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第4章 帝国の盛衰 第2節 ローマ帝国の分裂と滅亡―国力とガヴァナンスの限界

第1章 ジオポリテイ―ク序説
第2章 古代の戦争から読み解く
第3章 超国家の誕生

第4章 帝国の盛衰
第1節 民族の移動―衝突は大陸の宿命
第2節 ローマ帝国の分裂と滅亡―国力とガヴァナンスのバランス崩壊
第3節 中国と中華思想―中原の覇権というDNA

第5章 日本の古代ジオポリティーク
第6章 領邦国家の成立
第7章 ヨーロッパ大陸から新大陸へ
第8章 大陸の鳴動
第9章 主権国家の変革
第10章 戦争の世紀
第11章 戦後処理
第12章 冷戦後の世界

1王政ローマ(BC753-BC509)=ローマ王国

 伝承によればローマ帝国のルーツは、「トロイア戦争の敗者が現在のイタリア半島に逃れ建国した王国の巫女」と「戦いと農業のローマ神マールス」の間に産まれ、狼に育てられた双子の兄ロームルスが、紀元前753年に建国した王国とされる。

 神話期を過ぎた、人口の少ない、都市国家でしかないローマ王国は、人口を増やすため、戦争で戦った相手敗戦国などを吸収し、その国民や部族を積極的にローマ市民とした。ローマ王国では、他国・他部族の中から国王選出の有権者である元老院議員を選抜するなど「味方勢力の増加」につながる政策が進められた。
 この施策は後にローマの性格形成に影響を与え、しかも軍団の兵力維持を依存するところともなり、ローマの帝国化に寄与する原動力となった。

 また、国王に人材を得ず、軍事力(二千人程度の軍団)を掌握している国王(王権)が軍事力を私用するなど国政の秩序を混乱させ王政を不安定にするなどしたため、紀元前509年、「王政ローマ」は「共和政ローマ」に替わった。共和政ローマは、国王を置かない、合議制が強化され、ローマ人に「専制君主」制に対する拒絶反応を植え付けることになった。

2 共和政ローマ(BC509-BC27)

 ローマ王国との同盟関係を維持していたエトルリア、ラテンの諸都市国家は、ローマの王政廃止によっての同盟を解消し対立関係を旗幟鮮明にした。

 共和政ローマにおいては、国王に替わって長老主導の元老院が行政権を持つ政務官職の一つである執政官(コンスル)選挙に大きな影響力を持った。

 イタリア半島北部のアルプス越えに南下侵攻するガリア人に対する防衛戦争が繰り返されていた。この戦争の主力となった平民(プレブス)で構成される重装歩兵団の政治的発言力が強まり、要求や不満の風当たりの正面に立ち政治を独占してきた貴族(パトリキ)グループに対抗する「身分闘争」が表面化した。

 共和政体制は、元老院・政務官・民会によって成り立っていた。市民によって構成される民会は政務官を選出した。元老院は、政務官経験者によって構成されていたため元老院の決議や助言、意向に逆らうことは難しく、政務官の選挙に大きな影響力を持っていたことから両者がローマを動かしているのが行政の実態であった。

 共和制に移行したローマは、イタリア半島はもとより半島外の都市国家を属州化していった。軍隊の移動のため道路整備が推進され、アッピア街道など交通網のインフラ整備は17世紀フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌが「全ての道はローマに通ずる」と評したように進み、属州化した広域の支配を可能とした。

 共和政ローマは、カルタゴのハンニバルがローマに攻め入った遠征、スキピオの反撃でカルタゴを殲滅したポエニ戦争、マケドニアとの戦争、カエサルのガリア遠征、クラッススのペルシア遠征、ポンペイウスのスペイン/黒海沿岸/コーカサス地方/シリア・パレスティナ遠征など数多くの戦争を重ねた。

 戦場に向かう往復数千キロメートルに及ぶ兵士の移動は徒歩であったから、一つの戦争には数年を超える長期間を要した。農民兵士を主力とする軍団の戦争は、農地の荒廃を促し、戦間期における農業生産を滞らせた。加えて、戦勝地からの無償同然の農産物略取、奴隷同然の労働力獲得は、ローマ軍兵士の戦間期における職を奪うことにもなり兵士の困窮を重ねさせるだけであった。別けても農民の生活困窮は、農民が主力のローマ軍兵士の軍団成立を成り立たなくする傾向を生んだ。

