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第2章 古代の戦争から読み解く 第4節 古代中国の誕生と戦国時代―中原争奪の地政学

「避戦の地政学」

第1章 ジオポリテイ―ク序説

第2章 古代の戦争から読み解く
第1節 古代都市国家の成立・王国の成立―エクメーネからの発展
第2節 ペルシア戦争―大胆な地政学的解析
第3節 ペロポネソス戦争
第4節 古代中国の誕生と戦国時代―中原争奪の地政学
第5節 アレクサンドロスⅢの東征
第6節 中国の統一
第7節 カエサルのガリア遠征とローマ帝国帝政

第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

1 中国の呼称―「『中国』の領土・国民」に潜在する曖昧さというDNA―

 本節では、言葉上二つの中国を使用するので断っておく。以下、カギ括弧で括(くく)る「中国」は用語として、カギ括弧で括(くく)らない場合は中国という国を指して言う。

 「中国」は、漢民族、モンゴルなど多様な民族と多岐にわたる王朝が戦乱を伴う興亡を繰り返し、文明・民族・戦争など、広い分野における事象を歴史に刻んできた全域を表す用語として認知されてきた。

 19世紀半ばからの国際社会は、地理学的に通信・輸送手段の技術的発達に伴い国家間関係の距離感覚が至近に短縮され、濃密且つ広範に及ぶ「地球規模という時代精神」が常態化して行った。この時代精神の下、1949年、中華人民共和国建国以来、「中国」は主権国家の自称となり固有名詞としての性格を帯びるようになった。
 
 それまで「中国」は、古代西周(BC1045-BC771) 時代の文献や遺物に表記が現れる。「中国」は、秦の始皇帝時代から覇権と密接で領土を「中国」と表し、覇権を握る「中原を制する」の意味合いを有した。加えてこの思想が「中華」など優越性を誇る表現として支配領域、影響力の及ぶ範囲の拡大と連関して用いられることが多かった。

 よって中国の皇帝は自らが人類で唯一の皇帝であり、そのほかは対等でない中華世界の辺境の一領邦の領主に過ぎないから、辺境諸邦の中国との付き合いは朝貢となる。しかし、辺境が中国にとって代わり中原を征服、同化して中国皇帝となることも可能であった。例えば、金(1115-1234・女真)・元(1271-1368・モンゴル)・清(1644-1912・満州人)は、中原を制し漢民族の中国に代わって中華帝国を継承した。

 今日の中国では、中華人民共和国憲法において漢民族と55の少数民族を中華民族と規定しており、この全てが中国に帰属するとした。しかし、秦の始皇帝が統一を成し遂げるまでの中国は、領域・民族・言語・文化・衣食住の風俗習慣など、人文地理学的に限りなく多様多岐にわたり混沌で曖昧な民族・国家を成していた。ここでは古代中国が集約されていく過程を追跡し、今日に至る連鎖の原点に近づこうと試みる。

2 中国の地理学上の特徴―「中国」の曖昧さを生み出す決定論的環境―

 中国の海岸線は、東に朝鮮半島を臨む渤海・黄海、太平洋への進出を北方および東方で日本列島・琉球諸島に阻まれた東シナ海、同様に、ルソン・ミンダナオ(現フィリピン群島)が東方の太平洋進出を妨(さまた)げ、インド洋へのシーレーン形成は、ボルネオ(現ブルネイ・マレーシア)・クメール(現カンボジア)・スマトラ(現インドネシア)が南シナ海の妨げになっている。このように東・南シナ海は閉鎖され、ヨーロッパ諸国が東アジアの地中海と呼ぶのは当を得ている。

 陸続きの南方及び西方南蛮域は中国群雄に敵しない辺境であった。

 大河の存在は広大な平野部に地味の肥えた恵みをもたらし先進文明を発展させた。中国では、中国東北部の遼河流域において紀元前6200年頃から紀元前5400年頃の古代興隆窪文化の存在が明らかにされた。
 中国北部から渤海へと流れる黄河(全長約5,464km)は中国文明の原点となった黄河文明を生んだ。黄河は、ヒマラヤ山脈北部のチベット高原から下り、中原に覇権の都城長安、洛陽を栄えさせ、水鳥生息の貴重な国際的湿地としてラムサール条約で指定された(2013)山東省の広大なデルタ地帯を作り省都済南市北部、特別行政市天津南方約160kmを東へ流れ渤海に注いでいる。
 長江(揚子江・全長約6,300km)は、黄河同様チベット高原を水源とし、下流で揚子江と名を変え現上海市の東シナ海河口に至る。古来水上交易の大動脈であったが、7世紀、黄河と大運河で結ばれ、覇権の要衝となった。
 しかし他方で、大河が地味を豊かにすることは洪水が起きることと表裏一体であり、災害を局限し豊かな地味を確保するため、治水に優れた力量を発揮する為政者が求められた。

