第9章 主権国家の変革 第3節 ナポレオン戦争―封建領主への挑戦
第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第1節 新大陸における新国民国家誕生―封建社会からの離脱と決別
第2節 フランスの市民革命―封建社会破壊の鳴動
第3節 ナポレオン戦争―封建領主への挑戦
第4節 王政復古―国民国家生成の停滞
第5節 諸国民の春―市民社会の覚醒
第6節 帝国主義と植民地―生存圏の拡大
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界
はじめに―ナポレオンの登場
フランスにおける市民革命は簡単に終止符を打ったわけではない。革命の伝播を脅威とした、あるいは国王ルイⅩⅥとマリー・アントワネットを始め、フランス内部の反革命王侯・貴族から助勢を求められたプロイセン、オーストリアなど諸外国の対仏干渉は、市民革命の原動力となった市民や農民が決死で戦い勝利し、当面の鎮静を図ることが出来たものの再発の恐れは払拭されなかった。
革命によって大多数のブルジョアや私有地を所有するようになった農民は、革命後の安定した社会の形成によって財産の蓄積、自由経済、自営農業が進められるよう願っていた。
しかし、ジャコバン派独裁を主導するロベスピエールは、政敵を投獄、死刑・流刑に処するなどの過激な恐怖政治を行った。それは地方にも波及し、革命に重ねてクーデターを繰り返させた。これにより既得の権益まで脅かされることを恐れたジャコバンの穏健派と、王権廃止後に設けられた一院制立法府である「国民公会」から地方安定のため派遣されていた議員、そして反ロベスピエール派が結束して1794年7月27日、「テルミドール(共和暦(注)2年の『熱月』)9日のクーデター」を成功させロベスピエールを断頭台に送り政権を交代し「総裁政府(1795-1799)」を設けた。
(注:共和暦=フランス革命暦は、フランスの革命期に革命政府がカトリック系のグレゴリオ暦を廃止、王政打倒の翌日(グレゴリオ暦1792年9月22日「秋分の日」)を「共和暦元年元日」としてフランスとその属国で12年間にわたり使用した十進法を用い、各月同等の日数とした暦 “Calendrier républicain“)
ナポレオンにとってテルミドールのクーデターは命運を左右する岐路でもあった。1792年、コルシカ島国民衛兵隊中佐のナポレオンは、自分の政治信念を小冊子『ボーケール(フランス南部の小都市名)の晩餐』に著したことを通してジャコバン派のロベスピエールの弟オーギュスタンとの知遇を得た。従って、当時イタリア方面軍砲兵司令官であったナポレオンがロベスピエールを支持する側に居ると見られたことも当然であり、クーデターに際しては、逮捕収監され、間違えば処刑される側でもあったのだが降格処分で済み予備役とされた。
テルミドールのクーデターの先頭に立ったのは、国民公会軍司令官となった、後の行政府新体制「総裁政府」を構成する5人の総裁の一人ポール・バラス(1755-1829)であった。革命初期、フランス南部の港湾都市トゥーロンの共和派行政官として国民公会の派遣議員時代、ロベスピエールの恐怖政治を強力に推進した派遣議員の一人でもあったバラスは、1793年9月から12月にかけて王党派の叛乱鎮圧にナポレオンを起用した。砲兵将校のナポレオンはトゥーロン市街地を砲撃し王党派を鎮圧した。
テルミドールのクーデター後、フランスは経済の悪化、にわか成金の退廃、風紀の紊(びん)乱といった社会の劣化現象が蔓延し、クーデター首謀者のテルミドール派に対する風当たりを最悪にした。1795年10月(革命暦ヴァンデミエール「葡萄月」29日)の議員選挙ではテルミドール派議員の絶対多数確保が危うくなった。テルミドール派は苦肉の策として「現職国会議員750人の三分の二議席は現職議員から選ぶ」という「三分の二法」を強行可決、結果的にこれが反テルミドール派のクーデターを誘発させた。
選挙に先立って王党派を中心にテュルリー宮殿の国民公会を襲撃する暴動が発生した。ヴァンデミエールの反乱である。
