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第5章 日本の古代ジオポリティーク 第2節 白村江の戦の敗戦(上)

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰

第5章 日本の古代ジオポリティーク
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (上)
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (下)
第2節 白村江の戦の敗戦(上)
第2節 白村江の戦の敗戦(下)
第3節 所与の島嶼国家運営―大陸の環境決定と相容れない日本の環境決定

第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

第5章 日本の古代ジオポリティーク
第2節 白村江の戦の敗戦(上)

1 戦いの推移

(1) 指揮官の資質

 「白村江の戦」開戦前の勢力比は圧倒的に唐・新羅連合軍が優勢であった。加えて、660年、唐・新羅連合軍は、新羅の朝鮮半島統一の勢いもあり百済の都城扶余の泗沘城を落とし、百済王義慈王とその一族を捕え唐の都長安に送った。

 義慈王は暗君であった。百済を滅亡に導いた唐の軍司令官蘇定方将軍は泗沘城占領時、次の思いを碑に刻み遺した。

『百済本義』義慈王十六年(656年)
 「宮殿は奢侈をきわめ、義慈王は宮廷の家臣と酒色にふけり、寵妃におぼれていた。それを諌めた佐平浄忠を獄舎に繋いだので、それ以来、あえて諫言する者はいなくなった。浄忠は獄死する前、外国の軍隊が攻めてきた時の必勝法を記して上書したが、王は顧みなかった」

 日本の遣唐使津守吉祥(つもりのきさ)、伊吉博徳(いきのはかとこ)ら一行は、660年1月、義慈王ら一族が捕虜として長安に後送された現場を目撃している(『日本書紀』巻26・斉明天皇6年11月1日「将軍らに捕らえられた百済王義慈王以下、太子隆ら諸皇子13人、大佐平の沙宅千福、国弁成以下37人、合計50人ほどの人を朝堂に進め奉った。急に引き連れて天子のもとに急ぎ向かった。天子は恩勅して目の前で百済王以下を釈放した」)。ここに百済は唐新羅連合軍に敗れ、一度は国が滅亡していたのである。

 従って、祖国復興を企てた百済王一族の遺臣である鬼室福信らには、戦いの大前提として「寄って立つ根拠基地となる国(百済)」の寸土さえも無かった。鬼室福信は百済復興の烽火(のろし)を上げるや新羅の支城を落とし、武器を奪い、燎原の火の如く新羅の支城を奪取して百済の勢力再建を寸土から積み上げる戦闘を急がなければならなかった。鬼室福信は仲間を糾合して、戦いの勢いを作り、日本に対して「百済復興の助勢と参戦、そして余豊璋の帰国」を懇請したのである。

 ところが日本から鬼室福信が総指揮官として呼び戻した義慈王直系の王子余豊璋が暗愚であった。

 余豊璋は祖国復興の戦いに「籠城戦」を選択した。鬼室福信は遊撃戦を、同様に、日本国内の地方部族の鎮撫に硬軟織り交ぜた戦術で成功を重ねてきた経験豊かで優れた武人・指揮官であり、日本軍4万2千人を率いて「軍事アドバイザー」として前線に居た上毛野君稚子(かみつけののわかこ)と阿倍比羅夫(あべのひらふ)も遊撃戦を進言したが余豊璋にはねつけられた。
それどころか、余豊璋は鬼室福信が日本の将軍たちと結託して自分に逆らっていると思い込み、鬼室福信を投獄、獄死させた。余豊璋の義慈王から受け継いだ暗君のDNAは、鬼室福信が築きつつあった勢いを撓(たわ)め、戦況を劣勢に転じさせてしまった。

 暗君にもう一つお粗末な話がある。

 籠城作戦の忍耐に飽きた余豊璋は、前線の基地として確保している平城(ひらじろ)移りたいと言い出した。金堤(きんてい)に在る出城は日本で言えば「小牧城」程度であるが、白江(錦江)から引いた灌漑用水が水田を潤し収穫時に小金の稲穂が波打つまさに「金堤」なのだが、それは平時である。わがままを通した余豊璋は、その小移動に付け込んだ新羅の遊軍に攻められ這(ほ)う這うの体で周留山の籠城に逃げ込んだ。

 他方、唐の遠征軍劉仁軌将軍、新羅の文武王は戦いに長けている優れた人材であった。新羅の文武王は崩御に際し、新羅の東方東海の海岸の海中に墓を作り埋葬せよと命じた。永遠に東海を守り続ける意思を込めた「水中墓」は今も東方の日本を睨む守護神として祀られている。

(2) 開戦直前の勢力比と戦術の選択

 百済が採用すべき復活戦の原則は、「寡をもって多を制す」遊撃(ゲリラ)戦である。しかも当初より「日本・百済連合軍」と「唐・百済連合軍」との戦力比は、戦闘員4万7千人(百済軍5千人・日本軍4万2千人)対18万人(新羅軍5万人・唐軍13万人)と、日本は百済軍とともに4倍の相手と戦わねばならず、正規戦を挑んでいては明らかに劣勢で勝ち目が無い。従って神出鬼没の遊撃戦は必至の戦術であった。