 黄河、長江の水源地帯であるチベット高原の南は8,000m級の高山が屹立するヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、さらに北には崑崙山脈が東西に連なる。黄河の北部、モンゴル高原から天山山脈へはゴビ砂漠、タクラマカン砂漠が西へと広がり、後世にシルクロードが貫く。

 中国北部のこの地は辺境化外の地であり、其処に棲む民族は蛮夷・夷狄(東夷・西戎・南蛮・北狄)として排除の対象となった。

 天象気象の影響は中国の特徴を形成する要素の一つである。

 “Geopolitik” という文脈では、地理学が政治、外交、戦争など人類の営みに係る活動に大きな影響を与え、地理学的に「そうならざるを得ない必至の現象を環境決定的」と考え、「ヒトが環境を克服して適応性を高めていく現象を環境可能的」と考える。後者も広義には環境決定に属する。進化論や適者生存は双方の乖離を説明する理論でもある。中国誕生のプロセスはその意味で実に環境決定的であった。

 中国の国土は広大で、西の高山、その北部の砂漠、その周辺の高原は、それぞれの天象気象・自然環境に特徴的現象を発生させている。中原では人々が農業を営む温帯気候に恵まれる他方で、東アジア独特のモンスーンが雨を集中させ河川氾濫の水害をもたらす。しかしこの洪水が、平地に肥えた地味を運び農業を活性させる。もう一方でシベリアに発生する高気圧は寒冷・乾燥をもたらすのだが、高原を作り遊牧を盛んにする。
 中国と現ロシア国境地域は亜寒帯気候に属し、中国とベトナム、ラオス、ミャンマーとの国境を形成する雲南省、中国海岸線最南端の海南島は熱帯気候に属するという極端、且つ生活形態、風俗習慣が極端に異なる対照的環境を呈する。

 地図も無く、通信手段、輸送手段も一般に利用できない紀元前400年から紀元前200年の時代、途切れず続く海岸線約14,500kmの南北両端の人々の何人が双方の事情を知り得たであろうか。仮に海岸線を1日8時間、時速4kmで毎日休みなく歩いて踏破に15か月を要するのである。
 広大な古代中国においては、東西、南北の情報がリレーで伝達され統治者の下に届いても内容が正確に伝えられているか確認の術(すべ)が無い。
 歴史記録によれば、1242年3月、ハンガリーを攻撃中のモンゴル軍に7,000km離れたカラコルムからオゴタイ・ハーン死去(前年12月11日)の訃報が届いたのは90日後だった。

 時間を要すれば要するほど情勢・状況の変化に追随するのが至難であり、初度の情報と追随する情報の齟齬は判断を狂わせるに違いない。然るに、今日的に言えば、古代中国のガバナンスは、国土領域、民の把握などあらゆる分野において「曖昧さ」に満ちていたはずだ。

 中国の地理学的環境は実に多様性に富んでいる。

 従って古代中国の曖昧性は都城から離れると顕著になった。万里の長城によって中原と化外が区分けされても、その他の地域に在っては、境界線に依らない一方的な勢力圏の誇示だけが領域主張の常態であって、誇示できないと曖昧さが拘置された。覇者は、中原を制すると、国力の増強に比例して軍事力を強めながら領域拡大の誇示を進めた。それは、『人類地理学』において「国力の増大は国境線を前進させる」としたドイツの地理学者F・ラッツエルがイメージした「国境線」と異なる「曖昧な領域の拡大」であって、それ自体が中国の中国たる領域コンセプトのDNAではなかろうか。

3 「中国の戦国時代―司馬遷『史記』/中国戦乱のジオポリティーク(BC5世紀-BC221)

(1) 「中国」の曖昧さの原点―三皇五帝は古代「中国」の世界観=中国の創世記―

 三皇に諸説あるのだが、司馬遷の『史記』に秦の始皇帝を導く三皇として天皇・地皇・人皇が挙げられている。

 『史記』に加えて韓非子などの人類発展史に依れば、聖人が現れ、地上の鳥、獣、虫、蛇に脅かされる人間のために巣「家」を作り危害から身を守れるようにした。有巣(ゆうそう)氏である。
 「家」に暮らすようになった人間は生ものを食べるため食中(あた)りで病気になってしまう。そこで次代の聖人は火を起こすことを人間に教え食中毒から救った。この聖人が燧人(すいじん)氏である。
 燧人氏を継ぐのは天象気象を占い、地形地物を読み、生き物を支配し、八卦(はっけ)を行う能力を持った庖羲(ほうぎ)氏である。

 これが三皇のもう一つの考えである。

 他方で有巣氏、燧人氏、庖羲氏に追加される存在が女媧(じょか)氏である。女媧氏は対立する共工(きょうこう)氏が反乱を起こし天の柱を破壊したために起きた大洪水から人を救った。

 司馬遷の歴史編纂の哲学は「人間集団の困窮時に聖人が現れ解決を図る、集団はその聖人を頂点にいただく、こうして社会がまとまって行く」即ち「暴君が現れれば正義の人物が立ち上がり暴君を倒し民の圧倒的支持を受けて新たな君主を戴く王朝の時代が来る」というわけである。