 兵士の「稼ぎ」は戦争による戦勝時の略取略奪に偏って依存していたため、稼ぎを目的とする戦争を重ねる悪循環がローマ帝国本国平民の不満を増幅させた。その不満に拍車をかけたのが戦争による貧富の格差増大であった。

 ローマは属州に対してローマ化を進めるため、「便宜を図り擁護するパトロン “patronus” 」となり「属州がパトロンにとって都合のいいクライアント “clients” 」になるという関係を構築して行った。

 制度の上では、属州統治においてローマは都市の自治を尊重した。しかし一方で、派遣された総督はローマの支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、多くは収奪、あるいは収賄に奔り、属州統治を腐敗させた。

 まさにローマがパトロンで属州がクライアントとなる関係が人の社会にまで及んだのである。それはこのような社会に発生する「有力者への付け届け」など贈収賄やおもねり・そんたくの悪弊現象でもあった。それは富裕度が極度に高まると国家をも脅かすことになり、国家財政が富者に依存する現象までも発生したのである。当然政治家はその現象のアウトプットとして富者の側から選挙されることになった。

 属州の優れた人材をローマにおいてローマ流の教育を施し、今日で言う「洗脳」して選挙権を持つ「ローマ市民」の資格を与え、属州の官吏に任命するなど間接統治の体制、即ち「ローマ化」を進め、属州がローマにとって都合のいいクライアントになるという体制を構築した。ローマにとって都合のいいパトロン(ローマ)とクライアント(属州)の関係が構築できるというわけである。

 今日の日米関係は、第2次世界大戦後の日本における占領統治の副産物であるが、吉田茂(当時)首相によって、「日本にとっても都合のいいアメリカ」であった関係が「アメリカにとって都合がいい日本」化している感があり、共和政ローマ時代の「ローマにとって都合のいい属州」を作るためのローマ化に重ねられる。

 ローマの人口増加と統治機能の集中は必然であったが、富と力を得た貴族、市民あるいは軍人が軍隊の私有や選挙権を買収するなど、統治の最高機関である「元老院の権威」や「共和制ローマの秩序」を損ない統治の機能が不全に陥る風潮を発生させていた。

 国内外の多様な脅威・叛乱・挑戦には早急な軍事力強化の対応が求められたため、農民兵士の没落を救済する「土地分与改革」が提案されたが、反対者により提案者が暗殺され頓挫した。その結果得られた改革案は、志願兵制への「軍制改革」となり、属州から徴募が行われた。改革は、数的な満足を得ることができた代わりに軍を指揮統制し兵士を服従させる、および軍を維持する財政問題を解決するため富者の力を使うことになり私兵軍の出現につながる原因を生んだ。

 改革はローマ軍の人的需要を満足させたが、私兵化が軍閥を増長させ「共和制ローマの秩序・統治」を乱した。軍事力を背景にローマの統治を左右したのは、ローマ周辺に脅威を及ぼしていた部族連合相手の戦争(BC113-BC101)に大勝利し、また市民兵制度を職業軍人制度とし装備/給与支給・訓練制度の改善・指揮系統の整備といった軍制改革を行った政務官(執政官)であり「帝政ローマ」への道筋を開いたと評価されるガイウス・マリウス(BC157-BC86)であった。

 次世代において、一時的な共和政ローマへの復活を経て「軍閥主導」に導いていったのが「遠隔地への侵略戦争」で名を挙げたポンペイウス、クラッスス、カエサルであり、彼らは三者鼎立して元老院を抑える三頭政治を行った。
しかし、クラッススがペルシア(パルティア)遠征中に戦死したため鼎立が崩壊し「ポンペイウスとカエサルの対峙」が始まり、共和政ローマは地中海を二分する内乱時代を迎える。

 内乱を制したのはカエサルであった。独裁官に選ばれたカエサルは共和政復古派に暗殺される。

 カエサル派は、カエサルの遺言に指名されていたカエサルの姪の息子でカエサル死後に養子となった継承者「オクタウィアヌス」、カエサルの甥にあたりガリア遠征にカエサルに従軍し貢献、又クレオパトラとの濃密な関係を歴史に残した「アントニウス」、カエサルの遠征時に留守居を任された「レピドゥス」が市民集会の認証の下、第二次三頭政治を布いてカエサルを継承した。この三頭政治はアントニウスの政敵キケロ、カエサル暗殺の首謀ブルトゥス、ロンギヌスなど共通の政敵を粛正するなど政敵を一掃すると三者間の闘争に移行した。

