王に命懸けの忠誠心を示す」など考えられなかった。グスタフⅡはその傭兵軍団を意のまま戦わせる軍事制度を布いたのである。グスタフⅡのRMAはナポレオン戦争まで引き継がれていく。

 ナポレオン戦争は、フランスの市民革命を伝播させ諸国の封建王政を打倒し国体を変化させるRMAにもなっていた。ナポレオン戦争は、これまでの封建領主が覇権を争ってきた戦争を実に政治的な意味を持つ新たな戦争に姿を変えていった。

 ナポレオン戦争の期間についてはいくつかの説がある。しかしその戦歴は、ナポレオンが主役を演じた第1次イタリア遠征(1796)から、エジプト遠征(1798-1799/1801)、第2次イタリア遠征(1800)、オーストリア戦役(1805/1809)、ドイツ・ポーランド戦役(1806-1807)、スペイン独立戦争(1808-1814)、ロシア戦役(1812)、独・仏戦役(1813-1814)、そしてモスクワ遠征失敗後の百日天下終焉となったワーテルローの戦い(1815)までの20年間であった。

 ナポレオンのヨーロッパ各地遠征の中でもモスクワ遠征が最大規模だった。ナポレオン軍70万人(うち27万人が仏国軍)は、パリ・モスクワ間の約2500kmを進軍した。オーストリア戦役時、ナポレオンは、1800年から5年かけて大砲が通れるシンプロン街道を整備している。幅員は10mも無かったようだ。この道を基準に当時、仏国軍の武装兵が8列の縦隊でパリ・モスクワ間を行軍する場合、粗々(あらあら)の計算でも縦間隔1m、3万人の縦列は約3万m=30kmに達する。先頭が戦場に到着してから1日以上かけないと最後尾は到着しないのだ。1日25 km、10時間の進軍速度でモスクワまで約100日を要するのである。冬将軍とも戦わねばならなかったナポレオン軍は、敗戦後に生き延びて帰還した将兵は2万2000名程であった。

 ナポレオン打倒のためほぼ一貫して連合したイギリス/オーストリア/ロシア/プロイセン/ハプスブルク/スウェーデン/ポルトガル/オスマン/サルデーニア/教皇領を中心とする対仏大同盟軍は、7回目の対決でモスクワ遠征に失敗したナポレオンを倒した。同盟領邦諸国は、ウィーン体制の成立(1815)でヨーロッパをナポレオン戦争以前の体制「王政復古」をかなえた。

 しかしナポレオン戦争が蒔いた「自由主義・国民主義」を掲げるフランス市民革命の種は、ロンドン(チャーチスト運動)、フランクフルト(国民議会運動)、ベルリン(3月革命)、ワルシャワ(ポーランド独立運動)、パリ(2月革命)、プラハ(ベーメン民族運動)、ミラノ(イタリア民族運動)、ウィーン(3月革命)、ブダペスト(ハンガリー民族運動)、ローマ(共和国成立)を始め、ダブリン、マンチェスター、ボルドー、マドリード、リヨン、トリノ、ヴェネツィア、ドレスデン、クラクフとヨーロッパ全土に及ぶ「諸国民の春(1848年革命)」によって一気に開花することになる。

 即ち、グスタフⅡが30年戦争で示したRMAは、ナポレオン戦争に至り戦争を世界大戦の様相に変え、しかも「王権神授」や「神の与える正当性」という『聖書』(キリスト教)に依拠する戦争に代わって「政治の継続としての戦争」を謳う『戦争論』が「戦争のバイブル」となる社会現象を発生させた。

 節目となるのはヨーロッパ世界が「諸国民の春」を経て国民国家形成に進んだ時代である。封建領主と傭兵による戦いは、グスタフⅡの軍制改革や徴兵制度の導入で、国民の権利が依拠する国家の主権と国益と国民自らの生命財産を守るため国民自ら戦う時代へと移った。諸国民の春1848年からの100年間は、国軍同士が戦う「伝統的戦争」がヨーロッパ以外、地球上に拡大する「戦争の世紀」でもあった。

 世界史において大方が、第1次世界大戦、第2次世界大戦発生の20世紀を「戦争の世紀」と言う。しかし、「戦争の世紀」は、20世紀で括(くく)るのではなく、戦争史・戦争学において近代戦争が、戦争の本質を突く理論と実戦に満ち、犠牲と破壊の極に導く始まりに起点を置くべきだろう。「戦争の世紀」は、RMAという視点でも、軍団規模、兵器・輸送・通信の発達、そして犠牲や破壊の規模が激化増大するなど劇的な変化を見せる新たな戦争であって地政学の昇華である。

 戦争の世紀においては、戦争の本質と軍事力の役割を追究するだけではなく、覇権を握るための戦争理論を導く論考が盛んであった。中でも「地政学」は、地理学が発展させた「覇権掌握」に必須の新たな思考法として登場した。ここで、次章以降の理解の一助とするため地政学を代表するアクターたちを紹介しておきたい。

 カール・V・クラウゼヴィッツ(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz 1780-1831・プロイセン・・・以下「ドイツ」という)は、ナポレオン戦争渦中の軍人としてナポレオン戦争に学び、「戦争は他の手段をもってする政治の継続」、「戦争は暴力に基づく相互作用が働く決闘の拡大」、「戦争の三要素は『国民・軍隊・政府』」など近代戦争の本質と軍事力の役割を、没後、妻マリーがクラウゼヴィッツが遺した手記を編纂した『戦争論』(1832)に説き、「戦争の正当性」、究極の戦争「絶対戦争・殲滅戦」など後世の戦争学に多大かつ強い影響を及ぼした。

 チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin 1809-1882・イギリス)は、生物学の研究を通して「全ての生物は親から子へと生存と繁殖に有利な自然選択をするよう変異(進化)を続けてきた」、「その進化は弱肉強食、適者生存能力を高揚させた」などを説いた『種の起源』(1859)を著した。この「進化論」は人間世界にも適用され「社会ダーウィニズム」を生んだ。

 アルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred・T・Mahan 1840-1914・アメリカ)は、米国独立宣言(1776)後の第1期フロンティアと呼んだ「西部開拓」時代終息(1890)に続く、第2期フロンティアを促した。マハンは、米国が海洋覇権の座を英国から禅譲されるという前提で、『海上権力史論』(1890)にシーパワーの優越によるアメリカの太平洋覇権の掌握「西進戦略」を主張、セオドア・ルーズベルト(1858-1919)の戦略ブレインとなった。

 フリードリッヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 1844-1904・ドイツ)は地理学と政治学との融合を推進、『人類地理学』及び『政治地理学』(1882-1891)を著し「生存権 “Lebensraum”(独語)の確保」を主張、「国が富み力をつけ人口が増えると国境線を前進させる」の言葉を遺した。地理学をベースに地政学の確立を喚起した功績は大きい。

 ルドルフ・チェーレン(Kjellen Joan Rudolf 1864-1922・スウェーデン)は、ラッツェルに傾倒し、国家が地理的有機体であることに鑑み生存圏の要件は「自給自足経済 “Autarkie”(独語)」の確保であるとし、『領土・民族・国家』及び『生活形態としての国家』(1916)を著した。

 ジュリアン・コーベット(Julian S. Corbet 1854-1922・イギリス)は、英国海軍が七つの海を制海する戦略を掲げて予算要求した際、「英国海軍戦略の要諦は、到底不可能な七つの海の支配ではなくシーレーンとチョークポイントをコントロールすることである」と主張、ウィンストン・チャーチル(1974-1965)の激賞を得た。論考著作『海洋戦略のいくつかの原則』(1911)に局限戦争論が謳われている。

 カール・エルンスト・ハウスホーファー(Karl Ernst Haushofer 1869-1946・ドイツ)は、在日ドイツ大使館武官付補佐官勤務(1908-1910)を機に、地理学・地政学研究の対象をアジア・太平洋・日本に置き『大日本』、『太平洋の地政学』を発表(1942)するなどした。日本の「大東亜共栄圏構想」は、ハウスホーファーの「世界を地域分割して覇権掌握する “Pan Region” 論」の一部である ”Pan-Asia” 論の影響を受けている。ミュンヘン大学教授時にルドルフ・ヘス(1894-1987)を介してアドルフ・ヒトラー(1889-1945)と邂逅、地政学の影響を与えた。

 ハルフォード・マッキンダー(Halford John Mackinder 1861-1947・イギリス)は、地政学論考の創始とされ、著書『民主主義の理想と現実』(1919)において、「ランドパワー(ハートランド)の台頭・進出は必至、然るに海洋国家は、均衡・抑止にミッドランド・オーシアン連合構想を実現すべき」と警告を発した。
さらに、マッキンダーは、第1次世界大戦後のベルサイユ条約調印時、過酷な賠償を課せられた敗戦国ドイツ代表の耳元でドイツの守護天使が、「東欧を制するものがハートランドを制し、ハートランドを制するものが世界島を制し、世界島を制するものは世界を支配する」とささやきドイツの再興を促していると警戒を比喩している。

 ニコラス・スパイクマン(Nicolas Spykman 1893-1943・アメリカ)は、マッキンダーの思想を米国の戦略に応用、国家の対外政策は位置関係から検証可能として、マッキンダーが名付けたクレッセント(ユーラシア大陸縁辺に三日月状に所在する海洋諸国家)をリムランドと呼称、シーパワーをもってリムランドを米国の覇権と安全保障にとって都合のいい関係に導かねばならないと主張した。
またスパイクマンは『世界政治とアメリカの戦略―アメリカにとっての勢力均衡―」(1942)を著すとともに、マッキンダーを引用してアメリカの目指すべき戦略を「リムランドを制するものはユーラシアを制し、ユーラシアを制するものは世界の運命を制する」と置き換えている。

 バジル・リデル=ハート(Basil Henry Liddell-Hart 1895-1970・イギリス)は、第1次世界大戦の塹壕戦に参戦、凄惨な犠牲発生の体験から、第2次世界大戦中にクラウゼヴィッツの「殲滅戦」を批判、犠牲を局限するための『間接戦略論』(1929)を主張した。
 「『戦争論』が世界大戦をエンカレッジした」、或いは「平和を欲するなら、戦争を理解せよ」とリデル=ハートが行ったクラウゼヴィッツへのアンチテーゼは当時の時代精神に受け入れられなかった。
 しかし、戦争の世紀を経た今日、大戦中に「非戦論者」と疎外されたリデル=ハートの主張は「避戦論」として再評価に値する。

 アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler 1889-1945・ドイツ)は、ミュンヘン一揆(1923・武力的クーデターによるベルリン政府転覆)に失敗すると、政治的な手段によって第1次世界大戦の屈辱からドイツ再生を図る方向転換を行った。ナチスによる絶対多数政党の「指導者原理」によってドイツを牛耳り、軍事強国を作り上げ「地政学を集大成して覇権掌握を狙う」連合国相手のリベンジである。
 ヒトラーの著作『我が闘争』(1925・1926)は、「東方政策」の地政学及び地理学的記述に満ちている。その含意に、「指導者原理の絶対性」、「人類地理学上の人種主義・優生学・ファシズムによって説かれる選民思想」、「高度文明を担うのは超個人主義に優れたゲルマン民族」、「全人類のリーダーたるべきはドイツ民族の宿命」、「東方生存圏拡張はゲルマン人の使命達成にとって必須要件」とある。