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第5章 日本の古代ジオポリティーク 第2節 「白村江の戦」の敗戦(下)

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第1節 地政学とGeopolitik(ジオポリティーク)
第2節 地図の見え方
第3節 戦争の世紀を演出した地政学一覧

第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展―
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析―

第3節 ペロポネソス戦争―プーチンの戦争に重ねる―
第4節 古代中国の誕生と戦国時代―中原争奪の地政学―
第5節 アレクサンドロスⅢの東征―アリストテレスが教授した覇権の握り方―
第6節 中国の統一―始皇帝が示した統一のガバナンス―
第7節 カエサルのガリア遠征―ローマ帝国帝政の布石―

第3章 超国家の誕生
第1節 ユダヤ教誕生―中東戦争への因縁と終焉しない戦争―
第2節 キリスト教の誕生―キリストの理想に背反する国教化と戦争のマニフェスト化―
第3節 イスラム教の誕生―ムスリム帝国建設は地理学的環境決定―
第4節 キリスト教 vs イスラム教―聖戦論の本質―

第4章 帝国の盛衰
第1節 民族の移動―衝突は大陸の宿命―
第2節 ローマ帝国の分裂と滅亡―国力とガヴァナンスの限界―
第3節 中国と中華思想―中原の覇権というDNA―

第5章 日本の古代ジオポリティーク
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (上)
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (下)
第2節 「白村江の戦」の敗戦(上)
第2節 「白村江の戦」の敗戦(下)
第3節 所与の島嶼国家運営―大陸の環境決定と相容れない日本の環境決定

第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

2 「白村江の戦」戦後処理―日本の安全保障政策の在り方

日本の「白村江の戦」敗戦は、アジアの強国「唐の在朝鮮半島駐留軍」という軍事的脅威を対馬海峡を挟んで至近に呼び寄せてしまった。

唐が軍を朝鮮半島に駐留させたのは、次の理由によると考えられる。

一つに、朝鮮半島に直接に睨(にら)みを利かせ百済残党の再々起と、それを助勢する日本の軍事遠征の動向を警戒し、その芽を摘み取ること
二つには、百済を倒し、次に高句麗を倒し朝鮮半島統一の仕上げに挑戦している新羅を応援しつつ、新羅の唐に対する冊封の恭順を確認、関係を保障するパワー・ポリティックスを維持すること
三番目は、統一事業を着々と進め、さらに朝鮮半島において百済復興を助勢するまでの力を持つに至った日本(倭)を、パワー・ポリティックス行使により唐の冊封体制下に治めること(大伴部博麻が得た情報(『日本書紀』巻30-持統天皇4年-690年)

ここでは、こうした「白村江の戦」敗戦後の唐の覇権拡大と新羅の朝鮮半島統一という覇権成立を前提とした北東アジア情勢下において日本が採るべき安全保障政策を考える。

脅威は「白村江の戦」で干戈を交えた唐および新羅が「対日本」という文脈で軍事力行使の意志を持つことである。よって日本の対応はどうあるべきか、その結果、日本は具体的にどのような防衛政策を進めることになったか、「唐・新羅連合軍の日本侵攻の目的と態様、侵攻作戦」、「日本の防衛作戦」、結果として「日本の防衛作戦成功のための防衛力整備が唐・新羅連合軍の作戦発起を抑止する」というプロセスを考える。

(1) 唐の日本侵攻目的

本稿「第2章第4節古代中国の誕生と戦国時代」で述べたが、「中国」という世界は「華夷思想」あるいは「中華思想」に覆(おおわ)われ、中国統治の根本が中国とその外界とを厳格に差別することにあった。

このような「中国」の上から目線の国際観は、「白村江の戦」で唐に敵対した日本が「唐に冊封されて当然の東夷の一つ」であって、唐の日本侵攻の目的はにあったと考える。

・日本を唐の冊封体制下に招じ入れ緩やかな属州化を図り朝貢させる
・日本の島嶼は日本に委任統治させる
・日本を新羅と対等以下の地位に置き敵対させない
・日本が唐の要求を受容しない場合、侵略の後は唐の軍を日本に駐留させる

従って、中国の日本侵攻は「日本が中国の枠組み」に収まれば武力行使は行われない。

(2) 唐・新羅の日本侵攻シナリオ

実に雑駁であるが、唐の侵攻勢力を想定してみる。

唐は新羅を参戦させ、連合して海を渡り日本に侵攻する。

ペルシア戦争(BC500-BC449・第2章第2節 ペルシア戦争)のサラミスの大海戦(BC480-BC479)ではペルシア海軍の700隻(数値は全て「概数」以下同)に対してギリシアは400隻、それぞれの3段櫂船がまさに体当たりの激突戦を行い、「白村江の戦」では唐の大型戦闘船170隻に、日本の小型戦闘船700隻で接触し乗り移って白兵戦を行った。

