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第3章 超国家の誕生 第4節 キリスト教 vs イスラム教―聖戦論の本質

「避戦の地政学」

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く

第3章 超国家の誕生
第1節 ユダヤ教誕生―中東戦争への因縁と終焉しない戦争
第2節 キリスト教の誕生―キリストの理想に背反する国教化と戦争のマニフェスト化
第3節 イスラム教の誕生―地理学的環境決定
第4節 キリスト教 vs イスラム教―聖戦論の本質

第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに―カナンの地

 第1・2・3節それぞれにおいては、「アブラハムの宗教」と総括されるユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれを語った。本節では「アブラハムの宗教」が何ゆえに今日に至るまで「戦争のアクターとして存在する」かを理解する材料を提供する。

 紀元前13世紀頃の地中海東深部及びエーゲ海地域には、ペロポネソス半島やエーゲ海島嶼に発生したエーゲ文明、ナイル川デルタに栄えたエジプト文明、アナトリア半島東部で鉄器文明を起こしたヒッタイト帝国が存在した。

 これら文明に接するイタリア半島および隣接する島嶼、ペロポネソス半島およびエーゲ海島嶼、アナトリア半島(小アジア)、レヴァント地方の主要な部族は、紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけてヒッタイトやエジプトに侵入し、歴史上「海の民」として名を遺した。その中でペリシテ人は、現在の地中海・ヨルダン川・死海に囲まれた一帯の古代名である「カナン」に入植、カナン人ら先住民と共存していた。ペリシテ人は、古代カナンの南部地中海沿岸にアシュドド・アシュケロン・エクロン・ガザ・ガトの五つの自治都市を建設し連合体を形成した。

 その一つ「ガザ」は、2024年4月現在に至るまでイスラエルが武力侵攻を繰り返し行ってきたパレスティナ・ガザ地区である。

1 ヘブライ人(イスラエルの民)―「ユダヤ」とその戦争

 メソポタミア地方で遊牧していたアブラハムの民「イスラエルの共同体を作っていたヘブライ人」はカナンへ移住し、さらに飢饉などの事情でエジプトへ移住し豊かな生活を得た。しかし、それを妬んだファラオ・ラムセスⅡ(紀元前1303年頃 - 紀元前1213年頃)とエジプトの民によってヘブライ人は奴隷に貶(おとし)められた。
 ヘブライ人の反発を恐れたラムセスⅡは、ヘブライ人の男子幼子(おさなご)を皆殺しした。しかし、一人だけ葦船に乗せナイルに流され、ラムセスⅡの妹に拾われ育てられたのがモーセであった。
 そのモーセは、奴隷として酷使されるヘブライ人をエジプトから脱出させ「約束の地」カナンを目指した。モーセ一行の神「ヤハウェ」は、脱出する民をエジプトの追撃軍から救い、シナイ半島南端シナイ山頂で長い逃避行に倦むヘブライの民を律する「十戒」を授けた(『タナハ/旧約聖書―出エジプト記―』)。

 しかし、目指したカナンにはペリシテ人が先住していた。

 カナンに着いたヘブライ人は、『タナハ』に示された “Manifest Desteny” 「ヤハウェの啓示」を「錦の御旗」に先住民ペリシテ人の排除を開始する。紀元前995年頃、ペリシテ軍の頼みの綱であった巨人兵士ゴリアテを倒すなどしたヘブライの英雄ダビデはイスラエル王国を建国した(『タナハ―士師記―』)。

 紀元前930年、イスラエル王国は主導権争いの結果、イスラエル王国とユダ王国の南北に分裂する。
 紀元前722年、中東ではアッシリア帝国が覇権を握りイスラエル王国を吸収、ユダ王国を属国とした。
 紀元前609年、そのアッシリアがエジプトに敗戦しイスラエル・ユダ両王国がエジプトの支配下に置かれた。しかしそれも束の間で、紀元前605年にエジプトが新バビロニアに敗れると、イスラエル・ユダ両王国のヘブライ人は新王国建設の労働力としてバビロニアに送り込まれ、ペルシアが新バビロニアを属州化してヘブライ人を解放するまで「バビロンの捕囚(BC586-BC538)」となった。

