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第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ 第1節 ムスリム交易から大航海時代への転換

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立

第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第1節 ムスリム交易から大航海時代への転換
第2節 新大陸
第3節 封建領主の中央集権化
第4節 大航海時代

第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章  戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 中国からトルコのアナトリア半島にかけて古代から交易路として利用されていた超長距離に伸びる道が在り「シルクロード」の名が人口に膾炙されている。その名の通り中国産の絹織物が西方へもたらされる道という象徴的名称であって、ドイツの地理学者・探検家・地形学創始者・中国研究者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(1833-1905)が著書『CHINA』の第1巻(1877)において「絹の道」としたのが学際的呼称の最初とされている。

 古来、中国ではこの道が走る西方一帯を「西域」と呼んでいた。また中国は、現在、西にカスピ海と接する西トルキスタン、キルギス、タジキスタンの中央アジア諸国、南にアフガニスタン、パキスタン、インド、東方に中国(チベット)、モンゴル諸国と接する東トルキスタンの中を枝葉に分かれながら東西に横切る道(ルート)を「オアシスの道」と呼んでいた。

 「シルクロード」が通称となったのは、リヒトホーフェンの弟子が中央アジア旅行記に “The Silk Road” の名を付し英訳してからと言う。

1 シルクロード

 中国側からのシルクロードは、BC114年頃、漢王朝(前漢-初代太祖高帝・BC206-AD8/後漢-初代光武帝・AD25-220)が中央アジアに進出するため、武帝が将軍張騫(ちょうけん)に西域において脅威となる諸邦との同盟画策を命じ、第1回目の踏査に13年間、第2回目の踏査に6年間を費やし様々な情報を得るために行動したルートがその後交易路として開拓されるなどした「道」がシルクロードの礎になったとされる。

 現在のトルコ・アナトリア半島(小アジア)東部からアフガニスタン、イランにかけ勢力を伸張したパルティア王国(BC247-BC224)は、シルクロードを中国西域と東アフリカや地中海、ローマ帝国との地理学的な接点を形成する仲介者となった。シルクロードでは、ローマ、エジプト、ギリシアと中国とがつながったことで東から西へ茶、染料、香水、磁器など、西から東へ馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが交易された。
 別けても、富だけではなく東からもたらされた「紙、印刷技術、火薬、羅針盤」は、世界史を大きく変えることにもなっていった。

 しかしシルクロードの初期時代、統治、管理、治安といった面では、多くの諸邦、部族の支配力が多岐多様多数にわたり関わって秩序が共有されない劣悪な環境であった。
牽強付会だが『西遊記』において三蔵法師が遭遇する数々の災難は、日本流に表現すればシルクロードの百鬼夜行の類が天竺へ旅行中の三蔵法師を襲った多様な事件の小説化と考えると一人合点がいくのである。
 2千年も前の時代では、シルクロードを行く者が強盗、山賊、遊牧民の襲撃の脅威にさらされ、地形の安全も確たる保障が無く危険に脅かされていたから、人を寄せ付けない地形と人畜有害な脅威が長く続く厳しい環境に悩まされていたであろうことが想像できる。
 その距離1万kmとも8千kmともされるが、後者をとっても時速5㎞、1日7時間で両端間を移動した場合、229日を要しそれは休養など考慮すれば8ヶ月に及ぶのである。従って、途中の様々な中継地を拠点とする仲介者に頼らずにシルクロードの全行程を踏破できる者はほとんど居なかったとされている。

 またシルクロードの中国側起点は長安(現在は陜西省西安市)、西方の起点はシリアのアンティオキアあるいは、中国側は洛陽、西はローマ、加えて日本が東端であったとするなど、定かではない「道」そのものが実に多数の国に、それも一本ではなく、動脈状に伸長し「道路網」を構成している。それはヒトが移動するときに残した足跡を次々にたどることでできる小道が長い年月をかけて「本道」となって行くことに等しい時間の経過を語っている。

 アケメネス朝ペルシア帝国のダレイオスⅠや中国・秦王朝の始皇帝、古代ローマ帝国のインフラ整備など、皇帝や国家が「王道」、「直道」、「アッピア街道」と称する「道」を造成してきた事跡と異なってヒトの往来が時代を重ねて築き上げた「シルクロード」の筋道をたどり、特定するのは難しい検証である。