しかし本シナリオでは「大海戦」は行われない。

唐は日本への着上陸侵攻を行う。「白村江の戦」で日本の海戦能力が唐に敵さずと見ているはずだ。戦わずして勝利する「圧倒」を期すならば、ペルシア戦争においてギリシアを攻めたペルシア海軍並み、あるいは元寇時(文永1274/弘安1281の役ともに)の規模(750-900隻)に匹敵する500-700隻の戦闘船を派遣して来ると仮定しよう。

兵站は新羅が担当する。壱岐・対馬の島嶼は先行的に占領し橋頭堡として確保する。橋頭堡は波状攻撃が長期にわたる場合の根拠基地としても機能し、確保の任務は、補給・給養など新羅が分担する。

最終的に日本の都城に迫り、五分の戦闘に持ち込まれないよう陸路を避け瀬戸内の海路を侵攻する。瀬戸内海沿岸の城砦は全て陥落させ、唐が支配しつつ、北九州那の津を経て瀬戸内海に入り難波の津を目指す。この際、日本の防衛戦線を分散させるため、岩見、出雲、因幡、若狭に陽動着上陸攻撃を仕掛ける。

着上陸侵攻の陸上兵力は、圧倒するため『孫子の兵法』(孫武・春秋戦国時代・BC770-BC476頃)による「十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なればこれを分かち・・・」から、「白村江の戦」における日本兵力の10倍超の50万人規模と仮定する。兵員の輸送は戦闘船団と別建ての輸送船団を編成する。百人を輸送できる船を使うと船団は50万人規模の軍団に5千隻を要する。

(3) 防衛作戦のシナリオ

明々白々であるのは「当然ながら中国と新羅の侵攻策源地を先制攻撃する日本の能力は皆無であること、海戦では勝ち目はないこと、着上陸を許せば防衛線が雪崩の如く崩壊すること、開けた戦場での会戦では多勢に無勢の不利を免れ得ないこと、迎撃・防衛戦に投入可能な日本の兵力は唐の軍勢よりはるかに少ないこと」である。

防衛戦略の一環として、仮に敵基地攻撃を選択肢に加えた場合、防衛の戦線を前方に延伸する「前進基地の確保・装備の補給整備・人員の配備と給養など、地の利を得ない欠陥を補完する莫大な投資が必要」になる。敵地においてそれらが困難なことは「白村江の戦」敗戦の教訓でもあった。

日本軍兵士の確保は、先の「白村江の戦」で日本の男子人口約2百万人 (『古今目録抄』)のうち2.1%、4万2千人が出征した経験を基(もと)に見積もる。50万の唐侵攻勢力に対等の兵力で抗戦するならば、日本が必要な50万の兵力は男子人口の25%にも達する。大東亜戦争開戦時の日本兵士の動員が男子人口の13.5%であったことに鑑み、天智天皇が50万の兵力を動員するのは不可能である。

その結果、「寡をもって多を制する」には、侵攻勢力に多大な犠牲を強いることが可能な「防衛戦争に徹する『専守防衛』の選択」しかなかった。

天智天皇は、「白村江の戦」敗戦後、唐が大国であり強国であることを改めて認識し、北東アジア域における日本の安全保障戦略に「専守防衛」を選択した。そして、「唐が侵攻して来る最悪のシナリオ」をもとに専守防衛作戦遂行のため最善最大の防衛力急速整備を図った。

(4) 防衛力の急速整備

唐の日本侵攻に備える日本の戦時体制整備は次の通りであった。

・国家の統治体制―中央集権・律令制度の完整・国内地方部族の朝廷帰順―

日本が整えた「朝廷(政府)・国が掌握する国民・一元的指揮権の下に置かれた国軍」体制は、ヨーロッパにおける三十年戦争(1618-1648)後ウエストファリア体制と呼ばれた「主権国家体制」、ナポレオン戦争後に萌芽した「国民国家」と同じ様な「国のかたち」であった。

中央集権化は、蝦夷など遠隔地方部族の吸収従属と文化・価値観の共有を進めることにもなった。

国内統治の整備について『日本書紀』に次の記述が在る。

『日本書紀』巻26、(斉明天皇4年-658年)
夏4月、阿倍臣が船軍180艘を率いて蝦夷討伐に向かったところ、秋田と能代の2郡の蝦夷は、その勢いを遠くから眺め降伏した。さらに軍を整え齶田浦(現在の「秋田湾」)に進出した。そこでも秋田の蝦夷の恩荷は降伏して誓った。「官軍と戦うために、弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦の神がお咎めになるでしょう。清く明らかな心をもって帝にお仕え致します」
 阿陪臣は(天皇の名において)恩荷に小乙上の位を授け、能代と津軽の2郡を郡領に定め、有間の浜に渡嶋の蝦夷どもを召し集め大いに饗応して帰還した。

