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8月10日のお話

森に迷い込んだ時、焦らずに五感を研ぎ澄ますこと。よっぽど、悪意に満ちた森でない限り、森は生命を奪ったりしないから。

研ぎ澄ました感覚が森の感覚と一致する瞬間、森は貴方の瞳に行くべき道を示してくれるわ。それを見逃さないで。深呼吸をすれば、貴方の体に必要な水分を含んだ甘い空気を肺に満たして元気付けてくれる。だから安心して。貴方が森の理に寄り添うことが出来たなら、森は貴方に力を与えてくれる。


木属性の魔法使いとして育ったククは、母親が毎日寝る前に、歌う様に聞かせてくれたその言葉が大好きでした。幼い頃から自然に囲まれた家で育ったこともあり、母の言葉を実践に移す機会はすぐに訪れます。一人で森に行ける様になる年頃になってからは毎日、森に寄り添うとはどういうことかを試す様に森へ入って遊びました。そうしていつの間にか、遊びの中から様々な木々や草花と心を通わせられる感覚を身に付け、森の感覚を人一倍感じ取り力を得る、木属性の大魔法使いになっていました。

彼女がたまに街に出る時は、いつも鮮やかな緑色のスカートを翻していたので、人々は彼女のことを敬意を表して「緑の魔法使い」と呼びました。

ある日、白いローブに身を纏った少女、カリノが、森の中で道に迷っていました。彼女は魔法使いの見習いで、まだ自分の属性を定めていませんでしたが、緑の魔法使いに憧れる気持ちが強く、いつか木属性に認められたいと思っていました。だから、森への用事があれば積極的に引き受け、森に慣れ親しめる様に足繁く森へ通う、そんな少女でした。

緑の魔法使いによると、森のことを好きでいるなら必ず森も自分の好意に応えてくれるはず。カリノはそう思っていましたので、一瞬、道に迷ってしまったかな?と思いが頭をよぎっても、そんな考えはすぐに打ち消しすように首を振ります。森がどんなに深く暗がりが多くなっても、恐怖を抱いてはいけない、森に寄り添うのだ、と、決して心を挫けさせない様に気をつけながら、気丈に歩き続けました。

しかし、そんなカリノの思いとは裏腹に、森の様子はどんどん知らない様相をみせ、いよいよ、きた道も定かではない様な状況になってしまいました。

「…迷った…どうしよう。」

少女とはいえ、カリノは泣きべそをかく様な年齢ではありません。しかし、信じ続けた自分の感覚もいよいよあてにならないと悟った瞬間、流石に気丈に振る舞える余裕が一気に吹き飛び、急に不安と恐怖に支配されて、慌てて駆け出す様に木々の中を走り出しました。

「どうしよう。どうしよう。」

森は怖くない、私は森のことが好き、好意を持っているから。だから、助けて。

カリノは心の中で何度もそう繰り返しました。

そんな少女の様子を、木の上からじっと見下ろしている存在がありました。それはフクロウの姿をした、森の賢者で、やれやれとため息をつくと、バサリと大きな羽を広げると、カリノが憧れる緑の魔法使いのところへと飛び立って行きました。

ククが緑の魔法使いとして人気を博した頃から、カリノの様な少女が森の中に気軽に入っては迷うという事件が、困ったことに急増していました。森の賢者はククに忠告します。「君がいとも簡単に森を理解できる様なことをいうからいけない。」と。

成功している者は、成功するまでの過程を仔細に語ることをしません。今、がまるで以前からあったかの様に振舞うのが常です。緑の魔法使いも、母親から聞かされた言葉の真意に辿り着くまでの苦労や努力を、誰かに語ることはありませんでした。幼い頃のことで覚えていないというのが主な理由ですが、今自分ができている事を、できない相手に解説するのはとても困難な事です。だから緑の魔法使いは、人々に尊敬される一方で、誰かにものを教えられる人物のことを人一倍尊敬していました。

