第2章 古代の戦争から読み解く 第1節 古代都市国家・王国の成立―エクメーネからの発展
〈国際地政学研究所の林吉永さんの「避戦の地政学」連載の第4回目です。今回から「第2章 古代の戦争から読み解く」に入っていきます。「地政学」というと戦争するのに不可欠な学問分野だと思われてきましたが、タイトルにあるように「避戦」の立場から地政学の転換をめざすものです。林さんは航空自衛隊の空将補を経験されたあと、防衛研究所で戦史部長を務めました。40回以上続く予定です。〉
本章では古代の戦争から地政学及びジオポリティークを検索する。取り上げる戦争は、ペルシア戦争(BC492-BC449)、ペロポネソス戦争(BC431-BC404)、古代中国の春秋戦国時(BC770-BC403)、アレクサンドロスⅢの東征(BC334-BC323)、古代中国の戦国期と中国統一(BC403-BC221)、カエサルのガリア遠征(BC58-BC50)である。
これらの戦争のアクターは誰であったか。戦争の歴史には、今日に至るまで2500年の連鎖があり、戦争が発生した時代にはそれぞれの時代精神があった。反面、アクターや戦争の様相が異なっても戦場における地理学的な現象、及びヒトの感性には今日に至っても共通した「何か」が在る。その「何か」を追究することでヒトは「非戦」或いは「避戦」の知恵を見出すことができると信じたい。
2 古代戦争1
最も古い戦争の記録は、ヘロドトス(BC484頃-BC425頃)が著した『歴史 ”Historiai”(ラテン語転記)』中のペルシア帝国と諸ポリスとの戦争である。
「ヘロドトスの悪意」という言葉は、ヘロドトスが主観的な歴史記述を行っていることから批判される言葉である。しかし、歴史編纂には編纂者の主観が避けられず、国が行う編纂事業に至っては国にとって、或いは為政者にとって都合の悪い記述が避けられるのが常である。
後世、C・V・クラウゼヴィッツは、歴史観を「第1段階に歴史は史実を確認する、第2段階に史実について分析・評価する、第3段階で初めて歴史から教訓を読み解く」と述べ恣意的歴史解釈を戒めている。
しかし古代史については第2段階から史料の不足・欠落によって解釈や史実確認に困難を伴う。その分、第2段階から主観的にならざるを得ないことに寛容を求めたい。
ここで言うポリスは、日本語で「都市国家」と表現しているが、「近代都市」のイメージとは異なる。ギリシア・アテネのパルテノン神殿の在るアクロポリスは、居住民が仰ぎ見ることができ、また住民を守る城砦としての機能を持つ神殿が置かれた丘の代表的なものである。ポリスはこのアクロポリスに由来し、さらに住民の居住地域全体の政体、そして地域を呼ぶ名称ともなり、古代ギリシアの政体や生活圏を言うようになった。ここに、この時代のポリスを「市・都市・市民・都市国家」と表現する所以がある。
付言すれば、中世ヨーロッパの宗教革命に伴って封建領主が勢力争いした領邦国家間の「30年戦争(1618-1648)」の戦後処理「ウエストファリア条約」における領邦国家の主権平等、国境線の画定など主権国家の成立における「国家」とこのポリス(都市国家)は異なる。勿論、国家はこのポリスから発展して今日に至るのだが、古代における臨場感に今日の国家や都市のイメージを持ちこむと誤解を生じてしまう恐れがある。
さらに、古代戦争のアクターについてF・ラッツェルの著書『人類地理学』から言及する。ラッツェルは、ヒトが生存のために営む家族・親戚・仲間・小規模集団で形成される社会的な単位を「エクメーネ “ Ökumene“(ドイツ語)」とし、エクメーネ及びエクメーネを代表する人物をアクターとしたエクメーネ発展に伴う現象に「政治地理学(ジオポリティーク“Geopolitik”)」を重ねた。
エクメーネが遭遇し発展する現象について『人類地理学』では、「位置・自然環境・構成する民族とその可変性・移動と移動の反復に伴う土地の選択など諸変化・他のエクメーネとの接触と衝突および安全保障(エクメーネ防衛)体制構築・時間の経過とエクメーネの肥大と進化・定着がもたらす社会秩序の形成・衣食住および風俗習慣のアイデンティティーの誕生など」を説いている。
