お金とはなにか

 おはようございます、神島竜です。

 今日はお金についてはなします。

 ここでは、読書家としての生き方を話す過程で生活の知恵を話す記事も書いています。お金のことについて話すのは今日がはじめてです。

 お金がなくても生きていける。社会の苦しみから自由になるために、お金のことについて考えるのをやめよう。そう言う人はネットにはたくさんいますが、お金は大事です。もっと言うなら、お金とは何かを考え、知ろうとすることは大事です。

 僕らは資本主義社会に生きています。そこにはある種の虚構と幻想があり、様々な個人、団体がその構造の崩壊を示唆し、そこからの自由を唱えている。しかし、それでも僕らは社会のなかで生きているんです。

 小説家、村上春樹の作品に『ダンス・ダンス・ダンス』という作品があります。

 作中では、さまざまな謎が描かれており、そのうちの一つとして、主人公はある女性の死の謎を追うことになります。その結果、主人公は親友が彼女の死に関わっていることを知ります。バーで親友にたずねる主人公。しかし、親友は自分が殺したのか、殺していないのか、わからないと語る。

 社会とは、とても複雑なものです。だれが加害者でだれが被害者なのかわからなくなる。だからこそ、村上春樹の作品には「僕が彼女を殺したのかもしれない、それとも殺していないかもしれない、わからない」という問いがたびたび出ます。

ダンス・ダンス・ダンス

 社会のなかにいると、だれが被害者でだれが加害者であるかがわからなくなる。たとえば、キミは今日ハンバーグを食べたとする。スーパーで100g、450円のひき肉を買い、40円の玉ねぎと6個入り120円の玉子、パン粉を使って、家でコンロを使って、ハンバーグを焼いた。
 100gのひき肉のために、牧場では牛が育てられていて、二十数ヶ月をかけて肥育された牛は殺されミンチとなり、スーパーのお肉コーナーに並ぶ。
 死んだ牛の責任はキミにあるのか。キミが殺したのか、答えはノーだ。しかし、キミが買うことで牛はこれからも育てられる。
 こういう問題の複雑さに対して、単純にじゃあ私は肉を食べないわ。動物と友達になるのと言って、牧場からブタを盗んで頬にキスをする写真をインスタグラムに投稿するのは、あまりに無知が過ぎる。

 人間は何かを犠牲にして生きている。そうした罪悪感から逃れたければ肉を食べなければいいは短絡的だし、お金に触れなくていい、お金のことを考えなくていいも同じだ。

 そもそも、お金とはそれ自体が価値のあるものではありません。

 お金とは、商品の交換の際に使われている媒介物です。むかしは貝や金がお金の代わりになっていた時代もありました。

 この代替物のおかげで、物とものの流れがスムーズになりました。お金は腐らず、場所を取りません。だからこそ、麦を別の食べ物に交換してもらうのでなく、お金でもらって、それでぶどうを買うなどができるわけです。

 しかし、だからこそ、お金という概念が一人歩きしてるとも言えます。価値から価値への受け渡しがシステムによって自動化されるからこそ。その本質が実感しづらい。人が拳から棍棒、棍棒から銃へと変えたように。技術で目的を達成しやすくするたびに、その結果に対しての実感から薄れていっている。

 現在、人はシステムで人を支配した気になって、増殖していくシステムに支配されているかもしれない。カクヨムから書籍化されたSF、『横浜駅SF』では、自動的に整備、修復される横浜駅が突如、増殖してしまい、日本列島のほとんどが横浜駅となってしまった奇妙な世界観が描かれています。

横浜駅SF

 それは現代のシステムによる資本主義によって増えたバグを、それを生み出したはずの日本の政治家たちがコントロールできないさまにも似ている。

 僕らはそのしがらみに気付いてるからこそ、シンゴジラで、システムによってゴジラを攻撃できない政府に憤り、それにより壊れていく日本にカタルシスを感じる。

シンゴジラ

 さて、そろそろお気づきの方もいるでしょう。今日、本当は節約の仕方について話すつもりでした。

 かなり脱線してしまいましたね。
 また明日、本題に入りましょう。



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