 シルクロードは一本の道路ではなく、大きく分ければ山岳地、原野、沙漠などの地形特性に応じて通行しやすい道筋をたどって形成されており、国家事業、あるいは皇帝たちの命で造成される高速道路としての「王道」や防衛線を形成する「万里の長城」と異なる。

 道筋はヒトの歩行し易さも優先されるが、「交易路」としての便宜性が優先されるようになると、移動・輸送手段は、それぞれの地形特性に対応し、山地、平原、沙漠の別に騾馬(らば)、馬、駱駝(らくだ)に依存するようになった。それぞれ当然に積載量が異なるし、移動速度は人間の歩く速度に動物を合わせるか、あるいはヒトが騾馬、馬、駱駝に乗るのかで異って来る。シルクロードが何処から何処までかは、時代や地勢などによって異なるが、最も長かったシルクロードの距離は、1万~8千kmと幅が大きい。

 勿論、人類の移動は「道」を形成し道が「道路網」を形成してきたのだが、道路の発展は、目的地までの往復が頻繁になると生じ、道路が文明度を高めてきている要素の一つでもあった。加えて輸送手段の発展は、道路そのものが輸送に最も適した質や体裁を整える方向付けをした。道路はまたその延伸によって周辺を含めた地図の出現とその地図の改善を促した。地図を見た人々は、移動について計画性を持つようになり「何時、何処へ、何を目的に、誰が、どうやって」目的地まで行くのか決めるようになったであろう。さらには地図の詳細化、地域の拡大化、地域図と他の地域とつなげていく作業が促され世界の地図が各国で正確化されていくことにもなった。それこそがジオポリティークの原点である。

2ムスリムの交易

 シルクロードを骨幹経路とした貿易は、ユーラシア大陸の東西を結びアラブの交易がムスリム交易に継承されていくとさらに東の文化、物産を西へと運ぶマーケットの需要が高まった。香辛料、絹織物、家具、陶器、宝石、貴金属など、それらは人々がムスリムで占められたバクダード、メッカ、メデイナ、カイロ、アンティオキア、コンスタンティノープルなどのバザールを経て、地中海沿岸部のヴェネティァ、ジェノヴァなどの商業都市国家からヨーロッパ諸国へと流入した。

 イスラム帝国の成立は、ムスリム交易をより大規模にし、かつ輸送する「物」の安全を担保することになった。イスラム教が新興宗教として軍団を組織化してアラビア半島の覇者となり、生存圏を拡大していく時代、ムスリムの生存圏確保のためにイスラム帝国拡大に不可欠となった軍事集団は、他方でムスリム交易の警護部隊としても不可欠になって行った。海洋交易にとっての「商船護衛」同様の任務を負うムスリム交易商人警護部隊はシルクロードにおける盗賊等が手出しできない安全保障機能を発揮していたであろう。

 しかし、中東と中国間のシルクロードを往復2年もかけて移動する交易所要時間は、移動のための人権費所要だけではなく。警護部隊のための様々な必要経費を加算すると商品価格を極めて高額にした。ヨーロッパにおける需要の増加に対して供給が追随できない陸路の輸送量を増やすことが難しい状況は価格を押し上げることにもなった。

 さらにはオスマン帝国(1299-1922)の成立が広大な地域に及び、1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させ東ローマ帝国を滅亡に追い込んだ事件は、シルクロードのヨーロッパへの経路を遮断するという「地政学的現象」を生じさせた。

3 大航海時代(1415-1648)へのきっかけ

 オスマン帝国全盛は、シルクロードの消滅をもたらした。

 ヨーロッパにおいてはいよいよ東方世界からの物産が希少価値となりその価格の高騰と欲求が不均衡を招き、その時代に目覚めた時代精神が「大航海時代」の喚起である。「冒険家(コンキスタドール)」たちは自ら求めて大洋に乗り出していった。

 それと符丁するように、中国から導入された「羅針盤」は船舶の航海距離を延伸させ、大洋に乗り出すための造船技術、航海術も進歩させた。航海に必要な所要日数が無限に不明で、海路も世界地図も存在しない未知の世界への挑戦はまさに冒険そのものであったが、封建領主の中央集権化が富の蓄積をも促し、さらに富を求めて冒険家に投資して冒険家のパトロンになる封建領主も現れてきた。それらの社会現象は、ムスリム交易を経て得ていた物産をヨーロッパが直接に原産地から入手することで「ムスリム商人の得る中間利益と所要経費」を節減できることにもつながっていく。

