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第1章 ジオポリティ―ク序説 第2節 地図の見え方

〈国際地政学研究所の林吉永さんによる「避戦の地政学」連載の第2回目です。「地政学」というと戦争するのに不可欠な学問分野だと思われてきましたが、タイトルにあるように「避戦」の立場から地政学の転換をめざすものです。林さんは航空自衛隊の空将補を経験されたあと、防衛研究所で戦史部長を務めました。40回以上続く予定です。〉


 先に述べたがGeopolitik(以下「ジオポリティーク」という)は、古代からの戦争史における民族の移動と衝突などの地理学的連続性、あるいは覇権を巡って連鎖する地政学的現象を説明してくれる。分けても戦争という文脈では、戦争に至る経緯、戦争の様相、戦争の勝敗、戦後処理を見ることができる。よって戦争学、戦争史からは、事実の確認、分析、批判、教訓の抽出によって「非戦・避戦」の叡智が導けるはずだ。そのツールとして必携とされたのが地図である。

 個人・団体・部族・民族が移動する際は、例え衝動的であっても目的地を選びそこまでの行程をイメージする。そのイメージには例え脳裏に描いたものであっても地図が存在する。計画的移動の場合、地図の存在は必須である。移動には、徒歩・車両・鉄道・船舶・航空機など様々な手段がある。移動手段の選択には、目的達成に最適な出発・到着時間の設定、天象気象、不測事態発生時の代替え、快適さ、服装、同行者なども考慮しなければならない。

 これが個人や家族のニーズにとどまらず、組織・団体・地域・国家の大掛かりな行動のために供されるようになると、行動計画作成には膨大な手間がかかる。最も重要なのは目的達成のための思案や行動である。地図に含まれる地理学的ファクアターには、関係者、天象気象、言語風俗習慣、情勢が加わる。

 今日では行動計画作成に要する情報量が実に膨大である。情報を至短時間に処理し所望に供する作業量もまた膨大だ。しかし、高度なIT “Information Technology” は、人が優れたIT操作のテクニックを持っていればたちまち所望のアウトプットへと導いてくれる。

 されど、「地図というアナログ・ツール」はデジタル処理を補完して余りある。さらに重ねるが、移動を伴うヒトの行動は、接触する人種・国民・民族・部族・組織・団体・言語・風俗習慣・宗教・禁忌といったヒトとその営みに関する諸事象、移動に伴う母国と異なった法的事項・通貨・通信や移動の手段・宿泊居住の要領・医療、天象気象への適応・天災人災の諸現象に対応する危機事態の行動要領などなど、総じて「地理学的」諸要素に振り回される。

 それらは、個人から集団間、国家間、同盟・連合間に発展した諸現象を引き起こす種でもある。マッキンダーが言ったように、第1次世界大戦・第2次世界大戦時のドイツの地図には生存圏が、イギリスの地図には植民地が描かれ、争いの諸現象が強引に引き起こされた。

 その現象は、相互の理解や価値観の共有を図り、安定的かつ平穏な相互の尊重・許容・友好を保障する交渉がなされない場合、摩擦・衝突・紛争・戦争といった、究極には国家や集団の暴力装置に訴えた殺傷・破壊・略奪・排除・隔離・占領・支配の作用を及ぼす。勝敗を争う現象は、勝者が敗者に勝者の意思を強制する結末に至る。

 これが地政学的現象である。

 地図に添えられる情報には、多岐多様な自然現象、人為的現象の統計・分析結果がある。この情報は、国家・民族・部族・集団など相互が生存を競い保障する地政学的ツールとされ、組織の暴力装置を用いて生存圏・勢力圏を拡大し優位に立ち、勝利、覇権獲得に供されるようになった。

 ここに、「戦争は政治の継続である」所以が在る。

 さらに、地図を追い、地図がどのような現象を語っているかに目を向けてみる。


バビロニアの世界地図(紀元前600年頃)略図(筆写:筆者)


 最古と言われる地図が出現したのは、紀元前600年頃に描かれたバビロン(現イラク)の地図である。バビロンは二重の同心円で描かれている。内縁と外縁の間は「オケアノス」と呼ぶ外海の大洋神を象徴し、その外は世界の果てである。内円の中央上(北)から下(南)へユーフラテス川が描かれ、ユーフラテス川を横切る左右(西東)の長方形がバビロン、内縁円周に沿ってバビロンを取り巻く衛星都市のように小さな円で描かれているのが東にエラム(現イラン)、北にスサ(現アルメニア)などの有力都市、北には山岳地、南東にはペルシア湾、南部に湿地が描かれた世界である。作成された目的は定かではないが、バビロンの強権とその領域を意識しているのは明らかだ。

