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明治の香りよ いつまでも

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 さて,鴨ノスといえばすすきの。すすきのといえば歓楽街。その歓楽街の起源は,今から150年前,明治4年の遊郭の設置までさかのぼります。
 すすきの交差点から『東西に1丁ずつ,南へ2条』のほぼ正方形の範囲が遊郭でした。明治時代末にはおよそ30件の妓楼に300人ほどの遊女が働いていたといいます。
 当時の遊郭の建物は1つも残っていませんが,遊郭から南に1条下った豊川稲荷札幌別院(明治31年開設)では当時の遊郭関係者の名前を見ることができます。ここに寄付をした人の名前が玉垣に刻まれているのです。例えば,昇月楼の楼主(経営者)だった田中イソ。門の近くの目立つ場所に名前が彫られていますから,相当多額の寄付をしたに違いありません。お祭りや寺社への寄付を惜しまないキップのいい女性だったそうです。

昇月楼主 田中イソ

 それにしても,この玉垣,ボロボロじゃないですか。軟石という脆い石でつくられているうえに,札幌は豪雪地帯。どんどん壊れていったんですね。
 昭和44年ころ,歩道拡張にともなって玉垣を1.5メートルほど境内の中へ移動させることになりました。そのとき『玉垣を新しくしよう』という話もあったそうですが,古い玉垣を残して内側に移動しました。
 歩道に大きな松の木がデーンとあって妙に思っていたのですが,松はもともと豊川稲荷の敷地の中にあり,その外側に玉垣があったわけです。そんな歴史をひそかに伝えてくれる松も切られなくて良かったな…

切られていない松

 この古い玉垣について,豊川稲荷札幌別院第4代の住職,牧野拓道さんは次のように書いています。

「明治時代に積んだ石垣なので,それに軟石という素材。風化は激しく土台もゆるみがちになり,昨年,道路拡幅に応じて五尺ほど境内に喰い込ませ移動した。若干の破損がでたので,さらに石垣の間数は減じた。信者の皆さんとも相談したが,明治も大正も知らない人は新しい石垣を作ったらの要請もあったが,そうもいかない。わずかの差であるならば,改修費が増加しても,むかしの石垣を残したいと思った。(中略)
 石垣に刻まれている方々の芳名は,ススキノの明治時代の実力者であり,かつ,ススキノを今日あらしめた先達の人々である。そしてまた,ススキノの守護神として,東海の霊場豊川稲荷の本山から,このススキノに鎮座せしめた発起人の代表の方々でもある。
 豊川稲荷の境内だけは明治の香りを,いつまでもススキノの栄光として残しておきたい」

脇哲『物語・薄野百年史』(すすきのタイムス社,1970年)の412ページ

 建物や店がどんどん入れかわり,2~3年で風景が変わってしまう街すすきの。せめて豊川稲荷には,明治の香りを残しておいてほしいものです。

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