『日本書紀』(斉明天皇5年-659年)
3月、阿倍臣に180隻の船を与え蝦夷討伐に向かわせた。秋田、能代郡で討った蝦夷241人、捕虜31人、津軽では112人を討ち、捕虜4人を得、胆振の蝦夷から20人選び集め饗応し褒美を与えた。

『日本書紀』(斉明天皇6年-660年)
3月、阿倍臣に200隻の水軍を与え粛慎(みしはせ/あしはせ)を討伐させた。阿倍臣は陸奥の蝦夷を自分の船に乗せ、大河に到着した。おりしも渡島の蝦夷1千人余りが野営しており、2人の使者が来て「粛慎の水軍が大勢来て我々を殺そうとしているので助けてほしい」と言うので、賊粛慎の居場所と規模を問いただしたところ「20隻余り」と、(粛慎に)降伏するよう説いたが応ぜず。・・・(最終的には武力攻撃を行ったところ妻子を殺して逃亡した)。

・財政の安定と国民の掌握並びに徴兵の義務化―戸籍の作成・地方政治―

戸籍の作成は「国民国家」という時代精神を涵養することになった。

戸籍には、戸主、一族・家族構成が分かるように記載され、中には身体に障害のある「残疾」の特記など福祉上の配慮があった形跡を示す注記もある。また「兵士」の記載があって、一朝有事の場合の徴用、あるいは防人の任務などの義務付けが行われている。

さらに、この戸籍制度は国に納める年貢が義務付けられ、国の財政が保証される原本にもなっている。

・外交と情報―遣唐使の継続・朝鮮半島との交流―

「白村江の戦」の前後、特に百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた前年、659年には坂合部連石布(大使・さかいべのむらじいわしき)・津守連吉祥(副使・つがみのむらじきさ)が遣唐使として派遣され、百済攻めの計画が漏洩しないよう軟禁されたエピソード(『日本書紀』巻26斉明6年)がある。
「白村江の戦」の2年後には戦勝国の唐への遣唐使守大石(もりのきみおおいわ)の派遣が再開された。実は遣唐使守大石の派遣に先んじて唐の司馬(武官長)劉徳高(りゅうとくこう)ら254人が対馬経由で来日し、天皇が歓待している(『日本書紀』巻27天智4年)。『日本書紀』に来日の仔細が無いので憶測でしかないが、遣唐使守大石が唐の遣使劉徳高一行を唐まで送り届けていることから戦後処理の一環としての「講和」と、その象徴としての遣唐使再開が憶測できる。

・防衛網整備―城塞・通信網・前線基地・離島防衛―

次に重視すべきは、百済帰化人の技術的協力を得て行った防衛システム構築である。侵攻軍を迎撃・阻止する軍事拠点建設は、対馬(金田城)、北九州大宰府および大野城など、現在確認されている城塞の数は、対馬・北九州・瀬戸内海の中国・四国街道沿い、および大阪の27箇所に及ぶ。
また大宰府および大野城を背後に博多湾を望む地域には、防塁(水城)が幾重にも築かれ、大宰府を目指す侵攻軍を阻む役割を果たしている。水城は敵の進撃を阻止する土手とその前後に掘られた水壕で構築された人工の障害物であった。北九州に上陸侵攻する唐の軍勢を前線司令部である大宰府が中心になって阻止する役割を担うことになるが、大宰府が陥落すれば大野城が代替前線司令部として籠城戦に耐えられるよう、今でも炭化米が発掘できるなど兵糧米の備蓄跡などに防衛線の抗堪性が見られる。

対馬から北九州大野城、そして瀬戸内海両側の山地、難波の津まで狼煙台の遺跡が連なっている。
唐招提寺戒壇院の創設者鑑真和上が幾度もの遭難を経て薩摩坊津に12月20日に漂着、12月26日には知らせを受け取った奈良大安寺の和上延慶に迎えられた。漂着の知らせが大宰府に届き、待機していた延慶が急行して迎えたと考えると、この狼煙台通信網の機能は優れて情報伝達に役立っていた証である。