これを鎮圧するため、テルミドール派は恐怖政治に与(くみ)していたいたサン・キュロット(貴族のキュロット「半ズボン」に対する市民革命主力であった庶民の長ズボンを象徴、蔑視した庶民グループ名)に助けを求めた。しかしサン・キュロットは既にテルミドール派に弾圧され無力化していたため、暴動鎮圧国内軍司令官に任命されたテルミドール派のバラスがナポレオンを副官に起用して対処した。
暴動鎮圧に成功したナポレオンはこの功績で中将格の師団将軍に昇進、「ヴァンデミエール(葡萄月)将軍」と称されるようになり、さらに国内軍副司令官、司令官へと昇進することになる。
穏健な共和派(テルミドール派)が率いることになった新政体の総裁政府は「共和暦三年憲法」により、私有財産不可侵を制定、財産資格に従って選挙権を与える制限選挙を復活させた。ところが、テルミドール派が行った政策は必ずしもうまく運ばなかった。輸入自由化や統制価格撤廃はインフレと暴落を招き新政体「総裁政府」が破綻に向かうことになった。政情はまたしても「王党派の王政復古」や「左派に拠るクーデターの動き」へと不安定さを増して行った。
このフランス社会に不安を抱いた保守層の農民、都市の小市民たちはフランスの復興と政
治の安定を望み、その指導者として「ナポレオン・ボナパルト」に期待した。
1 ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の戦争
フランスの市民革命は封建領主から見れば「明日は我が身」となる封建統治転覆の現象であり、フランスの革命を失敗させなければならなかった。従って、他国はフランス革命に対して軍事行動を起こしてでも干渉しようとし、同様の危惧を抱く領邦が結束して対仏同盟を形成することにもなった。
(1) ヴァルミーの戦い
ヴァルミーの戦いは、フランスの市民革命が自国に及ぶことを阻止しようとしたプロイセン、オーストリアの干渉戦争であり、フランスの防衛戦争であった。また他方では、ルイⅩⅥとマリー・アントワネットがプロイセン、オーストリアに助けを求めたことがきっかけの戦争でもあった。
ルイⅩⅥとマリー・アントワネットは亡命途中で革命側に捕捉され断頭台の露と消えた。
戦いは、1792年、フランス北東部マルヌ県ヴァルミーで起きた。フランス側はプロイセンより多くの犠牲を出したが勝利した。この戦いで特筆すべきは、プロイセンの傭兵部隊に対してフランス側がボランティアで参戦した所謂「国民軍」であったことである。
1789年、フランス革命勃発時のナポレオンは、パリの陸軍士官学校を出た20歳の砲兵士官となっていた。1792年、ナポレオン23歳、コルシカ島国民衛兵隊中佐に任命されていたが、一家が親仏派であることから親英派によってコルシカ島を追われマルセイユに移住した時期に当たりヴァルミーの戦いには参戦していない。
(2) ナポレオンのイタリア及びエジプト遠征
フランスの革命成功を封建領邦国家の災いと見た他国の干渉は第二次対仏大同盟を結成し軍事行動に移った。ナポレオンは、26歳にして革命総裁政府が行ったイギリス、オーストリアの干渉を阻止する「革命防衛戦争」のため1796年3月から1797年10月までの1年8カ月間、第一次イタリア遠征軍司令官に任命され参戦、北イタリアを奪取していたオーストリアに勝利した。
次の行動は、イギリスのインド支配を妨害するための1798年7月から1801年9月までのエジプト遠征であった。ナポレオンは、エジプト遠征においてオスマン帝国に勝利したものの、ナイル川河口アブキール湾でネルソンのイギリス艦隊に敗れ地中海への出口を封鎖されパリへの帰還を足止めされた。ナポレオンが受けた初度のネルソン・ショックである。
他方、パリでは総裁政府が市民の信頼を失いつつあり政情の不安に拍車がかかっていた。
(3) 1799年、ブリュメール(革命歴「霧の月」)18日のクーデター
ナポレオンがネルソンの艦隊にアブキール湾を封鎖され、フランスへの帰還を足止めされている頃、パリではクーデター発生の兆候が日常化しており総裁政府に対する市民の不満、不信感が募っていた。
