第5章 日本の古代ジオポリティーク 第3節 所与の島嶼国家運営―大陸の環境決定と相容れない日本の環境決定
第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (上)
第1節 白村江の戦―戦争目的の曖昧さは日本のDNA (下)
第2節 「白村江の戦」の敗戦(上)
第2節 「白村江の戦」の敗戦(下)
第3節 所与の島嶼国家運営―大陸の環境決定と相容れない日本の環境決定
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界
はじめに
ドイツ語には人間の居住地を表す「エクメーネ “ Ökumene“」という地理学の言葉がある。その定義は「地球上で人間が常に居住し、経済活動を営み、また規則的な交通を行っている空間」であって、生活空間、居住空間、居住地域を意味し、エクメーネの拡大が「生存圏」に転化していくことを考えれば、エクメーネは、実に ”Geopolitik” に満ち、しかも “Geopolitik” の単位を成しているとも言えよう。
このエクメーネは地理学的環境如何によって個性を造り出す。エクメーネの集積は集団を形成し、集団は集落、部落、民族集団とそのサイズを拡大して都市国家、国家に成長してきた。それぞれは言語、風俗、習慣を異にするが故に移動と接触が争いを生んで、果てしなく戦争を繰り返し強者が弱者を従え、強い民族が弱い民族を排除、併合を繰り返し、国家が国家を乗っ取り、覇者が次々に誕生してきた。
この「エクメーネの生存競争」は境界を地続きに接している大陸内ほど格別に厳しく、激しい。ところが、大陸をさほど知らない昔日(ふじつ)の日本でさえ、王朝の盛衰の理(ことわり)を『平家物語』に描き無知と驕りを警告している。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。たけき者も遂には滅(ほろ)びぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。遠く異朝を訪(とぶ)らえば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の録山、これらは皆旧主先皇の政(まつり)にも従わず、楽しみを極め、諫(いさ)めをもおもい入れず、天下の乱れむことを悟らずして亡(もう)じにし者どもなり」
この文例は「日本国内の統治者」の交代を指したものであり、民族や国家が入れ替わることを表しているわけではない。中国の例を引き合いに出しているのも、中国支配の漢民族王朝の移り変わりを言っているのであって、遼(契丹)・金(女真)・西夏(タングート)・元(モンゴル)・清(女真)など中国が異民族の支配下に置かれた例が含まれていない。もっとも「元」以降は「祇園精舎・・・」の後世の中国王朝であるが。
ここでは、日本が世界史の文脈では特異な、世界史に描かれる「覇権」イコール「地政学」の現象と無縁で、その歴史自体が「国境線をまたぐ戦争」と無縁であったかを考え、日本が「地政学」の育たない固有の世界であったことを確認するものである。
1 世界史における「国家成立に至るいくつかの例」
(1) マニフェスト・デステニー
先住民を排除して先住民の土地を奪ってでも移住者に国土が与えられるのは「神の啓示」という運命であるとする身勝手な建国がある。
ナイル川、ティグリス・ユーフラテス川、黒海、エーゲ海、地中海の造り出した大地は、地球上の農業発祥の地とされ、人々が衣食住を営む最適の地であった。アラビア半島、そして豊穣の地と呼ばれるレヴァント、カナン、シオンは、一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教誕生の地でもある。
ユダヤ人は、紀元前11世紀、紀元前13世紀からすでにカナンに先住していたペリシテ人を排除して王国を建設した。神がユダヤ人のルーツであるアブラハムに与えるとした「約束の地」にモーセに率いられエジプトを脱出したユダヤ人が帰還し、ペリシテ人を力づくで排除したのである。今日もパレスティナ人排除の戦争の正当性「マニフェスト・デステニー(神が与え給うた運命)」が建国の根拠である。その正当性は『旧約聖書』に繰り返し謳われている。