ククがもう少し人に何かを教えることがうまければ、この様に、彼女の影響で森に入り、道に迷う人が続出することはないのです。

森の賢者の通報で駆けつけたククは、半分うんざりしながら、先ほどよりも深い森に踏み入れて今にも泣き出しそうになっているカリノの前に降り立ちました。

「そっちじゃないわ。」

突然の緑の魔法使いの登場に、少女カリノは安堵の涙を流しながらしゃがみ込みました。

「もう大丈夫。一緒に帰りましょう。」

ククが手を差し伸べると、カリノはポロポロと涙を流しながら「ありがとうございます。ありがとうございます。」と頭を下げ続けます。多忙な緑の魔法使いが、自分を助けに来てくれたとなれば、恐縮してしまうのは仕方がありません。そういう彼女の態度に、フゥッとため息をつくと、緑の魔法使いは優しくこう言いました。

「お礼はいいわ。一緒に帰りましょう。街まで連れて行ってあげるから。その代わり、私のお願いを聞いてくれないかしら。」


ククはカリノを立ち上がらせると、魔法で動ける様にした大きな木の枝に二人で腰掛けました。歩き疲れているであろうカリノへの配慮ですが、動く木に運ばれて、カリノは興奮してはしゃぎ出さんばかりに元気になりました。

その興奮が治るのをまって、ククはカリノに”お願い事”を話始めました。

「あなたには、森と仲良くなることの難しさを伝える人になって欲しいと思っているの。」

ククは母親からの言葉を引用しながら、丁寧に解説をつけていきます。

研ぎ澄ました感覚が森の感覚と一致する瞬間、森は貴方の瞳に行くべき道を示してくれるわ。それを見逃さないで。深呼吸をすれば、貴方の体に必要な水分を含んだ甘い空気を肺に満たして元気付けてくれる。だから安心して。貴方が森の理に寄り添うことが出来たなら、森は貴方に力を与えてくれる。

「大切なのは、森の理に寄り添うことが出来たならというところなの。」

理に寄り添うとは、好きになることとは違います。慣れることとも、信じることとも違います。まずは、森の理を知るための勉強が必要です。知った上で、理解し、受け入れる。これが第一歩。ククがそう解説すると、カリノは自分がただ闇雲に森を好きだと思い込んでいただけだったことを恥入りました。

「良いの、その感覚を、伝えて欲しいからそれで良いのよ。」

理は教科書に書いてある様なものでは十分ではなく、目の前に起こる出来事を紐解いていくものだからこそ、学ぶのには良い師とたくさんの失敗が必要。これは、森に限らず、そうだと思うから、わかるわよね。と続けるククの瞳は、遠い昔に母親から教えられた日々の思い出をなぞる様に見ていました。

「母はこんなことも言っていたわ。理に寄り添うのは、人間同士の恋にも似たところがあると。この例えは、あなたには少し早いかもしれないけど。」

一方的に好きなだけでは成就しない恋。相手のことを知り、相手の求めることを相手以上に理解してそれを共に願うことで、初めて相手を愛せている状態になる。そこから両思いになるためには、奇跡に近いタイミングと相手の気持ちも必要。教科書通りに練習をしたらできるなんていうものではないのが恋愛だと考えると、理に寄り添うのも同じ様な状態だと思ってくれて間違いじゃない。そう説明したあとに、ククはこう付け加えます。

「まぁ、森の方が、容姿やスタイルで好き嫌いを判断したりしない分、恋愛よりも容易いんだけど。」

森に迷い込んだ時、焦らずに五感を研ぎ澄ますこと。よっぽど、悪意に満ちた森でない限り、森は生命を奪ったりしないから。これは嘘ではないけれど、五感を研ぎ澄ますときに、邪魔になるのが、盲目的で一方的な「信じる気持ち」だと彼女は指摘します。カリノの場合は、大丈夫だと信じた瞬間から、間違っていたのです。


街までの道中、ククはカリノに伝えられることを精一杯伝えました。

そうして彼女が自分の家を目指して駆け出すのを見送ると、空からついてきていた森の賢者・フクロウに語りかけます。

「今ので、どう?伝わったかしら。」

「どうだろうなぁ。最近の人間は、理に寄り添う様な恋愛すら、出来なくなっているとも聞くから。」


1990年8月10日 高度成長期を経験した人間たちが、愛する方法を忘れかけていることがにわかに心配される時代。

彼らが、人の心への寄り添い方と共に、森や海、大地、地球の理への寄り添い方も手放してしまっていたことに気づくのは、それから30年もの時間を浪費したあとのことです。


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