見出し画像

8月20日のお話

ナオミさんは、いつも明るく可愛らしい先輩でした。仕事もできて優しくて、優しすぎると会社のパートナーからは叱られることも多くて、それでも「私はこんなだからさ」と舌を出して飲みに行く。そんな人です。

今日も苅野は、そんなナオミさんに誘われて、彼女の行きつけのお店に飲みに来ています。

ナオミさんは、少し変わっているところもあって、美味しいものとダイビングが大好き。月に二回は沖縄に沖縄に潜りに行きたくて、年に一度は二週間くらい海外のダイビングツアーに行くと決めています。

すごく痩せているのに、美味しいものはお腹いっぱい食べて、とても幸せそうです。

「その分、余分なカロリーは摂らないようにしてるよ?」と、米を控えるようなそぶりを見せたり、不味いものは一切食べないと宣言したり。

右手の人差し指と薬指には、その高価さがひと目見てわかるキラメキを放つ大きなダイヤの散りばめられたリングをはめて、カバンは黒のシャネルです。外資系コンサル女子の優等生といえば、こういうタイプなのかもしれません。

店の常連客らしき男性たちから「水中じゃなくて陸上の彼氏を作りなさい」と茶化されるたびに、「私が欲しいと思っても、こんな私を女として見てくれるひとなんて。。」と口を尖らせます。

容姿も可愛い系で悪くないしスタイルも良い、頭も良い、女として見ないことはないのでしょうが、「きっと、彼女の周りを取り巻くものや人々が素敵すぎて、気後れしてしまうんでしょうね。」というのは、カウンターの向こうにいるシェフのナオミさんの見立てでした。

ナオミさんが、水中の生き物の可愛らしさや海底の美しさを語る時のうっとりした瞳は、まるで恋人のことをのろけるかのような潤み方をしているのです。そしてここの店のように、美味しいものを出してくれるお店には足繁く通い、そこのシェフと楽しそうに語り合うコミュニケーション能力がある。男性がどんなに頑張って素敵なレストランを予約しても、ナオミさんはそれ以上に美味しい食事を出してくれる男性(シェフ)をたくさん知っているのです。

「これは男性は、戦う前に戦うのをやめてしまいたくなるよね。」と、ナオミさんのことをよく知る元上司だと自己紹介をしたタカシさんが苦笑いをしながら言っています。

そうやって口々に分析を繰り返す男たちに、ナオミさんは「あなたたちみたいな既婚者には、永遠にわからないわよ、私の気持ち。」と冷たくあしらいました。

「苅野ちゃんはこうなったらダメよ」

そういうと、ナオミさんはケタケタと笑いながら赤ワインのおかわりを注文しています。そんなナオミさんを横目で見た苅野は、私はお水を、と言うとお化粧室にと席を立ちました。

見てられないな、と言う気持ちが、苅野の正直な気持ちでした。

苅野は気づいていたのです。ナオミさんには、ちゃんと、陸上に好きな人がいることを。


苅野がまだナオミさんの部署に配属されたばかりの頃、やたらとお金のかかった格好をしているナオミさんの意外な一面に出会うことがありました。

皇居の近くの公園近くを通り、ランチに向かう道端で、ふと一緒に歩いていたはずのナオミさんが視界から消えました。

あれ?と思って振り返ると、街路樹の下に蹲って何やらスマホで写真を撮ろうとしています。

「ナオミさん?」

苅野が近づいてみると、ナオミさんは道端の雑草が黄色い花をつけている様子を、嬉しそうに撮影していました。

「こう言う花、好きなの。うちに飾りたいなと思ったけど、これからまだ仕事あるからね。帰りに摘みに来ようかな。」と言いました。

雑草のような花に目を止めて、家に飾りたいと言うナオミさんの発言に、ブランドや高級ジュエリーを纏い、仕事をバリバリとこなす彼女のイメージと違う印象を受けて、苅野は少し戸惑いました。

「うちにね、こういう花がよく映える、一輪挿しがあるの。薔薇とか似合いそうってよく言われるんだけど、私はほんとは、こっちの方が好き。」

花屋の花を貰う経験は多くても、こういう花屋では売っていない花を摘んできてくれるって、心を奪われても仕方ないよね。

最後の方はおそらく苅野に向けられた言葉ではありませんでした。そう呟いた時のナオミさんの幼い顔がもっと幼く見えるようなはにかんだ表情をしていたので、苅野は見てはいけないもの、聞いてはいけないものだったような気がして慌てて目線を逸らしたのです。


「ごめんごめん。早く行かなきゃ、混み始めるね、お店。」

立ち上がったナオミさんは、いつもの、明るい様子でした。


苅野は化粧室から戻りながら、カウンターで談笑し合うナオミさんとそのツレと言われる男性たちを眺めました。

そこにふと、先ほどの席からは気付かない位置に、可愛らしい一輪挿しに控えめな小さな花がいけてあるのに気づきました。

それは、少しだけあの時の道端の花に似ています。

あれ、もしかして。

苅野はナオミさんの好きな人のことがわかったような気がして、一瞬ハッとすると、さりげなく目線を動かし、それぞれの左手薬指を確認しました。すると、全員、シンプルな年季の入った指輪をつけていたのです。

2020年8月20日 苅野はナオミさんが異性関係について本当に大切だからこそ、口を閉ざしていたのだろうと思う反面、人に言えない関係という可能性もあったなと考えを改めました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?