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第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ 第2節 新大陸

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生
第4章 帝国の盛衰
第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立

第7章 ユーラシア大陸から新大陸へ
第1節 ムスリム交易から大航海時代への転換
第2節 新大陸
第3節 封建領主の中央集権化
第4節 大航海時代

第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章  戦後処理
第12章 冷戦後の世界

はじめに

 本稿は駒澤大学名誉教授落合和昭氏の興味深い論考「ピルグリム・ファーザーズとメイフラワー誓約書」を参考にして考察させて頂いたことを冒頭に断っておく。

 アメリカ合衆国建国は、英国の植民地であった13州が独立戦争で英国を倒し13州の「大陸会議」において独立宣言を行った1776年7月4日である。

 地球上、多くの植民地は先住民が植民地宗主国の支配から離脱して独立、建国を行っている。この場合は、もともと其処(そこ)が棲み処(すみか)であった先住・原住民が自ら独立国家を建国するのだから国際法・国際慣習に束縛されない時代であっても、いわば所与の国家が当然に建国を行うその独立宣言にはクレームのつけようが無い。

 しからば、アメリカ合衆国の場合、建国の前身は英国植民地であり、元々は約600部族のアメリカ先住民が生存権利を有する棲み処(すみか)である北米大陸だったのだから、先住民の立場から言えば、「アメリカ独立・建国宣言」は縁も所縁(ゆかり)もない他人に「乗っ取られ」その他人が「勝手に建国してしまった」と言えるのである。先住民にとってはこのように平然と行われた「理不尽」が今日では確信犯の仕業として国際社会にまかり通っていることに合点がいかないであろう。

 他にも例が無いわけではない。オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、アパルトヘイト時代の南アフリカがそうである。北米大陸ではインディアンの土地をヨーロッパからの移民が占領、植民して、抵抗するインディアンは虐殺・排除された。

 国の誕生以来、このような大事件に遭遇していない「所与の国家日本」に棲む日本人には理解し難い実に地政学的な「新大陸」の歴史について雑駁ながら学習しておきたい。

1 北米大陸におけるアメリカ移住者の誓約

 クリストファー・コロンブス(1451-1506)の新大陸への到達(1492)後、ヨーロッパから大西洋を横切り新大陸、別けても北米大陸へは、スペインがフロリダ半島(1565)/現在のニュー・メキシコおよびリオグランデ川(1598)/サンタフェ(1609)、オランダがハドソン川(1610)/ナソー砦(1614)及び後にニューヨークとなる英国に割譲したニューアムステルダム(1626)に進出していた。

 北米開拓の主役となる英国は、1585年、現在のノース・カロライナ州沖合のロアノーク島にローリー砦を構築し定住を試みたが食糧不足で失敗、フランシス・ドレークに助けられ帰国(1586)したのだが、1587年再挑戦した107名の移住も失敗した(1591)。

 次のイギリス人の北米大陸定住の試みは現在のヴァージニア州のジェイムズタウンであった。1606年、国王公認の北米大陸移住斡旋業者ヴァージニア・カンパニー・オヴ・ロンドンが120名を送り込んだ。ポウハタン族インディアンが彼らを友好的に受け容れ、食料を分けてくれたにもかかわらず、植民当初は農耕を嫌い、インディアンの支援してくれた食糧は底を突き栄養失調や病気が蔓延して8ヶ月間に38人まで人数が減った。しかし、ジェイムズタウンは英国にとって北米大陸最初の永続的植民地として1698年まで90年間、ヴァージニアの首都になったのである。

 今日、アメリカ合衆国建国の祖は英国の清教徒迫害を逃れてオランダに移住していた清教徒(ピューリタン)がメイフラワー号をチャーターしてアメリカに来(きた)った、後に「ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)」と呼ばれる人々に遡るとされている。しかし彼らがメイフラワー号でマサチューセッツ州プリマスに来ったのは1620年であって、ジェイムズタウンに英国人が来てから14年も経っている。当初ジェイムズタウンを目指した彼らが到着したアメリカは現在のマサチュー セッツ州ケイプ・コッドという半島の先端であった。

 此処で、ピューリタン(英国国教会からの分離派)とピューリタン以外のキリスト教徒(英国国教会派)とが北米大陸において分裂することなく北米大陸で安住の地を得るために「神の名において」共有する「誓約」を行った。この誓約を「ピルグリム・ファーザーズとメイフラワー誓約書」と呼び、後のアメリカ・フロンテイア、西部開拓に進む結束を象徴する時代精神かつ精神的規範となって行った。この誓約は、今日のアメリカ人の時代精神としても継承され、アメリカ人の行動基準となっていると考えられる。このために、1620年の英国国教会からの分離派であるピューリタンとピューリタン以外のキリスト教徒英国国教会派とが北米において「ともに共有できる『キリストの名において』コンセンサスを得た」1620年の入植者をアメリカ合衆国アメリカ人の始祖とするのだろう。

