第8章 大陸の鳴動 第5節 宗教革命と30年戦争とウエストファリア体制(その2)―主権国家の成立
第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第1節 モンゴルの征西―覇権の限界モデル
第2節 スラブ民族の覚醒―ユーラシア大陸経営
第3節 ムスリムのヨーロッパ撤退―レコンキスタの終焉
第4節 大航海時代の功罪―白人社会秩序の世界
第5節 宗教革命と30年戦争とウエストファリア体制(その1)―封建領主国家対立の火種
第5節 宗教革命と30年戦争とウエストファリア体制(その2)―主権国家の成立
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界
はじめに―カトリック批判―
1517年、ルターの「95か条の論題」によるカトリックに対する告発は、「異端・有罪」の宣告を受けカトリック教徒によって1415年、火刑に処されたフスの先例に影響を受けた。
おそらくルターは、フスのカトリックに対する反発(プロテスト)によってフス自身が「殉教」に至ったことから「カトリックの浄化」の強い意志と覚悟をもって告発を行ったに違いない。その信念に満ちた言動が無ければカトリックから分かれたプロテスタントという新たなキリスト教の誕生とプロテスタントに転向する封建領主やカトリックの領主に背反する領民が生まれることは無かったであろう。
ルターが影響を受けたフスはまたカトリック批判を行ったイギリスのウィクリフに影響を受けている。1375年、ウィクリフは自著『世俗の支配権について』で「富を蓄えるなどの腐敗、神の前の平等を喪失、教会の特権的地位の悪用」を批判、「教会の所有財産を没収、教会への貢納税(収入の十分の一)/贖宥状廃止、修道院/聖人/聖遺物/巡礼など神以外への礼拝を否定」によって改めるべき」と、カトリック教会改革の提唱を度々行ったため1381年、カンタベリー大司教によって「異端」宣言された。
1 宗教革命の連鎖
ルターの宗教革命はウィクリフやフスの批判を再燃させヨーロッパの封建領主・諸侯・領民を巻き込んだ運動となった。
(1) イギリス
イギリスは、「イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド」の四つのカントリーから成立する国家であって、それぞれが異なる封建領主が治める領邦であった。
イングランド国王ヘンリーⅧ(在位1509-1547・後に兼ねてアイルランド国王1541-1547 )の6度に及ぶ離婚再婚は、敬虔なカトリック信者であると言われ、継承者の誕生に恵まれなかったなど複雑な事情があるにせよ、カトリックから破門される原因となった。ヘンリーⅧはイングランドのカトリック離脱、イングランド独自に「イングランド国教会」の設立を試みた。
ヘンリーⅧは、1534年「国王至上法」を公布、法的にイングランド国教会の首長に君臨、側近のトマス・クロムウェル主導のカトリック弾圧が始まった。分けてもカトリック修道院は破壊され荒廃して行った。しかし、ヘンリーⅧは、ルターのカトリック批判の「95か条の論題」に反論を公表しローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を与えられているほどであり、ヘンリーⅧのカトリック離脱はルターなどヨーロッパで起こった宗教改革と一線を画していた。
ヘンリーⅧの後継者エドワードⅥ(在位1547-1553)は、新たなキリスト教を受け容れ積極的な改革を進めイングランドに宗教的混乱をもたらした。エドワードⅥを継いだ熱心なカトリック信者の義姉メアリーⅠ(在位1553-1558)は、徹底したカトリック回復政策を布きプロテスタント信者を弾圧処刑して「ブラッディー・メアリー」とまで呼ばれた。
ところが、1558年、メアリーⅠを継いだエリザベスⅠが女王位に就くや、イングランド国教会が正式にローマ・カトリック教会から分離した。1559年、イングランド議会はエリザベスⅠを「信仰の擁護者(イングランド国教会の首長)」として「首長令」を布いた。
1563年、イングランド議会は、イングランド教会が示す教義要綱「イングランド国教会39箇条 “The Thirty-Nine Articles”」と「カトリック教義、カトリックが行っている幼児洗礼(バプタイズ)を行わないアナバプティスト、スイスの宗教改革を主導したフルドリッヒ・ツヴィングリやジャン・カルヴァンらが体系化した宗教改革概念を持つ改革派」を示す「聖公会大綱」定めた。