 ヤハウェを信奉するユダヤ教の基礎が成立したのは、ヘブライ人がこの「バビロンの捕囚」であった時期である。ユダヤ教の成立はヘブライ人を「ユダヤ人」と呼ぶようになる。

 紀元前333年のマケドニア王アレクサンドロスⅢのペルシア打倒は、紀元前143年まで、ユダヤにヘレニズム化とヘレニズム支配の影響を及ぼした。アレクサンドロスⅢが死去後のディアドコイ(後継者決定戦争)はユダヤを巻き込み、紀元前198年、勝者のシリア・セレウコス朝が覇権を握るとユダヤ教に及ぶ干渉など圧政支配を行った。このセレウコス朝の圧政に抵抗して、ユダヤは紀元前167年、マカバイ戦争を起こし勝利(BC143)、イスラエル王国がアッシリアに屈して(BC722)以来、500年以上かけて独立を取り戻した。

 しかしユダヤ教祭司の家系であったマカバイの主導は祭司の間に内部対立を起し、ユダヤ教内に、俗世界を離れた集団を作り宗教的清廉性を求める「エッセネ派」、ユダヤ教の主流である祭司を中心に律法の解釈を学ぶ「ファリサイ派」、神殿の権威と権勢を誇り、不滅の霊魂、死者の復活、天使の存在を否定する「サドカイ派」が起こりそれぞれ対立した。

 紀元前63年、ローマ帝国ポンペイウスの遠征でセレウコス朝が滅亡、シリアはローマ属州となり、ユダヤはローマ総督の統治の下に置かれた。

 イエス・キリストの活動、キリスト教誕生はこの時代の出来事である。

 政教分離のローマ帝国の統治の他方で、ユダヤの政教一致の制度はユダヤ人のローマへの反発を強め、第1次(66-70)・第2次(115)・第3次ユダヤ戦争(132-135)の対ローマ独立戦争が繰り返された。
 これら戦争の結果、ローマ帝国は、「ユダヤ人の国外追放・ローマ統治下におけるユダヤ教禁制の徹底・国名は『シリア・パレスティナ』に、エルサレムは『アエリア(ローマ皇帝ハドリアヌスの家名)=カピトリナ(ローマ主神の座す丘の名前)』への名称変更・破壊されたユダヤ人の神殿への4年間のユダヤ人立ち入り禁止」を行った。

 ユダヤ人はこれ以来20世紀に至るまで離散し、地球規模の各地でユダヤ人が固有のコミュニティーを形成する「ディアスポラ」を、もう一方で祖国再建、シオン(エルサレム)への帰還運動を続ける「シオニズム」を繰り広げていくことになった。

2 キリスト教とイスラム教の衝突

 環境決定・環境可能という文脈では、約19億人にも及ぶムスリムを要するイスラム教ではあるが性格が実に「環境決定的」であるため、その環境から外界へ出ると受け入れられ難くなる。
キリスト教は世界に24億人も信者がいるが信者が何処に居るか存在感は希薄だ。しかもテロ事件が発生すると「イスラム過激派」の見出しを躍らせる報道が圧倒的に多いからイスラムの世界を包括的に危険視する風潮となる。

(1) キリスト教と戦争

 雑駁ではあるが戦争史年表とその状況証拠から見ると、宗教とその信者とが関わってきた戦争という文脈では、圧倒的にキリスト教とその信者が戦争と積極的に数多く関与し、殺戮と破壊を行った量においても他を凌駕する歴史を遺してきた。

 初期のキリスト教の約300年間余においてローマ帝国のキリスト教弾圧は過酷だった。ローマのコロッセオではキリスト教徒が猛獣の餌食になるという見世物があったとされている。

 しかしローマ帝国のキリスト教容認(313)、国教化(380)はキリスト教信仰の全てを一変させた。世界最大の帝国がキリスト教を国の宗教に指定したのである。それはキリスト教がローマ帝国の統治、他領邦の属州化支配に利用されることでもあった。例えば、識字がごく限られていたから、信者の集まる教会が聖職者によって支配者のメッセージを伝える場となったことは容易に想像できるし、それによって聖職者が領主と癒着していくことも十分考えられた。

 十字軍の遠征は、軍事力を行使して「イスラム勢力に奪われたエルサレムを奪還せよ」という1095年の「神の命令(「クレルモンの公会議」で発令)」によって行われた戦争であった。もっとも「神が戦争を発令」することを憚ったのであろうか、当初は「エルサレム巡礼」であった。別けても第1回の市民がエルサレムに向かった十字軍は、その巡礼が「占領・強奪・暴行・殺人・破壊」を行ったのだから当時のキリスト教の体質を推して知るべしである。第2回以降、市民ではなく「軍事行動」として遠征が行われているが、回を重ねると同じ経路においては奪う物が無くなって経路をはるかに迂回したり、ドイツ騎士団のように北へ向かう十字軍もいた。

