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第6章 領邦国家の成立 第3節 王位継承戦争

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク

第6章 領邦国家の成立
第1節 封建領主の支配
第2節 王権神授と王位継承
第3節 王位継承戦争

第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章  戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 封建社会における封建領主間の婚姻は、結婚する本人の意思と無関係に領主の勢力拡大や脅威との対抗など国の主権や利益を重んじて「政略結婚」がごく当たり前に行われていた。政略結婚の英訳は “marriage of state” と言い、領邦国家間において行われる “Geopolitik” であり覇権を争う世界における「地政学」上の計略の一つでもあると言える。
 さらに政略結婚の目的に言及すれば、中世において強く求められたのは「王位継承権を得る」ことであって、必然的に生ずる同盟関係の構築により「共有する領域を拡大して覇権を強化する」ひいては「戦争を抑止・回避する」ことにつながり、安定した国家関係が商業や産業の発展、文化・技術の交流などに寄与し、今日でいう国益につながることになった。

 ヨーロッパの中世封建領主が支配した世界においては、時には自身が殺されるかもしれない戦争を仕掛けて覇権を拡大するよりも政略結婚を企て王位継承権を得た方が賢明であるとする時代精神が盛んであった時代がある。

 封建領主の王位継承に限らず、リーダーシップ継承には古今様々な悩ましく深刻な現象がつきものなのだが、戦争史においては、政略結婚で避戦が意図された反面「継承問題」が戦争を煽ってしまう例も多くあった。

1 王位継承戦争でヨーロッパの地図が変わる

 13世紀から19世紀の戦争史において「王位継承」に係わる戦争事例は578年間で約30件、戦争累計は約380年間の多数である。ここに王位継承が火種になった封建領主・領邦の戦争についていくつか挙げてみる。

(1) 百年戦争(1337-1453)
 
 百年戦争は、イギリスとフランスの間で領土と王位継承をめぐって百年余も断続した戦争である。戦いは現在のフランス領内で行われた。それは1066年、フランスの一諸侯であったノルマンディー公ウィリアムがイングランド遠征 “Norman Conquest” を果たしイングランド王を兼ねた歴史が背景にある。さらには、1154年にフランス・アンジュー/ノルマンディー/アキテーヌ領主アンリがイングランド王位(ヘンリー2世)を兼ねプランタジネット朝を開いたことに遡(さかのぼ)る。ここで断っておくが、フランス内におけるアンリの立場は、フランス国王に臣従しなければならないフランス国王臣下の領主であったことだ。

 この時代の封建領主の立場は「領域ごと」に関係性が築かれ複雑であった。神聖ローマ帝国では300に上る中小の封建領主がそれぞれの自治を行いつつ、神聖ローマ帝国皇帝との臣従関係も成立させていた。従って、ある君主の領域が他の君主の宗主総括する領域に存在する場合には、君主相互間に領土の所有という文脈の封建的臣従が存在した。

 イギリス・プランタジネット朝国王エドワード3世の時代、1339年、フランス・カペー家の王位断絶時、継承者となったヴァロア朝国王フィリップ6世に対して、エドワード3世は母親がカペー家出身であることを理由に「自分はフランス国王でもある」とその権利を主張したことで「王位継承権」をめぐる衝突が起きた。この衝突は英仏間の国家間戦争ではなくプランタジネット家とヴァロア家のフランス王位をめぐる戦争に発展した。加えて、双方に組する封建領主たちはフランス内で二手に分かれて領地争いを重ねることになった。

 百年余の争いは中小封建領主の没落を招いたが、中央集権の絶対王政に向かうきっかけともなった。フランス国内でフランス国王に臣従しなければならないイギリス国王はフランス内で自領の拡張を目指し、フランス国王はフランス全土に布く絶対王政の障害となるイギリス国王の駆逐を目指した。

(2) 薔薇戦争(1455-1485)

 イギリスでは百年戦争後、赤薔薇の家紋ランカスター家と白薔薇の家紋ヨーク家が王位継承権を争い、同時に封建貴族たちも2派に別れて戦うことになった。結果、ランカスター家一族のテユーダー家からヘンリー7世が王位に就いた。ヘンリー7世はヨーク家のエリザベスと結婚することで和解を象徴した。