(2) スイスにおける宗教改革―ツヴィングリとカルヴァン―
ルターの宗教改革と同時期にスイスではツヴィングリ(1484-1531)が「信仰の原典は『聖書』に基(もとず)いた教導」であるとする福音主義を掲げて改革に動いていた。
ツヴィングリの宗教改革を志したきっかけは、1519年、説教師が「贖宥状」販売の説教を行っていた現場を見た時からであった。ツヴィングリはキリスト教堕落の贖宥状販売の現状目撃から「本来あるべきキリスト教の姿」を説くことに使命を見出した。
『聖書』を信仰の礎に、その信仰こそが至上と説いたことはルターの主張と同じであったが、聖餐における「パンと葡萄酒の秘跡を否定」したのはルターと異なっていた。ルターに劣らず宗教改革の時代精神を造りあげた「改革者」であったツヴィングリは、『聖書』によって解釈不可能な教会制度を廃止するなどを進めた。またツヴィングリは、宗教改革を否定するカトリック派との内戦(1531年第2次カッペル戦争)を止むなくして戦死した。
ツヴィングリのカトリック改革運動を継承するように現れたのがカルヴァン(1509-1564)であった。
カルヴァンは福音主義に転向したジュネーブの市参事会に要請され、1537年、改革を推進することになったが、カルヴァンの教導の厳しさが、かえって市民の反発を生み、カルヴァンの脱世俗的運動を拒否した市参事会に追放されてしまう。しかし、再び新たなジュネーブ市参事会に招聘を受け、1541年、ジュネーブにおいて福音派のために「教会規定」を立法化した。
世俗主義から距離を置くため、国家統治機能同等の職権行使が可能な、カルヴァンが主張する新たなキリスト教信仰を統括する「神権政治」では、市民の信仰に立ち入った監督指導を行う権利までも得た。カルヴァンの主張の一つ、世俗と神権の明らかな分離は、教会の世俗権力からの厳格な分離を行うためであった。
その結果、カルヴァンは神権政治の徹底で1545年までの間、56件の火刑などの死刑判決、78件の追放を行い反対派を弾圧した。
さらにカルヴァンの宗教改革は、外部諸邦にも多大な影響を及ぼしフランスにおいては新・旧のキリスト教が争うユグノー戦争を惹起、スコットランドでは1560年にカルヴァンが興した改革派のキリスト教が国教に指定されるまでに至った。
(3) スコットランド
ジョージ・ウィシャート(1513-1546)は、『聖書』の教師として、又巡回説教師としてローマ教皇の世俗化とカトリックの退廃を糾弾し、さらに1544年から1545年の間、カルヴァンとツヴィングリの宗教改革の概念をスコットランドに広めるなど、スコットランドの宗教改革のための言動でカトリックから「異端」とされていた。
ウィシャートは一時期イングランドに逃れていたがスコットランドに戻ったところ囚われ、1546年、見せしめの裁判で死刑の宣告を受け火あぶりで処刑され殉教した。
スコットランドの宗教改革を継承したのは弟子であり、スコットランド・キリスト教の聖職者であったジョン・ノックス(1510-1572)である。ノックスはイングランドでエドワードⅥの下、イングランド国教会王室付属牧師となった。しかしエドワードⅥを継承したメアリⅠがカトリック信奉者であったため、大陸に亡命、カルヴァンに学んだ。
1560年、ノックスは、イギリス国教会を離れキリスト教カルヴァン派へ転向した後、カトリック信者であったが宗教選択に寛容なスコットランド女王メアリー・スチュアート(在位1542-1567)統治下のスコットランドに帰国し宗教改革の先頭に立った。
その後17世紀に入ってスコットランドのキリスト教では、聖職者の指導者を置かず、一般信者の中から長老を選んで指導者に置くカルヴァン派の「長老派(プレスビテリアン)」が主導していた。この長老派に対しイングランド・スコットランド・アイルランド国王チャールズⅠ(1625-1649)は、イングランド国教会信仰の強制を行ったが、1639年、長老派は反乱をもって応(こた)え、チャールズ国王軍に勝利した。
チャールズⅠは再度スコットランド遠征を試みるが、戦費の捻出など反対する議会と国王が対立、ピューリタン革命(1642)に連鎖していく。
(4) フランスの場合
ルターの宗教改革運動はフランスに拡大、歴代フランス国王はこれを迫害するがルターやカルヴァンの影響で新たなキリスト教への転向は増える一方であった。