 キリスト教の宗教改革が起こした30年戦争では800万人を超えて犠牲者を出している。

 その宗教改革は「教義上の対立」に依るが、それよりも「支配階級と聖職者の関係」の世俗化・退廃・癒着が原因で起きた事件と言えるだろう。ヨーロッパには外部に砲口を向けた大砲が備えられている城郭造りの司教館が多い。武具には十字の印がデザインされている。
 
 30年戦争を決着に導き、ハプスブルグ家に替わるブルボン家、神聖ローマ帝国に替わるフランク王国の勢力交代を実現したフランス王国の宰相リシュリューもその後任マザランもカトリック枢機卿であった。しかもリシュリューは、30年戦争においてカトリック国のフランス王国をプロテスタント勢力に与(くみ)するよう謀った(30年戦争については「第4章大陸の鳴動『第5節宗教革命と30年戦争とウエストファリア体制』」で詳述)。

 中世から近世に至るまで、キリスト教を国教として教会と癒着した関係を持っていた国の何と多いことか。しかも、大航海時代においては、為政者と聖職者が「宣教」と「侵略・略奪・虐殺・占領・暴行・差別・破壊・植民」を優先し、キリストの教え「愛・平和・平等・融和・慰め・柔和・哀れみ・義・心の清さ・喜び・光・赦し・希望・慈悲・寛容」(『新約聖書』マタイ5-7章「山上の垂訓」)と真逆の行動に走る時代を作っていた。

 そのほか歴史上の状況証拠は、王位継承戦争、植民地宗主国の植民地戦争、インディアン戦争、キリスト教国間の戦争に顕わである。しかも、2000年3月、第264代カトリック・ローマ教皇ハネ・パウロⅡが贖罪するまでそれらの非道残虐行為の正当性は「聖戦」として教皇の錦の御旗を戴いていたのである。

 日本におけるキリスト教弾圧も信者にとって悲惨だったが、大航海時代のキリスト教国、信者の行為を前提とすれば、キリスト教の宣教と侵略の合体は、ターゲットにされた国や民族の内部から信者が侵略に呼応するわけであって、軍事力単独の威力を増す作用に対する「弾圧」は止むを得なかったと言えるだろう。

(2) イスラム教の戦争

 歴史上、イスラム教の戦争による生存圏拡大はキリスト教ほど無差別ではない。その証がイスラム教国の「環境決定的」分布である。しかもラッツエルが言うように「勢力が強化され多数化した集団や国家は境界線(国境)を前進させる」のであってイスラム国家の拡大は延長線上に連鎖した。キリスト教では「異邦人への宣教」が教是であってキリストの磔刑直後から今日まで続き、その宣教は聖職者の行くところで行われ不連続である。他方で、イスラム教は信者の増加が家族・家系の延長線上に在るから潜在性と連続性が強い。

 その連続性はイスラム教が誕生した環境が何処まで連続しているかにも左右される。状況的には、環境が途絶えるイベリア半島、コーカサス、中央アジア、西アジア、北アフリカまでイスラム帝国が伸張したがそれ以上に進出していない。これは、マッキンダーが説明するように、モンゴルは世界を制覇する勢いで西はポーランド、東は日本まで侵攻したが、騎馬民族の力が実に環境決定的で、一兵卒まで騎馬を駆って戦う環境が草原に恵まれない森林・山岳・海洋に至ると覇権の拡張が停止したのと同じである。

 ムスリムの連続性の破綻は、身内の後継者争いによる分裂から生じた。しかし、今日、スンニとシーアに二分されたムスリム世界であるが、身内内の勢力争いが盛んでも、キリスト教世界に比べ外界との摩擦に対する結束は遥かに強い。

(3) キリスト教とイスラム教の対立

 歴史的にまた地理学的にイスラム世界の前縁は常時キリスト教の脅威と対峙してきた。

 ヨーロッパ大陸ではジブラルタル海峡を渡ったムスリムのウマイア王朝がイベリア半島を征服した。レコンキスタは、キリスト教勢力がイベリア半島のイスラム王朝を後退させ排除する戦い「再征服 =スペイン語の “Reconquista” 」であった。718年に始まったレコンキスタは、キリスト教勢力がスペイン・グラナダのウマイア王朝アルハンブラ宮殿を陥落させた1492年に終焉する。

 エルサレムはユダヤの神殿が存在していた地、キリストが活動し、磔刑に処され復活、昇天した聖地であり、同様にイスラム教にとってもムハンマドが昇天した聖地である。アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国でありアルメニア使徒教会主教座聖堂が建ち、聖地の四つの区画にそれぞれが共存している。