エクメーネはポリス(以下「都市国家」という)を形成し、エクメーネおよびポリス相互は吸収と合併、支配と被支配を繰り返す。ラッツェルは、持論の「国家有機体論」に付言して「国家は国土の増大とともに変化し、国家の政治力は国境の拡大に比例し、生存圏拡大のため国境は前進する」と述べている(『人類地理学』由井濱省吾訳・古今書院)。エクメーネが引き起こすこの現象は、戦争という文脈において「前進する主体であるアクター」にとってその行動が「地政学」の実践であって、侵蝕される側にとっては覇者への隷属を回避するための防衛という「ジオポリティーク」の実践が必至となってくる。
古代戦争の舞台となった地中海、エーゲ海、黒海周辺には、まず衣食住の根拠地「生存権」を求めるエクメーネが集中して実に多数の都市国家が誕生した。現在のオーストリアのザルツブルグ、オーバーエスターライヒ両州をまたぐザルツカンマグート地方に本拠を置いていたケルト民族がヨーロッパ中に四散する民族移動を行っているが、南を目指して地中海・エーゲ海・黒海にたどり着いたケルト人も多くいる。
地理学的に温暖な地中海気候は、植生においてブドウ・イチジク・オリーブ・オレンジ・レモンなど立ったままで収穫できる果樹が豊富に実をつけるなど、衣食住に恵まれた環境はエクメーネを発展させる条件が整っていた。
他方、ナイル、ティグリス・ユーフラテス、インダス川流域地帯の平野では河川が肥えた土を運び農作物の実りをもたらし、その生産活動が集団の規模を大きくしてエクメーネを発展させた。
2 古代戦争2
ペルシア戦争以前にもエクメーネおよびその発展した都市国家・王国の間では、生存圏を巡って戦争が頻繁に起きていた。小規模のエクメーネは生存競争で衝突し、勝ち抜くために生死をかけて戦い、エクメーネが集落・集団・部族・都市・王国にそのかたちを変えるに従って争いの規模が拡大し「軍事」および「戦争」の世界が開かれ、戦いの烈度が高まると比例して犠牲と破壊が増大した。
記録に残る最古の戦争は、鉄器文明を誇っていたヒッタイトが古代エジプトの侵攻を迎え撃ったカデッシュの戦い(紀元前1286年頃)である。ヒッタイトは古代農業発祥地であるレヴァント・カナン(現在のシリア)に位置していた。
戦争は勝敗を分け「講和」で終結した。粘土板に楔形文字で彫られ焼かれた条約文は、ヒッタイトとエジプト双方が戦後の秩序を約し所持した。粘土板は、ヒッタイトの都であったハットゥシャ(アナトリア半島中央・トルコの首都アンカラから東方約150キロメートルの地・現ボアズカレ)において、遺跡調査時(1906-1907・1911-1912)に発掘された。
カデッシュの戦いの後世、紀元前12-紀元前11世紀にはヒッタイトが衰退、替わって地中海やエーゲ海を生存圏としていた「海の民」と呼ばれる海洋民族がレヴァント・カナン地域に進出し地上の勢力圏を奪った。海の民の歴史は不明な部分が多い。しかし、エーゲ海島嶼のエクメーネが地中海東部のレヴァント・カナンに定住したことを示唆する史料は少なくない。
その一つには、海の民ペリシテ人がカナンに生存圏を定めユダヤ人の入植以前に先住していた記述がある。ユダヤ教のヘブライ語聖書『タナハ』(キリスト教の『旧約聖書』)の記述では、ユダヤ人のエジプト脱出を導いたモーゼ由来の「ユダヤ教の神」がアブラハムの子々孫々に――すでに先住しているペリシテ人の土地である――「蜜が流れ出る豊穣の地カナン」を――神とユダヤ人とが交わした――約束の地として与える、とあり、ユダヤ人が力づくでペリシテ人からペリシテ人の土地を奪い、ペリシテ人を駆逐するよう督励している。
すなわち、ユダヤ人の対ペリシテ人宣戦布告とユダヤ人の対ペリシテ人戦争の聖戦化を明記しているのである。それは北米大陸にアメリカが建国され、開拓期における先住民排除に「神の啓示 “Manifest Destiney”」を謳ったキリスト教徒たちの正当性に重ねられる。加えて『タナハ』には、「預言者・士師記」に登場するユダヤ人の士師サムソンやダビデがペリシテ人を数多く倒した英雄として描かれている。
イスラム帝国伸張期においてパレスティナのペリシテ人がムスリム・アラブ人に同化し、もはやペリシテ人が存在しないのだが、「ユダヤ人が先住民のペリシテ人を排除してきた戦争」は、ムスリム・アラブのパレスティナ人がイスラエルと対立することと同根であり、エクメーネ盛衰の典型として捉えられる。