 分裂して戦った貴族は相討ちのかたちで没落していく。まだ名残が残っていた「騎士道」を誇る貴族たちは小銃や大砲の時代に対応できずその姿を消さざるを得ない時代の変化RMA “Revolution in Military Affairs(戦争の進化が社会制度や生活、文化までも変え、市民社会の変革が次の戦争の姿を変えてしまう現象)”に遭遇していった。

 そして貴族たちの封建制度下の領地はテューダー朝王権の中央集権化、絶対王政化によって吸収され、次代の主権国家、国民国家出現の礎となって行く。

(3) ネーデルラント継承戦争(1667-1668)
プファルツ戦争/アウクスブルク同盟戦争(1688-1697)

 三十年戦争(1618-1648)の終戦を調停したことで神聖ローマ帝国・ハプスブルグ家に
替わってヨーロッパの強国となったフランス王国・ブルボン家のパワー・ポリテイックス行使は他国に生じた王位および主権の継承への干渉に至った。

 フランス・ブルボン朝絶対王政の基礎は、三十年戦争当時のフランス宰相であり枢機卿であったリシュリューが築いた。同じく枢機卿でリシュリューの後継者であったマザランは、三十年戦争終結のお膳立てを演じてフランスの絶対王政全盛期をもたらし、国王ルイ14世を担いでさらに勢力の伸長を狙ったネーデルラント、およびドイツ・ラインラント地方に侵攻した。それは、ハプスブルグ家の勢力を弱体化させる三十年戦争の延長戦でもあった。

 この戦いはフランス・ブルボン家がヨーロッパ一円を支配するハプスブルグ家にとって代わる戦争であった。戦争発端の口実は、フランスがハプスブルグ家スペインに勝利し講和の象徴となったルイ14世とスペインの王女マリア=テレサの政略結婚におけるスペインからの持参金の未払いを巡って、フランスが代替えにスペイン領南ネーデルラントの一部割譲を要求したことにあった。

 ラインラントのプファルツ侵攻では、フランス王ルイ14世の妹がプファルツの選帝侯(神聖ローマ帝国君主選定の選挙権を有する帝国内封建領主)カールの王妃であったことから「王位継承権」を主張し、さらに三十年戦争ではプロテスタント側で戦いながら、プロテスタント国に圧力をかけるなどフランスが軍事大国化しつつパワー・ポリテイックスの行使を強引に進めた。

 さらに勢いを駆ってフランスは、オランダ・スペイン・イギリスなどのアウクスブルク同盟に戦争を仕掛け、ライン川以南の支配権拡張を狙った。これら一連の行動は、神聖ローマ帝国の封建領邦とハプスブルグ家の力を削ぎ、フランスの覇権をヨーロッパに確立しようとする軍事行動であった。

 1697年、フランスは膠着状態となったプファルツ戦争/アウクスブルク同盟戦争にオランダのライスワイクにおける条約で終止符を打った。

 ライスワイク条約は、「ルイ14世はファルツ選帝侯の相続権を放棄(代替えとして金銭を要求)、神聖ローマ帝国に占領地を返還但しアルザス・ストラスブールはフランス領、スペインに対し占領地カリブ海エスパニョーラ島の東半分(現ドミニカ共和国)を返還但し西半分(現ハイチ)はフランスが所有、イギリスに対してはウィリアム3世の王位継承権を承認、オランダには通商上の特権を容認」といった内容で、フランスにとっては9年の戦争に見合う代償とはなっていなかった。

 しかし、この戦争は地球規模で、しかも植民地に戦禍が及ぶ特徴を見せた。

(4) スペイン王位継承戦争(1701-1713)

 スペイン・ハプスブルグ家国王カルロス国王の王位継承をめぐる複雑な争いである。

 フランス国王ルイ14世は王妃が王位を継承する側の国王の姉、神聖ローマ帝国皇帝の后妃は妹、そのほかルイ14世の甥、バイエルン選帝侯、サヴォイア公、ポルトガル王がそれぞれスペイン王室との血縁関係を理由に王位継承権を主張して競合した。

 スペイン国王カルロス2世が遺言で名指したのは、フランス王位継承権の放棄を条件にフランス国王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップで、王位継承後スペイン王フェリペ5世を名乗った。しかし、問題はフェリペ5世がフランス国王継承権を破棄しなかったことであった。それは将来フランスとスペインが一体となればヨーロッパでの強権行使に他国が逆らえない強国の出現となるからであった。