 1620年11月11 日に、東へ海を30-40kmへ行けば ボストン、プリマスの地が在るケイプ・コッドに停泊しているメイフラワー号の船上において、「アメリカ建国に至るアメリカ人の”Mayflower Compact”『メイフラワー誓約書』への成人男子全員の署名」が成され、結果的にそれが後の「独立宣言」や「憲法制定」の精神的支柱となって行ったのである。

 「メイフラワー誓 約書」はアメリカ建国の精神的支柱となるものであって、一度(ひとたび)メイフラワー号を離れ北米大陸に上陸した後は、全員が話し合いを尊重する政治的で民主的な組織として行動する同意・約束の誓約書であった。重ねて言うが、この「誓約書」が「国家が奴隷的主従 関係ではなく自由平等で独立した個人々々の関係に基づく契約に従う」社会契約思想に通じ、アメリカ固有に成熟して行くアメリカ流民主主義の礎(いしづえ)となって、「アメリカ合衆国独立宣言」(1776)、「アメリカ合衆国憲法制定」(1787)を導いた。

 他方で「誓約書」はキリスト教精神に基づき又ジェイムズ英国王の名において謳われている。ピューリタンはジェイムズ英国王から迫害され英国国教会から離れた人々であったが、署名はほぼ同数の国教会派の人々と共にメイフラワー号に乗船していた全ての人々とのコンセンサスにおいて「宗教的に」ではなく「政治的に」行われている。

「『誓約』の日本語訳全文」紹介

「神の御名において、アーメン。

 われらの畏れ多き統治者である君主、神の恵みにより、グレイト・ブリテン、フランス、及び、アイルランドの王、信仰の擁護者であるジェイムズ国王の忠実なる臣民であり、下記に名を連ねたわれらは、神の栄光のため、キリスト教信仰の発展のため、われらの国王と 祖国の名誉のために、ヴァージニアの北部地方における最初の植民地を創設するがゆえに、航海を企て、この証書により、神の御前とわれらの前において、厳粛に、相互に契約し、団結して、政治団体を作り、これをもって、われらのよりよき秩序と安全のため、かつ、上に掲げた目的の遂行のため、植 民地全体の利益のため、最もふさわしく、都合がよいと思われるときに、随 時、正しく、平等なる法律、条例、法令、規約、公職を決定し、制定し、作成するために、われらはすべてこれらに対し当然の服従と従順を約束する。

 その証人として、われらはわれらの統治者である君主、イングランド、フラ ンス、及び、アイルランド、18年目、スコットランド、54年目のジェイムズ国王の治世、11月11日、ケイプ・コッドにて、下記に署名した。紀元1620 年。 」(署名および署名者略・駒澤大学名誉教授落合和昭氏の論考「ピルグリム・ファーザーズとメイフラワー誓約書」から引用)

(2) マニフェスト・デステニー “Manifest Destiny” という北米先住(原住)民排除の正当性

 「ピルグリム・ファーザーズとメイフラワー誓約書」はキリスト教色に満ちたものであった。「神の命ずるところ」即ち「神の啓示」が行動の正当性であって、19世紀初めにクラウゼヴィッツが「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」と「戦争の正当性」について喝破するまで、「戦争の正当性は神の代理人ローマ教皇が発する “Manifest Destiny”(神が啓示する運命)」に依拠していた。

 “Manifest Destiny” はアメリカ独立時の米大統領演説にも発せられ、極論すれば北米大陸の西部開拓の前進を阻む敵(アメリカ・インディアン)を殺戮してでも排除する正当性の宣言でもあった。

 それでは、アメリカのメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズの上陸以降、北米インディアンが一方的に排除されて行った様子を見てみる。

 「1620年、入植者は最初に上陸した雪で覆われた周辺を探検し先住民の無人部落を発見、人工的な塚を掘り起こすと、一部はトウモロコシの保存用で他の塚は墓であった。入植者がトウモロコシを盗み、墓を暴いて冒涜したことが先住民との衝突のきっかけとなった。
加えて入植者はプロビンスタウンから南下して先住民の貯蔵していたものを略奪した。このため、1620年12月、先住民であるノーセット族との対峙を経て、入植者は湾の対岸のプリマスへ移ることを決めた」(ナタニエル・フィルブリック・1956-アメリカの歴史学者・要約文責筆者)

 「入植者はトウモロコシを見せるために少量を船に持ち帰った。その後、必要な穀物を別の貯蔵穴から頂戴し、6カ月後に先住民に代価を支払ったところ彼らは喜んでそれを受け取った」(” Of Plymouth Plantation: Brief Summary & History” William Bradford’s Journal, written 1630-1651・文責筆者以下同)

 「1614年、ニュー・プリマスと名付けた土地に上陸、入植当初の状況は厳しく、英国から持ってきた野菜や小麦は収穫に乏しく、1621年4月までに仲間の半数程が病死した。ピルグリム・ファーザーズが上陸した土地には先住民インディアンのワンパノアグ族がおり、ピルグリム・ファーザーズに食糧や物資を援助した。ワンパノアグ族はピルグリム・ファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。
 1621年には収穫があった。ピルグリム・ファーザーズは収穫を感謝する祝いにワンパノアグ族を招待した。祝宴は3日間におよび料理が不足すると、ワンパノアグの酋長は部族から追加の食料を運ばせた。この祝宴が感謝祭のもとになったと伝えられる」