 女媧氏後の時代では「皇」の座を狙う争いが発生した。共工氏の反乱がそれである。

 神農氏が現れ農業を広め聖王の座に就いたが、120年も在位すると統治が乱れ、各地で騒乱が発生した。これを武力で収めたのが黄帝(こうてい)であった。諸説あるが、黄帝の後継は、顓頊(せんぎよく)・帝嚳(ていこく)・唐尭(とうぎよう)・虞舜(ぐしゆん)でこれを五帝という。

 『史記』に依れば、皇帝の継承は世襲や禅譲を含み「徳の有る者」が資格者であることが貫かれている。しかし王朝交代は権謀術数の世界に入り「徳」は王朝の正当性の虚飾と化した。

 「堯・舜」を継承した「禹」が初代「夏(か)」王朝の王位に就いた。禹の子、「啓」が後継者となってから世襲制へと移るが、司馬遷は世襲の正当性記述に悩んでいた様子がうかがえる(『中国古代史』渡辺精一・角川文庫)。そして、世襲が続く間は「王朝」、世襲以外に継承される現象が「革命」、そして王位の座を巡る争いが混とんとする間は「乱世」と名づけるようになって行く。

(2) 「中国」の曖昧さからの脱皮―中国の戦国時代=中原の覇権争奪―

 夏王朝は暴君桀王、殷王朝は暴君紂王が現れて革命が起き次代に移行した。殷の次代が周である。中国では、周王朝以降、交代が「力」による「乱世」勝ち抜きの様相に変化して行った。

 中原の覇権は戦国七雄で争われた。

 周が衰弱すると、都市国家的なエクメーネ「邑」が数多く出現してそれらの領主が覇を競う春秋時代を形成した。しかし弱小の領邦は大国に吸収され、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七つの領邦国家に収斂して中原の覇を争う時代を迎えた。一時期、周の権威を尊重し、周王を推戴して天下布武の座に就く風もあったが、春秋時代を経、戦国時代に入ると勝者が「帝」を名乗る時代精神へと変化し、中原を制すれば天下統一の覇者として認知される時代を迎えていた。

(3) 「中国」共有への収斂(しゅうれん)―中国統一への序章―

 中国統一は、秦が抜きん出て先頭を走った。秦の始皇帝(当時秦政王)は、中国統一の覇者への地政学的行動に拍車をかけた。秦は、中原を東西・南北にそれぞれ1,000km余、対峙する六雄相手に戦略的遠征を重ねた。

 秦を中心にすると六雄は東に存在した。西側は外夷で当面の敵する相手ではなかった。東の隣国が「魏」、さらに東隣りが「趙」、東北方の渤海北部には「燕」、東方には魏、趙を経て「斉」が渤海西岸に位置し、東に隣接しているのが「韓」、「楚」であり、楚は地勢的に秦と匹敵する領域を有していた。

 秦の攻略戦争は、趙(BC236-BC228)、韓(BC230)、楚(BC225-BC222)、魏(BC225)、燕(BC222)、斉(BC221)に15年間を要している。

 秦が覇者に至った戦い方にひとつの憶測を付しておく。紀元前236年から紀元前221年の15年間の軍事行動は全て外征であった。
 外征には情報の収集と活用、そして兵站の確保が必須である。秦は、楚・斉・燕・趙・魏・韓に情報収集のネットワークを張り巡らし、重要情報の速やかな伝達手段を維持していたと考えられる。ネットワークは、単に敵情を知るだけではなく、本拠地から離れ敵国に侵攻する軍事行動に必須となる食料など兵站の調達手段を確保する手立ても含まれていたに違いない。
独自の軍事能力に組み込まれた機能に加え、戦国の時代、戦場を稼ぎと出世のチャンスと捉えていた縦横家という戦略・戦術・情報の売り込みを生業としていた、一種の策士たちを利用していたことだろう。

 モンゴルの征西は、騎馬民族の個性に溢れユーラシア大陸を席巻するかの勢いであったが、騎馬故に森林と山岳に阻まれ、結果としてピヴォットの草原に戻らざるを得なかった。イスラム教は国家を建設したが、イスラム教誕生の原点となる「点在する部族・集落をまとめ、価値観を共有する」民族の結合を図れる地域に限られていた。

 中国は、羅針盤、火薬使用、製紙、印刷など世界に先駆けたにもかかわらず、それらを導入したイスラム国家や欧米を凌駕することはなかった。国家、あるいは国民を育てた地理学上の環境が作り出すDNAとアイデンィティーにその理由が発見できるのではないか。それは地理学的(地勢的)な、海洋・山岳・砂漠・天象気象環境の極端な2極性・定住に依存する民族の生存性が「環境決定論」的個性を造り出し、ダイナミックな国民性を抑制しスタティックな国民性を造っていたからではないだろうか。