 紀元前5世紀、古代ギリシアの哲学者であるアナクシマンドロスは、バビロニアの地図同様に世界を二重円の内円に収めた地図を描いた。円の中央に描かれた地中海は、現在のイベリア半島先端のジブラルタル海峡で円の外周を囲む外洋オケアノスに接続している。地中海を挟んだ上(北)の部分が陸地全体の約40%を占めるエウローパ(現ヨーロッパ)である。

 エーゲ海からダーダネルス海峡・マルマラ海・ボスポラス海峡を抜け東に出るとると黒海である。黒海からファシス川(現ジョージア西部・リオニ川)が北東に流れアシアー(現西アジア)と分ける境界を成している。

 アナトリア半島を要(かなめ)にして右(東)へ扇状に広がる約40%の部分がアシアー、アレクサンドリアを要にして左下の小さな扇を成す約20%がリュピアー(現アフリカ)で、アシアーとの境界にナイル川が描かれている。

 注目すべきは、地中海、エーゲ海、アドリア海、黒海、イタリア半島がほぼ現在と変わらない正確な位置関係とサイズになっていることだ。この時代の地図は、都市国家群が海岸線に沿って存在、フェニキア人が地中海を制海、ペルシア帝国が生まれたという時代環境がこの地図の作成を可能にしている。

 ペルシア帝国がギリシアに侵攻したペルシア戦争(紀元前499-紀元前449年)についてはヘロドトスが『歴史』に記している。今日、『歴史』をもとにヘロドトスが描いた世界地図が再現されている。地中海を中央にして時計回りにインド・インダス川、ペルシア、バビロニア、アッシリア、エジプト・メンフィス、カルタゴ、イベリア、アルプス、イタリア半島、バルカン半島・ギリシア、アナトリア半島、黒海、アゾフ海、コーカサス山脈、カスピ海が描かれている。

 ペルシア戦争では、約100万人のペルシア陸軍がエーゲ海沿岸に沿って約1,800 kmの遠征を、海軍はエーゲ海を横切って約800kmの航海を行ってアテネに攻め入った。紀元前5世紀、1年以上の進軍を要する戦争計画には「地図の役割」が必須であったはずだ。

 地図は、ヒトが移動する範囲の拡大とともに正確性を重ねていった。

 古代ローマの学者プトレマイオスは150年頃、『地理学(ラテン語 ”Geographia”)』を著し、地図に描かれた世界を広げた。その世界を現実(実学)の地図として描く始まりを作ったのがイスラム交易ではなかったか。イスラム交易には、プトレマイオスの地理学的発想が積極的に取り入れられ、シルクロードを主要輸送路としながら、海洋においてペルシア湾・インド洋・南シナ海沿岸航路を開拓していったとされる。加えて、中国で発明された「羅針盤」の導入は外洋進出に拍車をかけるトリガーとなっていった。

 イスラム交易からの輸入に依存していたヴェネチアやベニスの商業界が自ら、直接にイスラム交易に代わる交易の開拓を試みたのが「大航海時代」であった。地中海から外洋への進出は封建領主の中央集権化が進むとともに豊富な財力を得ると、領主は「冒険家」のスポンサーとなって外洋進出に拍車をかけ、地図の必要性が増す時代精神が高揚した。

 帆船の構造や航海技術の進歩は必ずしも地図の発達を伴っていない。クリストファー・コロンブスは、「地球は球体である」から西へ進めば大陸の東端、マルコ・ポーロが著した『東方見聞録』に記述されたジパング(日本)に到達すると考えた。『東方見聞録』には、ヨーロッパと陸続きのユーラシア大陸東端への紀行が綴られ、未知の世界に至る地図の役割を果たした。コロンブスは、航海中片時も『東方見聞録』を手放さなかったと伝えられる。1492年、スペインを出航したコロンブスの選択は、東ではなく航海日数を短縮できる西回りであった。

 1492年、ドイツの地理学者であり探検家のマルティン・べハイムは世界最初の地球儀を制作した。この地球儀には『東方見聞録』を始め地理学的情報が生かされているのだが、正確性は評価が低い。重要な点は、この地球儀に新大陸「アメリカ」が存在していないことだ。コロンブスには新大陸の存在イメージが無かった。それは、航海の終着点をインドと誤認したことでも明らかであり、「西インド諸島」が北米大陸に近接する島嶼であることが知られ、今日の世界地図が描かれるまで未だ時間を要した。

