第2章 古代の戦争から読み解く 第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第3節 ペロポネソス戦争
第4節 古代中国の誕生と戦国時代
第5節 アレクサンドロスⅢの東征
第6節 中国の統一
第7節 カエサルのガリア遠征とローマ帝国帝政
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界
1 ペルシア帝国は何故ギリシアを目指したか
ここではペルシア戦争の舞台を地理的に確認しながら、「ペルシア戦争に至る原因」の地政学的理解、「ペルシアが行った壮大なギリシア遠征」のイメージ形成を試みる。
紀元前5世紀、ペルシア帝国の支配は、東はインド・インダス川、西はエジプト・地中海・エーゲ海・マケドニア、北は黒海・カスピ海・アッシリア(現イラク北部)・ソグディアナ(現中央アジア・タジキスタン・ウズベキスタン)、南はペルシア湾・オマーン湾・アラビア海に及んでいた。
当時、ペルシア帝国は陸軍大国であった。古代戦争は陸戦が主体で、艦隊決戦は海洋支配が可能なシーパワー保有勢力に限られていた。ペルシア帝国は、地中海進出に最適の地政学的戦略起点となる帝国領域西端(地中海東端)を支配していた。
近現代の地政学では、マッキンダーの「ハートランド(陸軍国)の海洋接続地帯(クレッセント)への進出抑止」、スパイクマンの「米国の大陸侵入のための要衝確保に必要なリムランド(海洋国)との良好な関係維持」という戦略思考に重ねられる。
鉄器文明を誇ったヒッタイト(紀元前15世紀~紀元前13世紀)が存在し、古代農業発祥の地とされ「豊穣の地」を意味するレヴァント、カナンの名が遺るこの地域(「歴史的シリア」の呼び名がある現在の「トルコの一部・シリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル・パレスティナ・エジプトの一部」)には、紀元前13世紀頃エーゲ海島嶼や紅海から「海の民」と呼ばれる集団が移動してきた。その代表がフェニキア人である。
従って、ペルシア帝国は、海洋民族フェニキア(庇護を受ける側のクライアント)に影響力を及ぼすパトロン(庇護する側)となり、強力なシーパワーを保有することになった。
アナトリア半島は西アジアからエーゲ海に突き出ている。アナトリア半島の北はダーダネルス海峡(ペルシア戦争時は「へレスポントス」という)・マルマラ海・ボスポラス海峡が接しヨーロッパと境を分ける。
フェニキア(現シリア・レバノン)は、ビブロス(現レバノン・ベイルート北方30km・世界遺産)、シドン(現レバノン第3の都市)、アルワド(現シリア第2の港湾都市)の都市国家を建設した。フェニキアからアナトリアの南縁とキプロス島との間を約1000km西行するとロードス島などの島嶼が点在するエーゲ海の南東海域に出る。
アナトリア半島と島嶼とが複雑な地形を作っている一角にハリカルナッソス(現トルコ・ボドルム)が在る。ボドルムには紀元前4世紀半ば、「世界七不思議のひとつ」国王マウソロスとその后の巨大壮麗な霊廟、アレクサンドロスⅢ東征時緒戦の戦場、十字軍ボドルム騎士団が建設した聖ペテロ城の歴史があるが、何よりもハリカルナッソスはペルシア戦争を記した『歴史 ”Histories”』の著者ヘロドトス誕生の地である。
エーゲ海南部のロードス島、クレタ島海域、そしてギリシア南部のペロポネソス半島、アナトリア半島南部はドーリア人の同族都市国家群が形成されている。
ハリカルナッソス北部のイオニア地方およびキオス島、サモス島、キクラデス諸島、そしてアテネおよびその北方のエウボイア島の都市国家群はアカイア人の流れをくむイオニア人の同族都市国家である。
イオニア地方をさらに北上するとエーゲ海と黒海を結ぶダーダネルス海峡南方の至近にトロイの遺跡と比定されているイリオスが在る。北にヨーロッパ、南にアジアを分断しているのは、へレスポントス海峡から東へ、マルマラ海、ボスポラス海峡である。ボスポラス海峡を東へ抜ければ黒海に出る。へレスポントス海峡を渡海すると西方にマケドニアが在る。マルマラ海周辺からマケドニアにかけてもイオニア人の都市国家群が存在する。
イオニア地方からトロイ、およびギリシア・アテネとマケドニアそれぞれにアイオリス人の同族都市国家群が存在した。
古代ギリシアを構成していたのは、これらアカイア人、ドーリア人、アイオリス人、イオニア人の集団である。