北米大陸へ移住したWASP “White Anglo-Saxon Protestant” は、600部族に及ぶ先住インデイアンを排除、開拓してアメリカ合衆国を建国した。インデイアン排除、隔離の正当性はユダヤ人のペリシテ人排除同様の「マニフェスト・デステニー」であった。
(2) 力による覇権掌握
ペルシア帝国は、シュメール、バクトリア、パルティア、トランギアナ、ゲドロシアエラムから成るペルシア王国を母体に、メディア王国(BC550後のイラン)、世界最初の帝国と言われるアッシリア王国(新バビロニア王国、BC539後にシリア/イラク)、リュディア王国(BC547後のトルコ―小アジア・アナトリア半島)、エジプト王国(BC525)、航海術に長け地中海沿に植民都を経営していたフェニキア、にパンジャブ(BC521インド北西部)/シンド(パキスタン・アラビア湾東岸地域)を征服して「帝国」を建設した。
ペルシア歴代皇帝は、地理学的に、あるいはペルシア帝国単独で力による中央集権一極統治が困難であることを認識して、被征服諸王国に統治を委任、帝国の全体統治の安定を維持した。
ローマ帝国の広大な帝国統治は、征服後、属州化した各都市国家、部族などから選抜した人材をローマ本国で教育して「共和政ローマの『民会』議員選挙権を有する市民権」を与え、本国に戻し「ローマの属州統治」に参加させローマ化を推進した。
英国の植民地政策もローマ帝国のローマ化政策同様、英国化することで英国の都合のいい植民地経営を行った。しかし、このためタスマニアのように原住民が絶えてしまう結果ももたらしている。
(3) 同一民族の多数領邦国家統一のための統一事業
中国「秦王朝」の始皇帝は群雄割拠の戦国時代を勝ち抜き、覇者となり多数領邦国家を一元的に統治する様々な統一事業を推進、漢民族が共有する諸制度を完整して「中国統治」の基盤を築いた。
(4) ムハンマドは広大な乾燥地帯に散在する民族共有の価値観を確立
イスラム国家およびイスラム教国家(イスラム国より統治制度が教義に制約されていないイスラム教の国家)は、イスラム教の教えに準ずる国家統治を行う「イスラム教独自に建国した国家」である。
2 ラッツェルの地理学から読み解く「日本」
(1) 自然条件(天象気象・地勢)と日本(人)
日本の南北に連なった島嶼は、四季と呼ぶ季節の特徴に溢れ、それは心安らぐ美観に富んでいる。気候は、概して過ごし易く凌ぎ易い気候に恵まれ、そのため日本人の気質も穏やかである。
島嶼国であるため、日本人には逃げ場がない。その環境は、日本人をして、隣人を思いやる、あるいは「恥の文化」、過度に刺激しない気遣いの風潮を豊かにしている。
江戸時代中期においては、稲作農民人口が全日本人口の87%にも及んだ数値が残り、手工業など技能職人、商人を含めば90%が武士階級ではない「非戦闘員」であって、戦国時代といえどもこれら非戦闘員が武器を手にすることは無かった。
穏やかな性格の根底には、武士以外は決して「戦争」に関わらない日本人の安全意識が定着する国民の役割分担があり、それだけ国外から侵略、侵攻される脅威に距離感が在ったと言えよう。
1853年ペリー艦隊が江戸湾に侵入した際も、庶民は小舟で黒船見物など楽しんでいたが、武家政権であったからこその警戒、防衛認識が武家社会に高揚している。
島嶼国家の個性は、海を隔てて日本に入ってくる事物に対して関心の度合いが高く、それらを日本流に使いこなしてしまう知恵が優れて働いたようだ。江戸期において学者の高野長英がヨーロッパにおける戦争の様子から「三兵(歩兵・騎兵・砲兵)戦術」を 「タクチーキ」と紹介 、長岡藩河合継之助はナポレオン戦争を学習しており、長岡戦争でナポレオンに対したロシアの焦土戦略を真似るなどしている。
非戦闘員であった農民社会にも独特の集団文化が生まれた。稲作は共同作業であるから、リーダーシップの自然発生、土地や水利のトラブルは代表者が調整する「庄屋制度」、集団の組織制度など稲作の便宜を図るシステムや人に対する謝礼を含めた年貢制などが生まれた。
広大な田畑を大型トラクターで走行して一挙に作業する農業と異なり山岳地や河川、森林など手作業でなければ土地を有効に使用できない日本の地勢にあって、協力、相互扶助が隣人との穏やかな関係が優先される文化が育ったのである。
豊臣秀吉が刀狩をするまでも無く、戦争は「お侍さんの主導権争い」に過ぎず、「非戦闘員は戦いの見物人」でしかなかった。
この日本人には、移動によって性格が変わってしまう「民族の移動」現象が起きることが無かった。エクメーネ発生以来、今日までDNAもミームも変わっていない。