 その結果、オクタウィアヌスは、アントニウスを倒し、アントニウスがクレオパトラと築いていたエジプトをも併合、地中海を統一制覇した。

3 帝政ローマ(西ローマ帝国BC27-AD486)

 ここでは、東ローマ帝国に比べ早くに消滅した西ローマ帝国について整理する。

 共和政ローマの “Imperium Romanum”( ローマの命令権が及ぶ範囲) は、現在の国名で列挙すると「イタリア・ヴァテイカン・イギリス・ドイツ・ロシア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルグ・ドイツ・ポーランド・フランス・オーストリア・スイス・アンドラ・スペイン・ポルトガル・モナコ・スロベニア・チェコ・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・リヒテンシュタイン・ルーマニア・ウクライナ・モルドヴァ・セルビア・モンテネグロ・アルバニア・ブルガリア・ギリシア・マケドニア・トルコ・シリア・イスラエル・パレスティナ・レバノン・ヨルダン・エジプト・イラク・マルタ・キプロス・ジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア・チュニジア・アルジェリア・リビア・モロッコ・サウジアラビア」の50カ国である。

 タテマエに共和政を布くローマが実態として帝政を進めた。「意志の強制が働くと反発が生じる」のは必然である。広大な版図において共和政ローマ時代の政治組織「執政官・元老院・民会」にとってローマの領域拡大は統治に手に負えない限界に来ていた。この問題が発生した段階では属州に対して民会への参加権利も、市民権も与えられていなかった。しかし、広大な地域に属州の全国民が参加する「共和制ローマの統治体制」を布くことは不可能であった。

 先に挙げたように、現在の国名で共和制ローマの勢力範囲は50ヵ国に及んでいる。共和政ローマの運営は変革を必然とする時代を迎えていた。体制改革は、より強い力の優劣関係を構築するほかに手立てがなかった。

 有事に独裁官を置く(指名する)制度があった共和制ローマからの変革は、革命的ではなく、共和政が継続されるタテマエを活かし、権力が「独裁官の持つ非常時大権」ではなく、権限を一身に帯びるという便法を採った。何故ならば、王政ローマの王を退位に導き共和政ローマを定着させた歴史を歩んできたローマにとって「君主制」への回帰はタブーであったからである。それは、終身独裁官となったカエサルの暗殺に込められた保守勢力の「君主制や独裁制に対する拒否」のメッセージが示すところである。

 オクタウィアヌスは、アントニウスら三頭政治で対立していた政敵を一掃してローマの元首(皇帝)に就いた。ローマ帝国オクタウィアヌスが元老院から受けた「尊厳ある者“Augustus”(アウグストゥス)」(在位BC27-AD14)の称号は、共和制ローマの体裁を守る意識の表れでもある「第一人者“Princeps”(プリンケプス)」の名称とともに、オクタウィアヌスの存在を「元首」とし、「元首政(プリンキパトゥス)」を強調するものであった。

 ローマ帝国 “Imperium Romanum”の呼び名は、「ローマの支配が及ぶところ」を意味し、後世にローマ帝国の元首を「皇帝」と呼ばせる理由ともなった。しかしオクタウィアヌスは、アウグストゥスであり、プリンケプスであり、コンスル(執政官)であり、インペラトル(期限がある軍最高司令官)であることがタテマエであって、一般的に言う「皇帝」ではなく「共和政ローマを継承する帝政ローマ固有の歴史学的に言われる『皇帝』であった」と理解しなければならない。

 一般的に言う皇帝とは、「王権を徹底する対象となる覇権国およびその属州・共同体(自治体)・部族・氏族連合から成る『帝国』の頂点に位置する為政者」であって、「諸王の上に立つ王/王の中の王」と解釈される。

 今日における格好の例は、ロシア大統領プーチンが自らを「ツァーリ(露語:皇帝)」に重ねる7連邦管区83(クリミア、ウクライナ東部を加えると85)の州・自治管区・共和国を抱えるロシア連邦の統治である。共和政ローマ末期に似た広範囲に及ぶガヴァナンスの現状であって、「独裁強権統治」だからこそ「ロシア連邦固有の秩序が維持されている」と言えよう。