 「ワンパノアグ族の酋長マサソイトは、平和と友好を保つために1621年3月22日にピルグリム・ファーザーズと条約を結ぶ。しかしピルグリム・ファーザーズはワンパノアグ以外の多くの部族と敵対し、1622年にマサチューセッツ族の族長を殺害、1630年にマサチューセッツ族の土地へ植民を始めた。さらに1637年にはピクォート戦争でピクォート族500人を虐殺した。
ワンパノアグ族との関係も次世代酋長の代になると悪化し、1675年から1676年までのフィリップ王戦争でピルグリム・ファーザーズとインディアンの両方共に多くの犠牲者を出した」

 「フィリップ王(入植者が呼んだワンパノアグ族酋長の名前)戦争は、1675年6月から1676年8月まで戦われた。
 ワンパノアグ族は、ニューイングランドと名付けた土地に入植した英国人に対する『越冬の保護・食料の贈与』など支援を行った。入植者は親切に乗じて『土地の無償譲渡を拡大』、挙句は『立ち退き要求やキリスト教改宗の強要』にエスカレートさせるなどして、先住民の風俗慣習に無理解な入植英国人が先住民の殺害や一方的不当裁判などに及んだため、先住民が激怒、戦闘に発展することになった。ニューイングランドの植民地群のプリマスからロードアイランド植民地一帯で入植者は軍隊を編成してインディアンを攻撃、対する先住民部族は結集して対抗するがことごとく敗れた。
 戦死したワンパノアグ族メタコメット酋長の遺体は入植者達により八つ裂きにされ、槍の先に突き刺した首は、24年間にわたり入植地の村に飾られた。そして捕虜となったメタコメット酋長の家族を始めとする先住民達は奴隷として西インド諸島などに売り飛ばされた。
 入植者は「総司令官がおらず部族酋長の合議制」という先住民の文化を理解できず酋長の一存で抵抗していると考え、非戦で解決する知恵が及ばなかった。侵略者はただワンパノアグ族酋長メタコメットを『戦争を始めた首謀者』と一方的に見なし理不尽な辱めを与えて勝利を祝った。

 このフィリップ王戦争では、植民地宗主国の英国本国が支援しなかったため、入植者に独立の意識を芽生えさせるきっかけとなった。ニューイングランド地方の入植者はヨーロッパ政府や軍からの支援を受けなくても自力で敵に立ち向かえる自信を得て、自分たちを本国から切り離し別個の集団意識を抱かせることとなった」

 このような事例はさらに頻発して行った。先住民インディアンは殺戮されて行く一方であった。総じて「インデイアン戦争」と言われる戦いは、入植者とアメリカ独立後のアメリカ騎兵隊中心の一方的な戦いに終始し、1890年にサウスダコタ州ウンデッド・ニーで発生したビッグ・フット酋長以下ミネコンジュ―族、スー族などインディアン一行に対して米第7騎兵隊が行った民族浄化の300人虐殺で終息する。

 1675年の戦争が発端とすれば、215年間にわたり繰り返されたアメリカ合衆国のインディアン排除の戦争がアメリカ最長の戦争であった。バイデン米大統領の言う「アメリカの最も長いアフガン戦争」という言葉には「インディアン戦争」が忘れられている。

 最後に現在のアメリカ・インディアンの思いが伝わるウィキペディアの記述を紹介する。

「プリマスとインディアン」

 ピルグリム・ファーザーズ一行がこの地に上陸した際に「初めて踏んだ岩」とされるのが、同地の観光名所である「プリマスの岩」である。1970年には「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」として、華やかな式典行事が行われた。

 しかし白人にとって記念すべきこの岩は、インディアン達にとっては侵略と民族浄化の忌まわしい象徴である。この「ピルグリム・ファーザーズ上陸350周年記念の日」には、全米最大のインディアン権利団体「アメリカ・インディアン運動 “American Indian Movement-AIM”」が式典に乱入し、抗議行動を行った。

 AIM活動家のラッセル・ミーンズらは、記念展示されていた「メイフラワー2世号」に乗りこんでマストにAIMの旗を掲げ、また土砂を満載したトラックを乗り付け、「プリマスの岩」を土砂で埋めてみせた。

 プリマス植民団に虐殺され土地を奪われた、ワンパノアグ族をはじめとする周辺インディアン部族は、現在「ニューイングランド・アメリカ・インディアン連合」を結成している。
彼らは、同地で毎年行われる「ピルグリム・ファーザーズの上陸記念感謝祭」に対し、毎年この日にぶつけて「全米哀悼の日」として、虐殺された先祖への弔意を示す黒い腕章を着け、「白人によるワンパノアグ族虐殺の歴史を忘れるな」との標語を掲げ、抗議のデモを行っている。