エーゲ海西の沿岸部のギリシアとシンメトリーに、ヨーロッパから南下した民族がトロイからハリカルナッソスまで約400kmにわたり都市国家が存在し、東から圧力をかけるペルシア帝国の覇権に対し反発していた。それはギリシアの都市国家群の同族と共有する意識でもあった。
ペルシア帝国は、イオニア地方の反発に手を焼いていた上、アテネがイオニアに味方して介入したため戦争規模を拡大しなければならなくなった。ペルシア帝国は、支配下の反乱鎮圧にとどまらず、イオニアの本家ギリシアの強力都市国家アテネとの「対外戦争」に戦略転換を迫られ、アテネ制圧に加えてギリシアの有力都市国家相手に直接対決する覇権拡張の侵略戦争を選択することになった。ギリシアを制すればイオニアの反発は消えるというわけである。
2 ペルシア軍のギリシア侵攻作戦
ペルシア帝国最大規模の第3次ギリシア侵攻は、紀元前480年、国王クセルクセスⅠ自から大軍を率いた戦争である。ヘロドトスの『歴史』(岩波文庫・松平千秋訳)によれば、ペルシア帝国陸海軍(以下「ペルシア軍・ペルシア陸軍・ペルシア海軍」という)には、ペルシア人はもとより、メディア・アッシリア・バクトリア・スキタイ・インド・パルティア・ソグディアナ・アラビア・エジプト・エチオピアなどから170万人に達する陸上兵力、フェニキア・シリアが1,207隻の三段櫂船(3階構造の左右舷側に漕ぎ手180名程度が30人前後3段に分けて配置されている戦闘艦)を提供したと記されている。
乾坤一擲の大決戦に臨むクセルクセスⅠは、最大規模のペルシア軍を指揮してどのような戦略・戦術を考えていたか。ヘロドトスの『歴史』は戦闘についての記述に満ちているが、勝利するための企図については詳述に欠ける。ここでは、史実の有無をさて置き大胆に、且つ軍事的合理性をもって考えてみる。
「アテネを倒せば勝敗が決着する」
クセルクセスⅠの思案はペルシア軍のアテネ挟撃に絞られた。このため、陸・海軍の行軍、航海は「同時にアテネとの決戦・殲滅を目標とした戦場必着」が計画されたはずだ。
この時代、地図や時計は無い。従って作戦計画には諸情報に不明点が多く「定時定点必達」は至難であったであろう。しかし、今次のクセルクセスⅠが率先垂範する大軍の移動は第3次遠征であって、第1次・第2次遠征における経験値の蓄積は同時に進行する陸・海軍の超長距離遠征の成功可能性を高めていた。
例えば「距離」は第1次・第2次遠征の陸上行軍によって計測された筈だ。現在、陸上自衛隊では徒歩行進の基準を、歩幅約75m、速度は1分間に110~120歩程度と設定されているそうだ。古代シュメールでは、60進法の時刻設定が紀元前2000年頃に考えられていたというから、1日の歩数或いは時間を設定した行軍基準が設定されていれば地点間の距離、移動所要時間が割り出せる。
ペルシア陸軍は、支配下の民族から駆り出されている。従って、兵力を海上輸送する場合と異なり、各支配地がギリシア遠征の発起点となるのだが、陸上兵力は、アテネを挟撃するため可能な限り早く戦力を集結し指揮下に置かなければならない。ペルシア陸軍が最も早い時期に兵力を集結させギリシアを目指す場合、イオニアを牽制し、またペルシア陸軍兵力の一部の海上輸送に適したフェニキアの港湾都市が最適である。
ペルシア陸軍50万人の行軍を考える。ペルシアの道路についてデータが無いので、ローマ帝国のアッピア街道を基準に考える。恐らくは当時の戦車の幅が基準であろう。石畳の道路幅は3m、排水の余地が両側に1.5m、さらにその外側に7mの余地が設けられ、道幅全体が20mの構造である。アッピア街道を参考に兵士が前後間隔1mをとって2列の縦隊で行軍した場合、単純に、50万人の隊列は25万m(250km)に達してしまう。1日8時間、時速4kmであれば先頭が戦場に到着後8日しなければ最後尾が追い付かない。
陸軍が特別の輸送手段無く徒歩で進軍する場合、単に歩くだけではなく、食糧補給、休憩、体力・健康の配慮、隊列・部隊規律の維持、さらに部隊発進後は常在戦場であり敵の不意急襲に備える警戒、即応の緊張を維持しなければならない。渡河・渡海、山岳踏破、悪天寒暖の克服など地形の変化に適応するのも容易ではない。