ユダヤ人はローマ帝国の統治に反発したユダヤ戦争(66-73・132-135)に敗北、追放され、世界の各地にユダヤ人コミュニティーを作るディアスポラ、祖国復興と帰国を目指すシオニズムの時代に入って1900年も経過している。
第2次ユダヤ戦争の敗北は、ローマ帝国による「イスラエル王国はシリア・パレスティナに名称を変更、ユダヤ暦使用の禁止、律法書の廃棄、破壊された神殿『嘆きの壁」への立ち入り禁止(313年の信教の自由が保障されたミラノの勅令で解禁)」を招いた。
これらの歴史は実に地政学的である。
3 ペルシア帝国
ペルシア帝国の東西領域は、東のインダス川から西のナイル川・エーゲ海に至り、中間にティグリス・ユーフラテス川が南北に貫いて流れる。南北には、北部中央アジアのアラル海・カスピ海・黒海から、南のアラビア海・ペルシア湾に至る。この広大な領域に存在する現在の国家は、パキスタン、イラン、イラク、クウェート、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、トルコ、キプロス、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル、エジプト諸国である。
ペルシア帝国は、有史最古の文明時(BC3000年頃)にエクメーネが発展を遂げて形成していた諸都市国家・王国等の併合を進めている。
ペルシア帝国成立時に隷属した都市国家と王国は次のとおりである。
・BC3000年頃からティグリスとユーフラテス両河川に挟まれ、農業を営み楔形文字を使用し既に都市国家を形成してバビロニア王国に発展、古代メソポタミア文明を産む母体となっていたシュメール(現在のイラク・バクダードからペルシア湾に至る地域)
・中央アジア・ヒンドークシュ山脈の北に所在するゾロアスター教誕生のバクトリア
・バクトリアの北、都市国家サマルカンドを中心としたソグディアナ
・BC50年頃にはペルシア帝国に替わる勢力を誇ったパルティア
・現在のイラン北西部一帯を支配していたメディア王国(後のイラン)
・ティグリス川とユーフラテス川の上流(現在のイラク北部)のアッシリア王国(新バビロニア王国・後のシリア・イラク)。
・小アジア・アナトリア半島のリュディア王国(後のトルコ)
・エジプト王国
・航海術に長け地中海沿岸に植民都を経営していたフェニキア
・パンジャブ(インド北西部)
・シンド(パキスタン・アラビア湾東岸地域)など
ペルシア帝国は、実に広大な領域を統治することになった。ペルシア帝国は、隷属した多数の王国・都市国家がもともと布いていた体制を容認して委任統治した。この時代のペルシア帝国の首都スーサから北西のサルディスまでの 2,699km高速道路「王の道」は、ペルシア帝国に背く王国・都市国家に対して直接の力で圧力をかけ従わせる機能を果たしたであろう。別けてもアケメネス朝(BC550-BC330)時代は、キュロスⅡ、ダレイオスⅠ、ダレイオスⅢ大王統治下に在ってペルシア帝国の覇権が最大規模に達した時代であった。
ヘロドトスが『歴史 “Historiai”』 を著した時代、ペルシア帝国のアナトリア、エジプトから東はインダス川まで、諸エクメーネは王国に吸収され王権に従属していた。
他方の地中海・エーゲ海・黒海沿岸に存在する独立した都市国家群は、市民による自治(共和政治)が行われ、脅威に対する備えとして集団安全保障体制をとっていた。しかし、都市国家が力をつけ、富を築き、人口が増加すると王権の行使による「覇権」願望の時代精神が旺盛になって行ったのである。
4 世界のエクメーネ
ヘロドトスの『歴史』に描かれた時代の日本と中国に目を向けておこう。
日本では弥生時代である。地上に境界を持つ他民族が存在しない日本では、集団性が強い稲作を行っている。この稲作作業においてようやく指導者、或いは指揮を執るリーダーが出現して統治の芽生えが見られるようになっていた。
中国では春秋戦国期の最中で、領邦領主が権力、勢力争いの戦争を行っている。エクメーネが軍事力を保有し競合するライバルと鎬(しのぎ)を削る時代であった。この時代、国家戦略、戦闘の術を説く老子・孔子・孫子・墨子・勾践などが活躍している。