 新大陸は、コロンブスの認識から「インド諸国 “Indies”」と称されていた。1507年、ドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミューラーが北米大陸発見のイタリア人探検家アメリゴ・ヴェスプッチの名にちなんで「アメリカ」という名称を始めて用いた。語源には諸説あるがここでは有力説にとどめておく。

 コロンブスの西インド諸島到達、マゼランの世界周航など探検家の活動は、地球規模の地図作成を「中世のグローバリゼーション」と同期させる誘因になった。大航海時代は、1215年、ポルトガルのエンリケ航海王子が地中海のジブラルタル海峡アフリカ大陸北岸のセウタを奪取したことに始まり、1648年、ロシアの探検家セミョン・デジニョフがユーラシア大陸最東端の岬に到達したことで終止符を打つ。

 1648年は、30年戦争が終焉し主権国家が誕生した時代でもあり、ヨーロッパ諸国が30年戦争後のウエストファリア体制下、「欧州を戦場とする」のではなく、大航海時代の余勢をかって植民地支配の競争に突入して行った時代でもある。

 スペインやポルトガル国王が探検家のスポンサーとなって征服地における略奪に執心する間、イギリスは、その上前をはねる海賊行為と、新発見の土地を植民地として経営することに精力を注いだ。イギリスの海賊は英国海軍として海洋支配の任に就き、七つの海の制海を誇るようになった。制海・植民地支配に要する有力港湾の確保、その周辺地域の支配、付帯する鉱物/食物等資源の独占は、あらゆる地域にユニオンジャックをはためかせる成功をもたらした。

 植民地経営の専門教育は英国本土におけるオックスフォードやケンブリッジ大学で行われた。植民地支配下の優秀な原住民の中から選ばれた人材は英国本土で教育を施し、植民地支配の有力な担い手として育てられた。

 こうして地球規模の地図が作成されることで世界の強国支配に勢いをもたらしたのである。

 次に今日、地図をどのような視点で見ているのか、幾つかの例を挙げる。

 世界地図上で、日本の北方四島返還をロシア側から見ると、不凍港確保のため現時点における返還はあり得ないという結論が導かれる。それは、ロシア海軍の外洋進出に次の制約が有るからだ。

 バルト海から北海・大西洋へ出るにはドイツ領内キール運河を通過せざるを得ない。

 クリミアを領有しても、トルコの勢力下に在るダーダネルス・マルマラ・ボスポラスを通峡しなければならない。しかし、ロシアにとってエーゲ海・地中海に出る唯一のシーレーンである。

 日本海に面する港湾の活用は、中国と手を組んで東シナ海・日本海・宗谷海峡・オホーツク・ベーリングを貫くシーレーンを確保し、地球温暖化による北極圏のシーレーン・コントロールに備え整備を進めている最中だ。

 中国にとって、北極圏シーレーン・コントロールは、中国・ヨーロッパ間の船舶運航上、スエズ経由に比べ30%の時間・燃料・経費節減になる。従って、ロシアと手を組み日本海航行の主導を企図する。そのためにも、東シナ海制海、尖閣の要衝確保は当面の目標となる。

 国々によって世界地図の描き方見方が異なる。

 ニュージーランドの世界地図は上に南極が配置されている。それは、日本が世界地図を開く際、太平洋を中央に置く意識と同じだ。

 富山県発行の日本地図は、日本列島の南北を横に寝かしている。富山県の日本海漁場に対する重要性を訴える意識の表れである。またこの列島線を千島からシンガポールまで延長すると日本列島から南へ延びる島嶼が中国、韓国、北朝鮮、ロシアの太平洋進出を阻むように見える。

 デジニョフ岬とアラスカの中間に在る大ダイオミード島はロシア領で、小ダイオミード島はアメリカ領であって、その間3.8km(時差21時間)なのだが冷戦期の米ソ、現在の米露間の摩擦・衝突問題に無縁である。

 戦争史において、ナポレオン戦争がもたらした「変革」は、国民国家化を進め「国際社会のシステム化・グローバリゼーション・ボーダレス・脱国家」現象を促した。同時にジオポリティークは、輸送や通信技術の進歩によって世界を拡大する一方で「身近な世界」という縮小の現象を提供した。現実の地図に拡大縮小は無いのだが、ジオポリティークの世界では拡大縮小を実感させている。