 危惧はすぐに現実となった。新国王フェリペ5世は「アメリカにおける黒人奴隷貿易の独占権」をフランスの貿易会社に便宜供与したのである。反発するイギリス・オランダ・オーストリアは対仏大同盟を作りフランスに宣戦布告、スペイン継承戦争が始まった。

 戦争は、フランスとイギリス・オランダ・プロイセン・ポルトガル・サヴォイア間でユトレヒト条約(1713)、フランスとオーストリア間でラシュタット条約(1714)が締結され、フェリペ5世のスペイン王ブルボン朝統治が始まった。オーストリア・ハプスブルグ家は結果的にフランス・ブルボン家に優位な立場を築いたかに見えたが、実質最大の権益を獲得したイギリスは、北アメリカ植民地戦争「アン女王戦争(1702-1713)」でフランスに勝利し植民地帝国発展の基盤を獲得することになった。

 ユトレヒト条約では「フランスとスペインは永遠に一体化しないことを条件にフェリペ5世のスペイン王位を承認、イギリスはスペインからジブラルタル・メノルカ島を、フランスからニューファンドランド・ノヴァ=スコシア・ハドソン湾地域を獲得、オランダはスペイン領ネーデルラントのいくつかの地域を獲得、プロイセンは王国呼称を認証、サヴォイアはシチリア王国を獲得(後にサルデーニャ島と交換)」が成立した。
 また付帯的にイギリスは、奴隷貿易の権利をほぼ独占する権利をフランスから譲渡され植民地支配に力を増した。

 このユトレヒト条約では、実体としてハプスブルグ家同様の勢力を誇ったブルボン家の影響力を抑制することに成功、イギリス・オランダ・プロイセン・オーストリア・スウェーデンなど諸国の勢力均衡を図ることが意図された。この国際関係構築はフランスの市民革命・ナポレオン戦争まで続く。

(5) オーストリア継承戦争(1740-1748)―ハプスブルグ家の相続―

 ハプスブルク家の家督継承の争いをきっかけに、オーストリアにイギリスが、プロイセ
ンにフランスとスペインが組して領土を巡る戦争を行った。この戦争は植民地にも連鎖して影響を与えている。オーストリアとプロイセンは、女帝(マリア=テレジア)誕生を認めること、オーストリア領シュレジェンをプロイセンが占領しようと試みた事件で対峙していた。
 
 プロイセン王国国王フリードリッヒ2世は女帝容認の交換条件として工鉱業が盛んなシュレジェンの割譲を持ち出していた。また神聖ローマ帝国皇帝選帝にハプスブルグ以外の諸侯が名乗り出ていた。加えて第3者である反ハプスブルグの立場に居るフランスはプロイセンに同調、フランス、スペイン、プロイセンと対立するイギリス、ロシアはオーストリア側に立った。

 シュレジェン獲得にこだわるプロイセンの執拗な侵攻にオーストリアはシュレジェンをプロイセンに割譲することで1748年、オーストリア、プロイセン、イギリス、フランス、スペインの間で合意したアーヘンの和約で終結した。この結果、プロイセンは軍国主義体制を布いてヨーロッパにおける強国へと近づいていった。

 オーストリア継承戦争と並行して、イギリスはスペインと西インド諸島で、フランスとは北米大陸およびインドでの戦争を進めた。

 オーストリアではシュレジェンのプロイセン割譲と交換にマリア=テレジアのハプスブルグ家継承が認められ、神聖ローマ帝国皇帝には女帝が就けないことからマリア=テレジアの夫トスカーナ大公が選出されフランツ1世を名乗った。

 神聖ローマ帝国、オ-ストリアを支配したハプスブルグ家は、政略結婚に成功し、ブルゴーニュ公国、ハンガリー王国、ボヘミア王国、スペインの王位継承権を握り、スペイン領植民地の中南米も含め『太陽が沈むことが無い広大な領土』を支配していた。

 オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は、ヨーロッパの覇権をかけたライバル関係にあったが、18世紀に入りプロイセンの台頭があからさまになった時代、マリア=テレジアはこれを牽制すべくフランスとの和解のため皇女マリー=アントワネットをフランスに嫁がせた。しかし、マリー=アントワネットはフランス国王ルイ16世に嫁いだことによってフランス市民革命において断頭台の露と消える運命を負ってしまう。