カルヴァンはフランス人であり祖国の宗教改革に強い使命感を抱いていた。新たなキリスト教諸侯への広まりは諸侯の権力争いに至りカトリック派との争いに発展した。カトリック側はカルヴァン派の新教徒を「ユグノー(乞食野郎)」、プロテスタント側はカトリック教徒を「パピスト(教皇の走狗)」と罵(ののし)り合った。
この新・旧宗教戦争(ユグノー戦争)でカトリック勢力によるプロテスタント教徒殺戮が大規模に行われ、この「サンバルテルミの虐殺」のプロテスタント犠牲者はパリ市内で約4千人、地方で数万人に上った。
加えて、プロテスタント教徒であったためパリに入城できずに居たフランス国王アンリⅣは、カトリックに改宗するという交換条件を吞み「パリ入城」と「信仰の自由」を認めさせ、1598年「ナントの王令」を発した。このような条件付きの「信仰の自由」はプロテスタント側に強い不満を残すことになった。
このフランスの一国二宗教対立の緊張状態を打開するため、ルイⅩⅢ国王時の宰相リシュリューは1627年から1628年にかけて、プロテスタントの拠点ビスケー湾に面するラ=ロシェルを攻撃してプロテスタント教徒を殲滅、抵抗を封じた。1685年、ルイⅩⅣに至り宰相リシュリュー枢機卿はフランスにおけるプロテスタント信仰を容認した「ナントの王令」を廃止した。
(5) スウェーデンの宗教革命
スウェーデンでは神学者オラフ・ペーテルソン(1497-1552)が弟ラルスとともにルターに師事、宗教改革運動を主導したが、国王グスタフⅠの宗教改革への好意的関心と自らの政策への導入が王権主導のスウェーデン国教会設立までを円滑に運ばせた。
(6) デンマークの宗教改革
ルターの「95か条の論題」は、デンマーク、ノルウェー、デンマークの支配地であるスレースヴィ公国、ホルシュタイン公国、アイスランド、フェロー諸島、グリーンランド、ゴトランド諸島、スコーネ、サーレマー島(現エストニア)において、カトリックからルター派プロテスタントへの宗教改革が推進された。
ルター派は、デンマーク議会の緩やかな宗教改革容認もあり、1528年にはデンマーク全体が改宗へと向かった。国王クリスチャンⅢの改宗に拠ってルター派キリスト教国となった。このためカトリックの聖職者らは逮捕・追放に処された。
(7) ノルウェー、アイスランド
ノルウェー、アイスランドではルター派導入は遅れたが、上からの改革が進められルター派がキリスト教を掌握することになった。
(7) ドイツ
宗教改革はドイツから始まった。
ルターのカトリック攻撃は神聖ローマ帝国皇帝から異端とされ、カトリックからの追放に至った。しかしルターを擁護、保護する諸侯もいた。ルターはまた活版印刷技術を活用して『ドイツ語訳聖書』と自著『キリスト者の自由』を広く民衆に浸透させかつ識字率を向上させた。こういった宗教改革はドイツ国内においてあらゆる階層に対立現象を、没落しつつある騎士階級の体制や社会への挑戦を、農民には「平等」意識の芽生えが支配階級に対して反発を喚起して行った。
こうして宗教改革は、宗教だけではなく、封建社会に革命を起こす意思の高まりを与えた。こういった社会現象は、封建領主・諸侯・聖職者といった階層だけではなく学者・庶民・農民に至るまで社会変革に参加できるという民衆の時代精神を盛んにした。
また、宗教改革の時代には、大航海時代、オスマン帝国の勃興、民族移動、ルネッサンス、レコンキスタなど地球規模に拡大した社会現象が同時に進行している。
正教会との関係においては、新教側が正教側の理解を得られるよう相互の直接の話し合いを実施して、双方が双方を引き入れようとするのではなく相互の尊重において正教が新教を容認する姿勢と理解を共有した。カトリック側は、新教と正教が合同する危惧を抱いていたが、この合意を承知し、新たな局面に発展することなく緩やかな理解に至ったと認識することになった。
2 三十年戦争
(1) 宗教改革後遺症
1618年 にボヘミア王国(現チェコ)において、神聖ローマ帝国や体制に対する反抗の一つとしてカトリック信者をプラハ城窓外に放出する事件が発生した。「フス戦争」でもそうであったが、三十年戦争(1618-1648)第一段階の引き金は、第2次プラハ城窓外放出事件であった。
後に神聖ローマ皇帝となるボヘミア王ハプスブルグ家フェルディナントがカトリックを重用、プロテスタントを迫害したため、1618年、プラハ城を襲撃した民衆がカトリック側の王の顧問官、書記の3名を王宮窓外に放出した事件がそれである。