 ポルトガルのエンリケ航海王子が行なったイベリア半島西端のジブラルタル海峡を挟む対岸、北アフリカ・セウタの占領(1415)がきっかけとなり、アフリカ西岸を伝って南下、さらに北東へ針路を向けることで、ムスリム商人が設定した今日でいう「シーレーン」である中国・インド・ペルシア・アラブ沿岸航路との接続の可能性を探ることにもつながっていった。

 この時代精神が高揚してアフリカ西岸を南下したバルトロメオ・ディアズが喜望峰に至った(1488)。喜望峰を経由してインドに向かったヴァスコ・ダ・ガマは風上へ向かう航海術でインド洋航路を作る(1498)ことになった。コロンブスのアメリカ大陸への到着(1492)、マゼランの世界一周航海(1519-1522)は、さらにコンキスタドール(冒険者・征服者)たちの、彼らにとっての新大陸における侵略・略奪・暴行・破壊の高揚と規模の拡大を促していった。

 ここで加筆すべきは「シルクロード」の時代精神が謳歌した時代、「海のシルクロード」が存在したことである。中国・明(1368-1644)の時代、宦官鄭和(1371-1434)が永楽帝に命ぜられ、中国・福建省からアフリカ大陸北東部沿岸までの海岸線に沿ったシーレーンを航海した。

 船団指揮官としてアフリカへ向けての航海は7回に及び、東南アジア、インド、セイロン、アラビア半島、アフリカ・ケニアでの商取引を行った。鄭和はムスリムであったから、ムスリムの世界では歓迎されたであろう。鄭和が航海したシーレーンはムスリム交易で多用されており航海そのものは、ヨーロッパ世界が行った侵略的かつ冒険的航海と異なって、一部土着民の反発を受け武力衝突に至っているが、シーレーンが定着している環境下での航海は武力行使が無かった。

4 今日の文脈において

 中国の「一帯一路」戦略において「シルクロード」はキーワードである。

 確かにシルクロードの原点には張騫の存在がある。しかし、筆者のシルクロード観は、シルクロード自体中国が国家として整備したものではなく、多岐多様に及ぶ民族の商人たちが対中貿易のために往来して「出来上がっていった」商業レーンである。従って、「創生・創始者的ニュアンス」で伝わる「中国のもの」スタンスは、よりボーダレス及び国際協調感覚に満ちた主張を謳う方が望ましいし共感を増すであろうと考える。

 海のシルクロードは「真珠の首飾り」と呼ばれるが、これも大英帝国時代、七つの海に君臨したイギリスの寄港地を結んだ状態を言ったものだ。「真珠の首飾り」という中国の主張が、大英帝国同様、「寄港地はイギリスが宗主国たる植民地」という文脈において使われているのであれば「植民地化」を狙う政策として警戒すべきであろう。

 シルクロードは物資の輸送即ち交易路としての盛況ぶりの象徴でもあるが、思想・芸術・宗教・哲学・科学などの広い分野において東西交換の役割を担った。また、ヒトは商人だけではなく、植民・難民・宣教・技術・外交・軍人など多様な人々の交流の道となった。
マイナスイメージだが、ペスト流行の道となった歴史もある。

 輸送機関・機能はさて置き、多数の国が関与する移動の経路が存在することは、今日でも国家間に敷かれた政治・経済・外交・安全保障・文化の交流、コンセンサス形成のための「道(筋)」として役割を果たすことの重要性に変わりがない。
 シルクロードのように「平和的な役割=国際交流」のために機能してきた道が世界遺産としてではあるが2,200年間継承されてきたことが尊い。

 反面、シルクロードが消えた代わりに真逆の「侵略征服時代」を招いた「大航海時代」が来ったことは白人主義が起こした実に悩ましい今日的な歴史でもある。
ヒトが賢人としてこの「陸の道・海の道」の歴史を示唆としてどのように捉えられるか、考えるかは、今日悩ましく直面している「戦争」についての「非戦・避戦・停戦・休戦・終戦」にたどり着けるか否かを導く一つの標本でもあると思料する。