 オクタウィアヌスは暗殺を避けるため独裁的言動に陥らないよう振舞った。継承者も同様であった。統治(ガヴァナンス)は、「プリンケプスが行う統治(プリンキパトゥス)」、即ち共和政の継続というタテマエを堅持し、それは共和制平時のさまざまな権限を一身に帯びる「かたち」におさめていた。
 しかし、実は「権限がオクタウィアヌス一人に集中」して「ローマの伝統的共和政と異なっていた」のである。共和政ローマにあって合法でありながら、それらを束ねると共和制とはひどく異質な最高権力者の権威を象徴している。

 オクタウィアヌスは、「権威において万人に優っても、権力という点では他の政務官に優るということはない」と説明をしている。プリンケプスの地位を構成したオクタウィアヌスの主要な職責は、執政官の権限、上級の属州総督(プロコンスル)権限、護民官の職権であった。オクタウィアヌスの職責遂行の根拠はこれら三つの権限であり、別けても執政官および上級属州総督の二つの権限は全ローマ軍の統帥権を握る根拠であった。

 オクタウィアヌスとその継承者の職責内容は次のとおりである。

・執政官のインペリウム(行政権限=命令権):ローマの行政権の根拠、およびイタリア半
島におけるローマ軍の指揮権限
・上級の属州総督のインペリウム:属州の行政権、および元老院属州への影響力の保障(軍
 団の指揮権限)
・護民官職権:身体の不可侵権、元老院への議案提出権、民会召集権など(殊に拒否権は最
重要の権限)
・最高神祇官職:宗教に係る最高責任者

 帝政ローマ(西ローマ帝国)における社会現象は、最大領域支配「パクス・ロマーナ」をピークに、疫病の発生、異民族の侵入、ローマ皇帝の暗殺、統治の混乱、短命皇帝の時代、軍事力依存の統治、属州の離脱など帝政存続の危機を迎えるが、賢帝の登場により再興再統一が行われた。

 小康期、キリスト教容認・国教化が行われ、広大な領域統治の困難性は、その解決のためもあり、皇帝位継承を兄弟に二分(AD395)して東西ローマ帝国がそれぞれに統治した。

 東西分裂後、フン族、ゲルマン民族の大移動がローマ帝国を脅かし、これに対処するローマ軍の兵士徴募をゲルマン民族に依存して西ローマ帝国の衰退が加速、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルによって西ローマが奪取(AD486)され滅亡した。

 東ローマ帝国は、コンスタンティノープルに帝都を置き、イスラム国家の圧迫、十字軍の遠征によるエルサレム奪回戦争を経て、1453年、オスマン帝国との戦争によって滅亡するまで一千年を生き抜き「ローマ帝国」の名を遺した。

 ローマ帝国の成立は、確かに軍事力による外部ライバル、および、帝国内のライバル打倒の結果であった。しかし、ローマの場合、同等の帝国が併存して雌雄を決したのではなく、広域にわたり、今日のライン川以南のヨーロッパ、バルカン、小アジアに至る地域に多数存在する都市国家の多くを「ローマのスーパーパワー」で吸収することに成功して属州化を進めている。
それは、今日、社会の企業間で行われる「M&A “Merges & Acquisitions”=合併(併合)・買収(吸収)」に似た作用とも言える。「大が小を制する」に、第2次世界大戦後の東西冷戦構造における東側世界の「イデオロギーと軍事力」による「抑圧」的統治ではなく、「大国が小国の面倒を見る形態」即ち、「パトロン」が「クライアント」を庇護する制度である「ローマ化」をもって「パクス・ロマーナ」を形成して行った。

 しかし、ローマ化によって属州化した都市国家・共同体・民族・部族が力をつけて行ったことも必然の現象であり、他方でローマが「力のガヴァナンス」で属州をローマの都合よく抑えていくことに限界が生じるという現象も発生した。それは「ローマの国力以上の過重なガヴァナンスの負担が発生」という現象でもあった。

 この歴史は、覇権という文脈では地政学的に、また国力と統治の規模という面でGeopolitik” に、現代の国際政治、国際関係に貴重な示唆を与えているのではないだろうか。