このような状況証拠によって、様々な通信手段による情報伝達、様々な輸送手段による移動が “Geopolitik” そのものの骨幹であることが見えてくる。

戸籍に指名された「兵士」は防人として離島防衛に派遣された。この時代、防人の移動は自弁であった。
『万葉集』に大伴家持が選んだ約120首の親・妻・子・恋人・兄弟・故郷を思い歌った防人の歌がある。中には国防の使命感に燃え、国あるいは天皇に命を捧げる思いのこもった歌があるのだが、その多くは家持の代作である。
しかし、歌に任務への拒絶感は込められていない。もっともそのような歌は家持が選ばないだろうが、概して言えるのは、任務に対して淡々と受容する心情が伝わってくることである。防人は、律令時代の防衛制度の一つであったが、徐々に負担と犠牲が大きくなり唐が滅亡する10世紀初めころには消滅してしまう。

戸籍の作成と城砦構築について『日本書紀』は次のように記述している。

『日本書紀』巻27(天智9年-670年)
天智9年(庚午-かのえうま)2月、戸籍「庚午年籍」を作った。これは(本籍地を逃亡している)盗賊や浮浪の者を無くそうとするものである。また天皇は、蒲生郡匱迮野(滋賀県蒲生郡日野)に行幸して宮地(天皇領)を視察した。その後、高安城、長門城、筑紫城の修理、築城を指示した。

・遷都―緊急避難と抗堪性―

 667年、都城が難波から比叡山の東山麓、琵琶湖に面する大津へと遷都された。様々な理由で遷都が行われるが、「近江の京」、大津への遷都は防衛戦略の思惑が込められている。

最悪の事態は、都城に唐の進撃が肉薄する事態である。天皇は大津から琵琶湖を船で北上、北陸道を進んで避難する。北陸道は狭隘な間道が多いため、大軍が押し寄せても縦列が1列、2列になる。其処を地勢的に熟知した日本軍が両側の高い位置から攻撃すると、少数で多数を殲滅できるというわけだ。

唐の戦闘船団には、能登半島を迂回して北陸道を南下、天皇一行を挟み撃ちにする戦術が考えられる。
しかし、日本は、本隊よりはるかに少数の唐を相手に、地の利を利用した迎撃作戦を海岸線で行う着上陸の阻止、能登半島間道での挟撃戦闘を有利に運べる。

このような作戦・戦術は、熟知している日本の地形地物、天象気象の優位を利用して唐の侵攻戦力に多大な犠牲を強要できる。

「専守防衛」であっても、戦い方如何により「ペルシア軍がサラミスやマラトンで大敗を喫して退散した」ように、「2回にわたる元寇に失敗してモンゴルが日本攻略を断念した」ように、「ナポレオンがモスクワ攻撃を失敗して撤退した」ように、防衛戦略を成功させることが可能になる。

(5) 何故唐の日本侵攻が行われなかったのか

この時代の戦争であるからこそ、シミュレーションにおいて日本の縦深性が「専守防衛」を有利に導けた。

唐は日本の情報を分析し、日本侵略の費用対効果を考えたであろう。その被害の大きさに日本侵攻は得策ではないという結論に至り、むしろ、「中国」伝統の「極めて領域が曖昧な中国の勢力圏」における「華夷思想」、「中華思想」に周辺諸国、民族が馴染んで、双方にとって利益・価値観を共有し、相互が相互にとって都合よく付き合って行ける国である「現状維持」、「互恵関係」を互換している状況が望ましいと結論付けたのではないだろうか。

「白村江の戦」はこのような歴史観を持つことで今日の「敵対」あるいは「嫌悪」の関係を改善する示唆を提供していると考えるのだがどうだろう。

第6章 領邦国家の成立
第1節 封建領主の支配―
第2節 王権神授と王位継承
第3節 王位継承戦争

第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第1節  ムスリム交易から大航海時代への転換
第2節  新大陸
第3節  封建領主の中央集権化
第4節  大航海時代

第8章 大陸の鳴動
第1節 モンゴルの征西
第2節 スラブ民族の覚醒
第3節 ムスリムのヨーロッパ撤退―レコンキスタの終焉―
第4節 大航海時代の功罪
第5節 宗教革命と30年戦争とウエストファリア体制

第9章 主権国家の変革
第1節  新大陸における国家誕生
第2節  フランスの市民革命
第3節  ナポレオン戦争
第4節  王政復古
第5節  諸国民の春
第6節  帝国主義と植民地―生存圏の拡大―

第10章 戦争の世紀
第1節  RMA―輸送・通信・武器/装備・戦略・戦術・戦法―
第2節  戦争論
第3節  地政学理論の萌芽
第4節  世界大戦
第5節  日本の戦争

第11章  戦後処理
第1節  国際システム
第2節  国家体制の変革―共産革命―
第3節  国家群の対立―東西冷戦構造―

第12章 冷戦後の世界
第1節  新たな戦争―低強度紛争・テロ―
第2節  大国のジオポリティーク
第3節  国際システムの機能不全
第4節  冷戦構造崩壊後の国際社会安定化ジオポリティークの不毛