日本列島(島嶼)型民族には「民族移動」という言葉すら存在していなかったと考えられる。従って、当然のことだが、言語や生活習慣が異なる他民族との接触が起きることは無かった。アレクサンドロスⅢの東征、カエサルのガリア遠征、フン族やゲルマン民族の移動、イスラム教の拡大、敗戦国難民の移動、十字軍、モンゴル軍の征西などが引き起こす、接触・衝突至戦争の現象は、当事国の国民を含んだ大陸に所在する国家の民族全てに、「戦争」によって引き起こされる全ての現象によって、戦争そのものの本質と軍事力の役割、戦争当事国の国民の身の処し方を自然に学ばせ身につけさせてきた。
日本人が「戦争について無知」であることは今日に限らず、むしろ明治維新前には、「お侍さんの世界は庶民にとって「別世界」であった。
ところが、1945年から2013年までの日本は明治維新前と同様であった。日本の武力行使は、日本に侵攻して来る敵を日本の領土内で迎え撃つ「専守防衛戦争」でしかなかった。さらには、専守防衛を超える防衛作戦を示唆する2014年に閣議決定された「集団的自衛権の行使の容認」は、「国民に戦争の覚悟、非戦闘員の犠牲者が発生する覚悟」を求めず、法制化してしまった。今や迎え撃つのではなく外地での防衛作戦まで視野に入ったシビリアン・コントロールが予期、危惧されるようになった。
にもかかわらず、日本の国のかたちは見えていない。日本の国のかたちがどうあるべきか全ての国民にイメージと、その日本を必死に防衛する意識とが共有されてこそ「抑止力」となる。抑止力の切り札は国民の国防意識の共有、堅持である。
防衛力を整備しても、制度をいじっても、対象国に「防衛戦を戦う強固な意志」を認知させ得なければ抑止力は当初より破綻していると言わざるを得ない。
(2) 所与の国家日本
今日、この日本を日本足らしめている日本人には、原始までさかのぼれば「アフリカから」とされるのであろうが、エクメーネを形成してから、即ち「ヒトが社会性」を持つようになってから、日本人は、日本国を建国して以来一度たりとも国家を喪失した経験が無い。一度はアジア・太平洋戦争(大東亜戦争)に敗れ占領統治を受けたのだが、日本の国体は変わらなかった。
先に国家成立の事例を列挙したが、同じ様な国家建設の歴史は日本に無い。
ユダヤ王国の場合、第2次ユダヤ戦争(132-135)においてローマ帝国に敗戦し国を追われてからカナンに戻ったのは1800年余が経過してからであった。しかしその裏で1800年余の間、パレスティナ国家を維持してきたペリシテ人の遠い子孫であるパレスティナ人は、今日、国を失うかもしれない深刻な戦争をイスラエルに仕掛けられている。
ウクライナはいわれなきプーチンの侵攻戦争を受けている。
ウクライナ、パレスティナ両国ともに隣国との国境線は地上に引かれている。両国ともに歴史的に、国境線が変化し続けてきた。ラッツェルの『人類地理学』では、大陸における国家間戦争が「国力の増強増大と人口増加が国境線を前進させる」ことに起因して起きると指摘している。
それは「土地に対する人類の依存と移動・衝突」が必然で、且つ国家間の境界では、移動が無意識に越境を招くことすらあるからだ。
日本においては、地上の国境線が存在しないから、大陸型の移動・越境・衝突・排除のための衝突は起こりようがない。ところがこの島嶼に棲む日本民族は、自ら他国を犯す越境の試みを2回行って失敗している。大陸国ではないため、大陸における覇権掌握には無知であった。「所与の国家」には他国を侵し支配するDNAもミームも育っていない。
重ねて言えば、エクメーネは地理学的環境如何によって個性を造り出すのだが、「所与の国家日本」は国境を越えることが出来る地理学的環境に居なかったのである。
エクメーネの集積は集団を形成し、集団は集落、部落、民族集団とそのサイズを拡大して都市国家、国家に成長してきた。そのプロセスを踏んだ日本ではあるが、その生い立ちにおいて、移動を重ね、言語、風俗、習慣を異にする他のエクメーネ集団と接触と衝突、戦争を繰り返し、強者が弱者を従え、強い民族が弱い民族を排除、併合を繰り返し、国家が国家を乗っ取ってきた世界でもまれることが無かった。
日本が「所与の国家」であることは、2度の失敗によって、国外において挑戦して成功する可能性を持たない、戦争に適さない国家であることを示唆していると知るべきであろう。最終稿まで半ばを経過した。さらに稿を重ね、日本が「非戦国家」であることの裏付けを求めてみたい。