 日本軍が外地で戦争するのは、戦いの記録でさえ定かではない「倭(日本)・高句麗戦争(391-404)」以来のことであった。「白村江の戦」は、日本軍にとって外国軍との外地における初めての戦争体験であったと言ってもいいだろう。。

 「水軍」という言葉は江戸時代に生まれたが、日本においても大和政権時代に「水軍のような存在」があった。島嶼国日本の内海においては沿岸で船を操ることが巧みな民が組織的に争った。主力は海神(わたつみ)信仰の安曇部(あずみべ)や港(津)を守る役割を担った津守(つがみ)氏、海人部(あまべ)ら氏族であった。しかし、日本国内の勢力争いの初期においては外国の渡洋型大型戦闘船のように大規模な戦闘船を所有している水軍は誕生していない。

 海上勢力の比率は戦闘船そのものの規模・仕様によって比較し難いが、日本の場合、はっきりしているのは人員輸送専用の遣唐使船では海上戦闘の戦力になり得ないことだ。ペルシア戦争やペロポネソス戦争のように何十人もの漕ぎ手が居る三段櫂船で勢いをつけて相手の戦闘船に激突、破壊してしまう構造ではないし、そのような戦闘は考えられていない。大型戦闘船と比べてはるかに小さな戦闘船で群がるように押し寄せ戦闘員が乗り込んで白兵戦を行うような戦法が用いられていたのではないだろうか。

 中国では項羽を破り前漢(BC206-AD8)の祖となった劉邦の時代に「南船北馬」という言葉が生まれているほど海(水)軍の活動、あるいは海運が盛んであった。当然、大運河を建設した隋・唐の時代には大規模な戦闘を行う戦闘船が建造されていたに違いない。

 戦争史を顧みれば、中国後漢時代(25-220)末、曹操の軍と孫権・劉備の軍が戦った長江の赤壁の戦(208)で使用された戦闘船は、『三国志』に描かれている戦闘の様相を想像するに、「白村江の戦」における日本の戦闘船よりはるかに優れた戦闘性能と規模を誇っていたと考えられる。

 他方朝鮮半島では盛んに半島沿岸に勢力を張る「海賊」が存在し海上戦を行っていたが、中国の海上戦力とは比較にならない小規模であった。

 「日本・百済」対「唐・新羅」の海上戦力比は倭船約800隻対唐船170隻で、唐船1隻当たり倭船5隻足らずが戦闘を仕掛けたことになる。

 そのうえ、干潮時には黄河の砂が黄海を経てさらに東方、朝鮮半島西岸へと運ばれ広大な干潟を作る。それは現在でも韓国ソウルに赴く際、航空機で仁川国際空港到着後のソウルまでの経路、干潮時には高速バスの車窓から広大な干潟が見えるほどの現象である。

 中国大型戦闘船に戦いを挑む小型の倭船にとって理想は「雲霞の如く押し寄せて攻める」戦いぶりであったであろう。しかし数や規模の劣勢は自明であり、天象気象現象の判断を誤り、戦闘船の半数を干潟に打ち上げられ身動きの取れない状態に置いては開戦から勝敗は明らかであった。半数もの倭船が干潟に取り残され使い物にならず、さらには火矢をあびて焼かれてしまった。海上で戦った日本の戦闘船は非力を余儀なくされ惨敗した。

 「白村江の戦場」は地形地物と天象気象を考えた上で戦略・戦術・戦法を用いなければならない厳しい戦場でもあった。

 2006年、韓国扶安郡圓光大學校馬韓百済文化研究所と新羅徐羅伐(ソラボル)軍事研究所李鍾學博士から「白村江の戦」共同現地踏査に招かれた。その際、白江河口で「白村江の戦跡」に立ち「戦場はここではない」と半島の山際まで案内された。戦場は碑が建つ白江の河口よりはるかに内陸に入った場所だった。干拓が進んだ戦場跡には美田が広がっている。そこには、高さ3メートル余で大人が一抱えできる太さの石柱が幾本も屹立している景色があった。船を係留していた「石の杭」だと言う。このことから1,400年前の海岸線は、現在の海岸線からさらに800~1,000メートルも内陸の東へ入り込んでいたということである。

 戦いはこの美田の上で行われていたのである。歴史は現在の景色の中に見出すことはできない。どのように歴史に記された当時に身を置くことができるかで時代を作ったアクターたちの心情に近寄ることができる。歴史が記された時代の地形地物、あるいは天象気象を無視して歴史を語ることは許されない。踏査は『舊唐書』、『三国史記』、『日本書紀』に記された自然が残された場所で行われた。
 籠城していた将兵たちの飲料水、生活水は山頂近くの洞窟の壁から滴る水を集めていたとあるが、今日でも確認できたことなど歴史を肌身で感じた一つであった。