宗教改革の運動に一応の終止符が打たれたはずであったが、激怒したプロテスタント貴族、民衆が騒動を起こしたため、フェルディナントはウィーンに逃げ帰り、体勢を立て直して反撃し、いったんはカトリックが勝利するも、三十年戦争に突入してしまう。
(1) 戦争の特徴
三十年戦争は神聖ローマ帝国を舞台に戦われた国際戦争で神聖ローマ帝国内の100にも及ぶ領邦領主、領民が参戦した。根底に在る原因は、ドイツとスイスで発生した宗教改革によって誕生したプロテスタントとカトリックとの対立であって、キリスト教という枠組みの中で行われた戦争としては、最後で最大の宗教戦争となった。明確な数字は残されていないが、この戦争の犠牲者は約800-900万人とされている。
当初は、神聖ローマ帝国内であるボヘミア(現在のチェコ)・ベーメンで、神聖ローマ帝国のカトリック信仰押し付けに対するプロテスタントとカトリックの衝突であった。しかしこのキリスト教を二分した衝突は、ヨーロッパ中に拡大した。プロテスタント陣営は、デンマーク、スウェーデン、スペイン、ネーデルランド、イングランドなどに唯一カトリック国のフランスが参戦している。カトリック陣営は、ローマ教皇、神聖ローマ帝国、スペイン、ポルトガルなどで、戦場がヨーロッパ全域に広がった戦争となった。
カトリックの国であるフランス王国がプロテスタント側についているのは、明らかに、フランスのブルボン家とオーストリア=スペインのハプスブルグ家がヨーロッパの覇権を賭けて雌雄を決する様相を呈し、神聖ローマ帝国に替わってフランスがヨーロッパを牛耳るという思惑がうかがえる。
(2) 戦争の経緯
第一段階(1620-1623)は、カトリック諸侯にスペインが加わった「同盟」とプロテスタント諸侯のプファルツ選帝侯を戴きネーデルランドが支援する「連合」(ルター派とカルヴァン派が連合)の対決となった。スペインとネーデルランドの参戦は、ネーデルランド独立戦争の意味合いもあった。
第一段階はカトリック側の勝利でプラハをカトリック勢力下に置くことになった。
第二段階(1625-1629)はデンマークが参戦、デンマーク国王クリスチャンⅣがイギリス、ネーデルランドの資金援助を受け、プロテスタント擁護を掲げドイツに侵攻した。神聖ローマ帝国は、これを撃退するもフランスがプロテスタントおよびデンマークの間接支援にまわった。
第3段階(1630-1635)はスウェーデン王「北海の獅子」グスタフ=アドルフⅡが登場した。フランスの資金提供という間接支援を得、プロテスタント擁護、神聖ローマ皇帝軍の北方進出阻止を目的にドイツに侵攻、スウェーデン軍は勝利するもグスタフ=アドルフⅡを失った。カトリック勢力の指揮官が謀反の疑いをかけられ誅殺され、両軍は指揮官を失ったことから和約が成立することになった。
第4段階(1635-1648)はドイツにおけるプロテスタントの挽回を期して国王ルイⅩⅢと宰相リシュリューがドイツに直接侵攻、スウェーデンも同調して介入、カトリック側はスペインが直接介入して戦闘規模が拡大した。しかしスペインは内乱、ポルトガルの独立戦争発生で劣勢に陥った。
3 終戦
戦場となったドイツの荒廃著しく、リシュリューの思惑の通りプロテスタント側有利のうちに世界史上初めての国際講和会議がウエストファリアのオスナブリュックとミュンスターにおいて行われた。参加したのは、交戦勢力の教皇庁を除く全てと参戦していない諸領邦を含め148名であった。
リシュリューの思惑であった「神聖ローマ帝国に替わり終戦の立役者となったフランスがヨーロッパの雄となること、ハプスブルグ家に替わりフランス・ブルボン家がヨーロッパの雄となること」は、リシュリュー没後後継の宰相マザラン枢機卿が実現した。
何よりも歴史上特筆されるのは大小領邦・国家に関わらず、ヨーロッパにおいてウエストファリア体制に組み込まれたすべてが公平な主権国家として国境を画定、主権を認め合いヨーロッパ諸国の安定を構築したことであった。
戦争の結果生じた諸現象を挙げると、「第一はハプスブルグ家の縮小、第二はフランス王国ブルボン家の興隆、第三はバルト帝国(スウェーデン)の興隆、第四はヨーロッパ封建体制の衰退、第五は神聖ローマ帝国の求心力喪失、第六はフランス・スペイン戦争の混迷、第七はカトリック教会勢力と影響力の低下」であったと言えよう。