 この聖地を奪い合ってキリスト教の十字軍とイスラム軍が戦った(1096-1303)。その発端は、アナトリア半島を占領したイスラム・セルジュク王朝軍が東ローマ帝国コンスタンティノープルに迫ったために東ローマ皇帝がローマ教皇に援軍を求めたことにある。教皇はクレルモンの公会議(1095)で「エルサレム奪還」を決定し、キリスト教国及び騎士たちに軍事遠征を要請した。

 この十字軍は、2001年9月11日、米国のワシントンD.C.とニューヨークでイスラム過激派テロ組織アルカイダが起こした同時多発テロに連鎖した。米大統領G.ブッシュJr.が「対テロ戦争宣言」を宣言すると同時に、テロの温床と名指ししたアフガニスタン攻撃「十字軍宣言 “This Crusade”」を発令したのである。このG.ブッシュJr.の十字軍はタリバン政権を崩壊させたものの、タリバンの対米ゲリラ戦は20年間に及び、結果として現代十字軍は、2021年、タリバンの大攻勢によって政権を奪還されアフガニスタンを撤退した。

 今日、キリスト教とイスラム教の対立・衝突、別けてもイスラム国家・イスラム教国における内戦や紛争にキリスト教を国教とする大国が干渉、軍事介入する事案は、かえってイスラム国家・イスラム教国の連帯を強める結果をもたらしている。

 例えば、1969年には、イスラム諸国会議機構 “Organization of the Islamic Conference(OIC)“(2011年「イスラム協力機構 Organization of the Islamic Cooperation”」と名称変更)が開催され、諸国首脳会合において「大国の干渉、抑圧からの解放、イスラム教国間、ムスリム宗派間の対立緩和などを励起しイスラムという文脈における連帯の強化を約束」の共同声明が行われている。また1973年には、石油資源を基盤にイスラム開発銀行を設立、銀行がスラム復興のパトロンとなり世界金融市場に影響力を発揮するよう談合している。

 キリスト教とイスラム教の衝突については、将来的な危惧がある。イスラム国家においてはイスラム教の教義が統治制度に反映されているが、その性格上「独裁」に陥り易い。

 2010年チュニジアで発生した民主化運動「ジャスミン革命」の連鎖「アラブの春」は、その独裁に反発する運動であって、体制側の強硬な武力弾圧が内戦を喚起した。

 シリアの場合は、2020年の資料で、国内避難民が600万人以上、国外避難民が620万人以上出ている。国外避難民の受け入れは、主としてトルコをはじめ、近隣のイスラム国家・イスラム教国が受け入れ、同じムスリムの社会が支援を行っている。しかし、ヨーロッパ諸国への避難は、キリスト教国にムスリムが入って行くわけであって、双方が緊張する悩ましさが発生する。

 特にヨーロッパ諸国にとっては、キリスト教対イスラム教の対立が現実に在って、ヨーロッパ諸国民に警戒心が生まれることは否めない。現実に21世紀以降のイスラム過激派のテロ事件発生は1ヵ月に1回のペースで発生しているくらいだ。

 最大の原因は、イラン・イスラム共和国やアフガニスタンのタリバンに代表されるように、オスマン帝国崩壊からの反欧米感情や自国政府の「同胞の危機に対する無力」への失望や不満の鬱積から暴力的に欧米の圧力、干渉の排除、体制の変革を試みる勢力が消滅しなかったからである。

 更にその背景は、初期イスラム帝国の時期までイスラム共同体にイスラム世界を支配する宗教的信条が形成されており、その目的達成のために、異教徒に対して宗教的、政治的、軍事的緊張を暴力的手段で解決するジハード(聖戦)を正当化して、ISIL “Islamic State in Iraq and Levant” では 「信」と「行」に加える思想さえ生まれていた。

 今日、タリバンに代表されるジハードは、国際秩序や一般社会秩序とは無関係に他との衝突を励起するイスラム世界固有の正義となっている。この正義の根幹に在る『啓典・イスラム法・伝承』の尊重(原理主義)は、イスラム世界と異質な世界との接触部分において他のモラルや社会的規範と衝突が必至である。

 このような文明の衝突は、レコンキスタや十字軍同様、「イスラム教(聖戦)vsキリスト教(聖戦)」の再燃を危惧させ、さらに原因の元を辿れば、それは、「サイクス・ピコ秘密協定」さらには「大航海時代」にさかのぼる戦争の「地政学」が考えられるのである。