(7) ポーランド継承戦争(1733-1735)

 1386年のポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラの結婚はポーランド王国とリトアニア大公国の同君連合を誕生させた。ポーランド・リトアニア共和国は同君連合断絶後では選挙君主制が行われ、国王の自由選挙により国内外の有力者が国王に就いた。この制度は王権の著しい弱体化を招き、外国の干渉するところともなった。

 1733年、フランスのルイ15世が后妃の父スタニスラス=レクザンスキを国王に選出されるよう企て、ポーランドの国王選挙に干渉しスタニスラス1世を誕生させた。これに対して、オーストリアとロシアが反対、重ねて干渉し前国王の子供を擁立して国王としてポーランド国王が二人出現するという異常事態が発生、衝突は戦争に至った。

 オーストリアとロシアはフランスに勝利しフランスのルイ15世の支持を受けていたスタニスラス1世はポーランドを逐(お)われてしまう。スタニスラス1世はオーストリアの一部ロレーヌ公国が与えられ、娘はルイ15世の世継ぎを生むために嫁がされるという運命を負う。

2 領邦国家の中央集権化の姿―ザルツブルグの景色―

 ザルツブルグはモーツアルト生誕の地として知られている。また背後の山岳地帯はザルツカンマグートと呼ばれミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台である。

 湖畔の小さな町に立派な教会建築が目立つ平和な景色は、ここで王位継承の戦が盛んに行われていたとは信じがたい。オーストリアの古代からの戦争博物館の展示にオーストリア国旗の言われが説明されている。腹帯(はらおび)をして戦った兵士が、戦いが終わり腹帯を解くと返り血で真っ赤に染まった上下に比べ、真ん中の真っ白な部分が鮮やかに浮かぶ「命がけで祖国のために戦う象徴となっている『赤・白・赤』が上中下の横に染められたのがオーストリア国旗である」という。

 ザルツブルグのザルツは「塩 ”Sault”」から来ている。岩塩が産出したのだと言う。最も目立つ建造物は司教館である。「館(やかた)」というより小高い丘全体に存在する要塞である。立派な城壁も備わっており外部の敵に照準を合わせた大砲までが備えられている。本文中で述べたが、フランスの宰相であったリシュリューもその後継者マザランもカトリック教会ヒエラルキーの高位聖職者「枢機卿」であった。

 ザルツブルグの要塞司教館の主であった司教は、封建領主から城塞の下を流れる川を利用した「塩運搬」の船から通行税を徴収できる権限を与えられていたという。封建社会の封建領邦では、封建領主の信仰であるキリスト教とその聖職者が平民の上に居て、実に封建的な支配、教導を行っていた状況証拠が「司教の城砦館(やかた)」である。

 ヨーロッパの町では何処を訪れてもその街で最も見事な実に巨大で装飾に溢れた建造物にキリスト教の教会が在る。それらは「神の啓示」”Manifest destiny” を象徴し、「王権神授」という正当性に護られた王位継承の正当性を象徴する圧倒的迫力を醸している。
イスラム寺院には偶像崇拝を禁じているため聖像は皆無だが「ムスリムの強い意思を表す象徴的なモスク」が迫ってくる。

 ローマ帝国が統治のためにローマ化を進め、「殉教を恐れない精神に満ちた信者」が増えていくことを利用した「国教化」が宣教に拍車をかけた。ローマ化が進んだヨーロッパ封建社会の封建領主たちがキリスト教という錦の御旗の下で「王位継承戦争」を戦った。ゲームではなく真剣な殺し合いに満ちた戦争であった。それがアブラハムの子孫たちの自ら言う先進性に満ちた、他を異教徒、野蛮と呼んできた彼らの世界であり歴史である。

 このように考えなければ理解できないのが現在のプーチンやネタニヤフの戦争である。重ねて言うが「所与の国家に恵まれた日本人であり非戦闘員である日本人」には大陸の戦争が理解できない。その状態こそが理想的な平和社会に居ることなのだろう。国の政治に携わる人々が「台湾有事」と言いながら、むしろ真剣に取り組んでいる「裏金対策」といった姿こそが日本の平和の象徴であるかもしれない。