(3) 敗戦

 敗れた日本軍は日本へ撤退した者と囚われ長安へ移送された者に分かれた。百済の遺臣たちも日本へ逃れた者、囚われた者とがいた。

 その捕らわれた日本兵士についてエピソードがあるので紹介する。

 一兵士の大伴部博麻(おおとものべはかま)が解放され帰国した際、博麻が「唐が日本侵攻を計画している」という情報を得て、奴隷に身を売って上司の日本へ渡る金を工面し情報を託し日本へ伝えた功績に持統天皇が賞詞を与えた記録である。

『日本書紀』巻30(持統天皇4年-690年)
 9月23日、大唐の学問僧智宗、義徳、浄願、(捕虜として捕らわれていた)軍丁(兵士)
筑紫(福岡県)の国の大伴部博麻が、新羅の送使大奈麻(だいなま)(17位階の第10)金高訓(こんこうくん)らに従って筑紫に戻ってきた。――中略――

 10月22日、軍丁(ひといくさよぼろ=兵士)筑紫の国の上陽咩郡(かみつやめごうり)の人、大伴部博麻に(持統)天皇から賞詞が与えられた。(天皇が大伴部博麻に曰く)

 「斉明天皇の7年に、百済を救援する戦役があって、おまえは、唐軍の捕虜とされた。天智天皇の3年に土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(さつやま)、弓削連元宝(ゆげのむらじげんほう)の子の4人は、唐が日本侵攻を計画していることを知り日本に通報したいと思ったが、旅費が無いので天皇の耳に届けられないと悩んだ。
このとき博麻は、土師連富杼らに語って『私は、貴方とともに、本朝に帰還し報告したいと思うけれども、旅費が無いのでともに行くことができません。(こうとなっては)どうぞ、私を奴婢に売って(貴方の)旅費に充ててください』と言った。富杼らは、博麻の申し出によって、天朝に情報を通報することができた。
 おまえがたった一人で唐に捕らえられること斉明7年(661年)から今持統4年(690年)に至るまで30年間である。私、天皇は、その朝廷を尊び、国を愛し、自分を売って忠誠を著したのを好しと褒めるものである。
 それゆえ、務大肆(むだいし)(従7位下―諸臣四十八階の第三十一位―)の5階級特進と合わせて絁(あしぎぬ―絹の次に位する布―)5匹・綿11屯・布30端・稲1,000束・水田4町を下賜する。その水田の相続は曽孫にまで及ぼせ。相続は3族(3世)まで課役を免じてその功績を天下に公示する」と言った。

 一兵士が「唐が日本を攻める」という情報を「一刻でも早く日本の朝廷に知らせなければならない」という「使命感」に満ちた行動を起こしたエピソードである。しかも上司に当たる土師連富杼らが日本に情報を知らせるために必要な路銀を博麻が奴隷に身売りして工面したという美談なのだが、国威発揚とか、愛国心を煽るとかの特別の時代精神が作為した歴史ではない。
ナショナリズムが高揚され大東亜戦争の機運が芽生えた時代に、実は万葉集編者大伴家持の代作とされるのだが、万葉集の「防人の国のために身を捧げる歌」が国定教科書に載せられた「時代精神発揚の作為」とは異なる。

 博麻の場合は「国の作為」による美談ではない。

 重複を恐れず重ねる。現在の福岡県八女市北川内町内の公園に立つ「博麻の功績を顕彰する碑」(1863年、北川内村の神職・村民有志の手により建立)には、持統天皇の勅語「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」が刻まれている(一部意訳して抜粋)。

 「時に天智天皇3年(664)土師連富杼(はじのむらじほと)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(さつやま)、弓削連元宝(ゆげのむらじげんほう)の児等は唐人の謀略あることを聞き、早く祖国に事情を知らせたいが衣類食料旅費もなくどうすることもできない。博麻、富杼等に語りて奴隷に身を売り貨財を調達、同僚を日本に帰還させ朝廷に報じることを得た。」

 『日本書紀』にはエピソードが淡々と記されているのだが、徴募に応じて海外遠征に参戦した一兵卒の堅固な使命感を推し量ることができる。この時代、理由、目的、結果はともあれ、「白村江の戦」に参戦したことは、海外派兵の決断を行った「朝廷(政府)の存在」が明確であったこと、戸籍が整備され莫大な戦費を賄うことができる納税義務を履行する「国民の存在」があってこその派兵であったこと、朝鮮半島へ4万2千人の部隊派兵を可能にした基盤として戸籍に「兵士」を指定して国に有事あれば動員できる体制を整えていた「軍隊の存在」が確立していたこと、所謂世界史においてナポレオン戦争まで現れない「国民国家」的な日本国の存在を確認することができる。

 次に確認すべき「白村江の戦」の示唆は、「唐が日本侵攻を企てる」情報が日本の安全保障政策(防衛戦略)を「専守防衛」に徹底させたことである。