こうした状況下、ナポレオンは政府に断りなくエジプトをひそかに脱出しパリに帰還して「総裁政府」を倒し安定的政体を築こうとした。これが1799年の「ブリュメール(革命歴『霧の月』)18日のクーデター」へ向かう背景である。
フランス革命は「ブリュメールのクーデター」を成功に導いたナポレオンの「革命暦八年憲法」布告と「フランス革命終結宣言」に拠って終止符を打った。
これより「統領政府」を打ち立てたナポレオンの「独裁、皇帝」時代へと舞台が移る。
(4) コンコルダート
フランスの市民革命はカトリックの世界にも影響が及んだ。王権神授の世界ではローマ教皇はカトリック信者であるルイⅩⅥに影響力を及ぼしていたが、ナポレオンは、王権神授との決別に向かって進んだ。1801年7月、ローマ教皇はナポレオンの統領政府を承認、ナポレオンが没収した教会財産の返還を断念した。聖職者の叙任権はローマ教皇にとどめられたが、フランスの聖職者叙任時におけるフランス国家への忠誠の宣誓が義務付けられ、聖職者の人選も統領政府の統領権限下に置かれた。
これがローマ教皇ピウスⅦとフランス統領府の間で交わされたコンコルダートと呼ぶ政教和解の締結である。
(5) マレンゴ/ホーエンリンデンの戦いからのナポレオンの進撃―第二次対仏大同盟/第三次対仏大同盟/第四次対仏大同盟
オーストリアは、1800年6月から同年12月までの6カ月間、イタリア北西部ミラノの南西に在るマレンゴ、ホーエンリンデンにおいて度重ねナポレオンに挑戦するが敗れ、1801年2月、オーストリアはリュネヴィルの和約によってフランスと講和した。こうして1798年12月以来の第二次対仏大同盟は崩壊し、イギリスだけが1802年3月にアミアンにおいて和解の条約を締結するまでフランスとの戦いを続けることになる。
しかし英仏関係はフランス側が行ったヨーロッパ市場からのイギリス製品排除、アミアンの条約違反などが重なり、1803年5月、イギリスがアミアンの条約を破棄しナポレオンに宣戦布告した。さらにフランス王族の対ナポレオン・クーデターの発覚と処刑はナポレオンに対する他国の反発に拍車をかけていった。
1804年5月、ナポレオンは帝政開始を宣言、12月に戴冠式を挙行しフランス皇帝ナポレオン1世となった。ナポレオンはこれまでのナポレオン戦争を通して行ったヨーロッパ封建領邦の「王権破壊」、「フランス革命理念の伝搬拡大」のキャンペーンをさらに進めていった。
当然ながら同時に対仏大同盟が度重ね構築されナポレオンとの対決を続けた。封建領主国家諸邦にとってナポレオンの軍事的キャンペーンは「侵略戦争」以外の何物でもなかった。他方のフランスにおいてはナポレオンの勝利に次ぐ勝利が国民に歓迎され、ナポレオンが支持されて行った。
1805年4月、イギリスの対仏宣戦布告は、神聖ローマ帝国、オーストリア、ロシアなどによる第三次対仏大同盟を成立させた。
しかし、ナポレオン軍は、1805年9月から10月の間、ウルムの戦で神聖ローマ帝国を、同年12月のアウステルリッツの戦でオーストリア、ロシア軍を撃破、両国の第三次対仏大同盟からの離脱を促した。
他方、イギリスとの戦いでフランス・スペイン連合艦隊は、1805年10月、ネルソン提督指揮のイギリス海軍に完敗し、ナポレオンのイギリス渡峡上陸を断念させた。ナポレオンのネルソン・ショックは「制海」を消極的にし、第一次世界大戦まで続くイギリスの制海を許してしまう。ナポレオンに対する対仏大同盟側の戦争は8カ月で終了した。
なおも反撃を目論んだオーストリアとロシアが再結成したのが第四次対仏大同盟である。
ナポレオンは第四次対仏大同盟に対抗して神聖ローマ帝国を骨抜きにするライン同盟を形成した。1806年、オーストリア、プロイセンを神聖ローマ帝国から引き離し、さらに残されたドイツ諸邦をライン同盟に吸収しフランス寄りの国家連合とした。この連合体は1813年のライプツィヒにおけるナポレオンの敗退まで続く。