50万人の一個所での宿泊給養は至難である。ペルシア陸軍の行軍は、フェニキアを起点とし約1000km西行、ハリカルナッソスに至りアナトリア半島を北上しトロイまでさらに約400km、へレスポントス海峡を渡海して古代マケドニア王国・テッサロニキまで約400km、そして南下350km余でアテネである。エーゲ海沿岸の四分の三を巡り総距離おおよそ2150km、休養日無く68~76日間の行程でアテネとの決戦場に到着する。
3段櫂船の場合、第1次・第2次遠征航海時の所要時間、一定時間の漕ぐ回数など経験値から基準を設定しておけば航程の諸要素算出が可能である。1隻に200人の漕ぎ手・戦闘員・水夫を乗船させた3段櫂船1207隻の海戦参加兵員総数は24万1400人を数える。
日本の江戸時代の千石船を復元した造船費用が約1億円であった。敵戦闘艦に激突させ破壊する戦闘法を採っていた3段櫂船の現在価格は、漕ぎ手のための3階構造や船首船底に銅製の衝角を持つなど特殊技術が必要なことを勘案し大雑把に千石船造船経費の5倍として第3次遠征だけで6000億円を要したわけである。
ギリシアで製作された復元3段櫂戦闘艦オリンピア号の戦闘最大速度は時速17km、巡航時速4kmを記録している。フェニキアの港湾都市からハリカルナッソスまで約1000km、さらにそこからエーゲ海を北西に400km余の約1400km、3段櫂船の対アテネ戦闘海域到着には、350時間、給養宿泊を陸上に依存することもあり、1日8時間の漕航ならば約45日間を要する。
またエーゲ海島嶼は、ペルシア帝国に敵対するアカイア・ドーリア・イオニア・アイオリス人勢力の支配下にあるから停泊時の戦闘を余儀なくしたであろう。一時に1200余隻が停泊できる港湾は無く分散せざるを得ない。艦隊行動をとれば先頭艦が戦闘海域に到着しても、最後尾の戦闘艦の到着は、船の長さが37mの3段櫂船1隻が100m間隔で100隻の縦列を作れば10kmに及ぶわけで、2時間半後となる。海域が狭隘ならば、各個撃破できる迎撃側が有利に戦闘できる。
ペルシア遠征軍に残された勝利は、防衛作戦有利の原則を覆す、最終決戦における陸・海軍のアテネ挟撃のタイミングの一致に賭けられた。
3 ギリシアの防衛作戦―デロス同盟とペロポネソス同盟の連合―
ペルシア帝国の侵攻を受けたギリシアは、一国で他の都市国家の合計艦船数を上回る艦船を保有する海洋都市国家アテネを盟主とするデロス同盟が中心の防衛作戦を行うことになった。ペロポネソス同盟は陸軍力に秀でたスパルタが中心であり、防衛作戦の手動は、主アテネ、従スパルタの体制で行われた。
ギリシアの防衛作戦には「影のアクター」の存在が読み取れる。軍事的合理性から戦略・戦術上の考察を加える。
影のアクターはマケドニア国王のアレクサンドロスⅠである。結果論ではあるが、アレクサンドロスⅠは、ペルシア帝国クセルクセスⅠに面従腹背し、アナトリア半島を北上してきたペルシア陸軍と交戦することなく、巧妙な駆け引きによってペルシア軍総帥クセルクセスⅠを撤退に導いている。
アレクサンドロスⅠは、表面上はペルシア軍に加わり、その一翼を担ってペルシア軍のマケドニア駐留、通過を容認しながら、迎撃に備えるアテネを始めギリシア有力都市国家に情報提供している。
他方でペルシア軍指揮官クセルクセスⅠには、ギリシア軍に対し避戦、撤兵するよう調整するとして時間稼ぎし、ペルシア軍の南下を停滞させた。
この結果、ペルシア陸・海軍のアテネ同時挟撃は実現していない。ギリシアにとっては同時2正面作戦を回避し、ペルシア海軍とはサラミス、ミュカレで、ペルシア陸軍とはプラタイアで各個戦闘に兵力を集中してペルシア軍に甚大な被害を与え、サラミスの海戦後クセルクセスⅠを撤退させることになった。
4 防衛作戦の成功と戦後秩序の形成―カリアスの和約―
アテネの講和全権大使の名を採ったカリアスの和約(BC449)は、ペルシア帝国とギリシア・デロス同盟盟主アテネとのペルシア戦争講和の条約である。ペルシア軍が撤退する契機となったサラミスの海戦、プラタイアの陸戦、ミュカレの海戦では、ギリシア軍がペルシアのギリシア侵攻を断念させる勝利を収めた。しかしペルシアの敗戦は帝国が滅亡するダメージに至っていない。
講和は、エーゲ海におけるギリシアの制海をペルシアに認めさせただけであった。カリアスの和約の存在について確証はない。伝えられる和約は「ギリシア都市国家の自治の保障・都市国家領域主権を3日の旅程以上侵害しない・ペルシア戦闘艦のギリシア都市国家及びエーゲ海都市国家(ファセリス諸島・キクラデス諸島)海域侵入の禁止」という戦後秩序のコンセンサス形成であった。