来週も今日と同じ日でありたいと願うような日にしたい。生産性のある日にしたいとは。
生産性のある生活を送りたい、といつも考えている。この生産性というのは、なにも勉強しようってだけの話じゃない。
もちろん、勉強もしたいと思っている。
机の上に向かって、何時間も集中してなにかを学べたら素晴らしいだろう。
しかし、動機がしっかりとある上で、目的と手段が一致したものであるべきだ。ただ、自分を痛みつけて人生の末路を笑って死ぬためのマゾヒズムに浸るような道の途中であってはいけない。
精神や人格を上位に置くと、そういう行動をとりたがる。生活を豊かにすると勉強は必ずしもイコールではない。やって意味があるかどうかを問い続ける必要がある。
豊かな生活を送る上では、一種類の行動を反復していたら夕方になり、ニヤニヤと笑うわけにはいかない。その時に作り上げられた自尊心の塔は平気で壊される。
世の中にはフレームがあり、空気があり、世間と呼ばれて風が吹く。凪いだそよ風のむく向きを予想して回せれば心地良かろう。
列車が続くよどこまでも、と叫べる人生は素晴らしい。だけど風に乗るための羽根や線路からはみ出ない車輪がだれもについてるわけではない。
そこがわかるのなら苦労はしない。
だからこそ、能力を伸ばす時に一つだけ一生懸命に鍛えるというものを信用しない。そういうことは既に何度もやってきたからだ。
思い返すと、学校の仕組みとは素晴らしいものだ。複数の科目を一日、一週間、一ヶ月、一年の枠組みで横断する。
向き不向きがあるとはいえ、そのライフスタイルや小さい社会を成立させるために、複数の外部器官が噛み合おうとしている。
ゆえに起きる不調和があり、それが意図的に見過ごされていることに閉塞感がある。しかし、まったくもって意味のないものではない。
あの外部器官を内部に浸透させることができれば。もはや誰の意思なのかわからなくなった社会意思でなく、自己意思のもとでコントロールできるならばそれは素晴らしいものだろう。
つまり、一日のなかでこれを学ぶというのを複数もち同時進行で行いたい。それには一つの方向性があるにせよ、多様性を持たせたい。そう思っている。
そんな一日が送れれば、また来週もそうしたいと思えるだろう。
それが生産性のある日というものだ。
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