ライン同盟から離脱してイギリス、スウェーデン、ロシアと組んだプロイセンは、ナポレオンに再挑戦したが、1806年10月、イエナ・アウエルシュタットの戦いで、ロシアは1807年6月のフリートラントの戦で壊滅し、フランス軍のベルリン占領、東プロイセンへの侵攻を許してしまう。ロシアはフランスに停戦を求め、8カ月足らずで第四次対仏大同盟は崩壊した。
(6) 大陸封鎖令
しかし、ナポレオンにとって直接対峙の無いイギリスはヨーロッパ席捲の障害であった。
ナポレオンは、ベルリンに達するとイギリスとヨーロッパの交易を封鎖(禁止)する「ベルリン勅令(大陸封鎖令)」を発出した。イギリスの弱体化を狙う措置であったがフランスの輸出振興やイギリスの孤立・弱体化への効果は薄かった。
軍事的に相互が正面衝突することを回避して経済戦争に持ち込んで相手を疲弊させるという戦略が用いられた。其処には、ナポレオンが単にイギリスを屈服させるということだけではなく、経済上のライバルとしても市場の独占、産業の成長といった面で主導権を握ろうとしていたと考えられるだろう。ナポレオンにはイギリスの産業革命先行の現状に忸怩たる思いがあったと考えられる。
地球規模の交易、植民地経営において先行するイギリスに対する敵愾心は、この「大陸封鎖令」がベルリンに重ねて1807年11月にミラノにおいて発出されていることでも明らかだ。なお、この封鎖令には「封鎖の軍事的処置」も含まれ、イギリスとフランス間が一触即発状態にあることが次の条文で知ることが出来る。
第一条:イギリス諸島を封鎖状態に置く
第二条:イギリス諸島との貿易・通信はいっさい禁止し、イギリス宛、イギリス人宛の、も
しくは英語で書かれた書簡あるいは小包は郵送されず差し押さえられる
第三条:わが軍隊もしくは同盟国軍隊の占領地域に見出されるイギリス臣民はいかなる身分・
地位のものでも戦争捕虜とされる
第四条:イギリス臣民に属するあらゆる商店・商品・財産はいかなる性質のものであれ正当拿捕される
第五条:イギリス商品の取引は禁止され、イギリスに属するか、あるいはその工場ないしは
植民地からもたらされる商品は正当拿捕する。
第七条:イギリスもしくはイギリスの植民地から直接来たか、あるいは本勅令の公布後そこ
に寄港した船舶はいっさい大陸のいかなる港にも入港させない
第八条:前述の規定に違反する船舶はいっさい拿捕され、船舶および積荷はイギリス財産と
して没収される
<吉田静一「ナポレオン大陸体制」『岩波講座世界歴史18』1970 岩波書店・抽出要約文責:筆者>
イギリス・フランス相互の封鎖措置や特別関税は、国際社会に悪影響を及ぼし、密輸が盛んに行われ、被害を受けたアメリカがイギリスと戦争を始めるなどしている。
ナポレオンはロシアに対して封鎖令を守るよう強制したが、ロシアが約束を守らなかった。このロシアの態度はナポレオンのモスクワ遠征につながって行く。
加えて、イベリア半島では封鎖令を拒否したポルトガル、スペイン相手にナポレオンの制裁戦争が始まった。スペインでは民衆の反発が拡大してナポレオンの制裁戦争を泥沼化させ、イギリスがスペインを応援するなど、ナポレオンにとっては「ヨーロッパ席捲の勢い」を止められることになって行った。
2 ナポレオン戦争のエピローグ
ロシアの「大陸封鎖令」離反はナポレオンの「モスクワ遠征」を引き出した。
ナポレオンの戦争が躓(つまづ)きを見せるとオーストリアは、1809年4月、第五次対仏大同盟を画策したが、この戦いもナポレオンの勝利に帰し、同盟は半年で終焉した。
1812年6月から同年12月までのモスクワ遠征が失敗に終わりフランスへ帰還すると、ナポレオンの立場が急速に崩壊していく。
モスクワ遠征には「クラウゼヴィッツ」が画策したエピソードがある。
ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト、そしてアウグスト・フォン・グナイゼナウというプロイセン陸軍の有力将軍から格別の肩入れがあったクラウゼヴィッツは、両人の下でプロイセン軍の近代軍制改革作業を行った。その作業が完整すると将軍たちからロシア軍への出向を指示される。軍の近代化改革を担当したクラウゼヴィッツが保守的将官たちからよく思われず人事的にプロイセン軍を離れていることが得策だというわけである。
しかもクラウゼヴィッツの政治信条は、当時フランスと同盟したプロイセンを批判するものであってクラウゼヴィッツの人事の得にはならないという助言もあった。
両将軍はクラウゼヴィッツにロシア軍幕僚ポストを用意し、ナポレオンのモスクワ侵攻に対しロシアの戦略的退却を助言するよう託した。シャルンホルストはこの作戦がロシア皇帝アレクサンドルⅠの耳に入るよう図っていた。それはナポレオン軍が冬季遠征に陥ること、ロシア軍が町を焼き払い奥地へ退却することでフランス軍が疲弊し自滅する作戦・戦略であった。
結果的にこの策にはまったナポレオン軍はロシアの冬将軍に敗戦した。
1813年、ナポレオンがロシアから敗退すると、プロイセンはフランスに宣戦布告、緒戦でナポレオン軍優位に戦況が進んだが、第六次対仏大同盟に連合したイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンの諸国軍が勝利し1814年、パリを落とした。
ナポレオンは、同年4月6日に退位しエルバ島の小領主として追放された。
ナポレオンがエルバ島から復活して行動した100日天下は乾坤一擲のワーテルローの戦いに臨む時までである。ワーテルローに敗れたナポレオンはセントヘレナへ配流され生涯を閉じた。
3 ナポレオン戦争の謎
ナポレオン戦争の功罪については専門の研究によってさまざまに論考されているから、それらの権威に任せよう。ここでは思いつくままナポレオンの戦争が派生させた現象を拾ってみる。
30年戦争は主権国家を謳う結果を生じさせたが、ナポレオン戦争は「国民」を自覚させた。ナポレオンの失脚が王政復古を招いたにせよ33年後に諸国民の春が各地で発生、ナポレオン・キャンペーンの花が開き実をつけた。それが国民国家と呼ばれる近代国家の誕生である。
クラウゼヴィッツがナポレオン戦争を体験し著した『戦争論』で「戦争は政治の継続である」と喝破した。それ以来、王権神授やマニフェスト・デステニーを戦争の正当性に掲げるのは時代遅れとなった。
”Geopolitik”に戦域を広げ「大戦型の戦争」に導いたのもナポレオン戦争である。封建領主国家の集団とは言え、「対仏大同盟」はヨーロッパの世界大戦を現出した。しかもクラウゼヴィッツ以来、”Geopolitik” は「地政戦略=地政学」として覇権の理論を形成するようになった。
ナポレオンについてわからないことがある。
ナポレオンは戦争の達人であった。ナポレオンの戦い方はクラウゼヴィッツが『戦争論』に著すほど戦い方の示唆に満ちたテキストであったはずだ。
大陸国家のフランスがネルソン・ショックを受けたのは理解できるが、陸上戦闘において連戦連勝を重ねる戦い上手のナポレオンがイベリア半島とモスクワ遠征において失敗したのは何故だろうか。
ポルトガル、スペインの戦いではフランス革命における王党派の轍を踏んだ。
モスクワ遠征では戦争計画に不備があったのだろうか、敵がどのように出て来るのか、あらゆる想定を前提としてあらゆる戦場の変化に対応できるはずであった。兵站・天象気象・兵士の給養など敗戦の直接原因になった要素は長期遠征の基本事項であった。
フランス革命で重ねられた数多くの戦闘は一戦ごとに進化を示したはずだ。それをナポレオンが学べなかったはずがない。ナポレオン戦争終章のモスクワ遠征敗戦の理由がナポレオンの戦争の大きな疑問として残る。
最後に、ナポレオンは、1796年の第一次イタリア遠征から最終戦争の1815年のワーテルローの戦いまでの19年間で延べ約10年間も戦争に明け暮れながらヨーロッパを治めようとしていた。単に覇者たらんとしていただけではないだろう。ヨーロッパにどのような国家像を描いていたのだろうか。大胆かつ飛躍した発想を行えば、ナポレオンは今日の "EU" 形成を目指していたのではないかと思う。ナポレオンは戦後処理において「勝利者は敗者に対して勝利者の意思を強制する」形をとっていないのだ。
だからいったん終戦しても六度にわたり対仏大同盟が結成されている。戦争史においてこれほど終戦処理が厄介に繰り返されている戦争は無い。