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7月21日のお話

今年も夏がやってきました。

夏と言えば、海でも山でも、太陽の降り注ぐ開放的な光の中で、否応なしに交錯する恋心、青春。若者たちがこぞってひと夏の恋を求めて動き始める季節です。

そんな2002年7月21日。

宝塚市のはずれにある、緑の魔女の店「Cafe-KuKu」は、日が暮れかけたこの時間になると近所にある芸大の学生でいっぱいになります。

この店Cafe-KuKu(カフェ・クク)は閑静な住宅街の真ん中にありながら、その店の一角だけ、植物に覆われている不思議な場所に建っています。女主人の趣味であるハーブ・薬草栽培が高じて庭の植物が年々増えたことが、場所を不思議にしている由縁ですが、その植物の発育の良さと美しさも、専門家さえうなるような立派さで、不思議さを助長していました。「なぜ住宅に囲まれたこの街で…?」と、訪れる人は首をかしげますが、オアシスのような居心地の良さと、そこで販売されている薬草の類が宝塚マダムたちの人気を博し、オープンから一年とたたずに一気に人気店となったのです。

そんなこの店も、マダムたちが自宅に引き上げると、おしゃれカフェ好きな学生で賑わいます。

「学生証を見せた子には特製ハーブ酒も出すわよ。」っと、自家製酒までふるまってくれるので、飲み屋や歓楽街から離れているこの街の学生の間では、ちょっとしたバーのような存在にもなっていました。

そういう雰囲気からでしょうか、いつの間にか学生たちからは「ママ」と呼ばれるようになった女主人は、「こんな大きな子供うむ年じゃないわよ」と言いながらも満更ではない様子です。

昨日の梅雨明け宣言で、季節も「夏」ですが、学生たちが今日から夏季休暇に入ったということで、店内も解放感に溢れた学生の賑やかな笑顔で、開店はじめての夏を迎えていました。

そんななか、店の片隅でひとり、広げたノートに覆いかぶさるように頭を抱えている女学生がいました。手元にあるのがアイスコーヒーのところをみると、まだ未成年。初々しさはないので二回生あたりでしょう。空が暗くなった頃すぐに来店していたと思うので、もうかれこれ3時間ほども一人で何やら難しい顔をしています。

22時が近づいてくると、ぽつりぽつりと学生たちも帰りだします。帰っているのか、別の深夜までやっている店に移動しているのか、それは定かではありません。この店が、きっかり22時30分に閉店するのを知っているからでしょう。話し足りない子たちは別のところへ、そうでない子たちは話が途切れたきっかけで出ていきます。

「ミナツー、あんまり根つめたらあかんよ。」

同じ学年の子達でしょうか。別のテーブルで盛り上がっていた数人のうちひとりが、店の片隅に残る女学生に、大きな声で呼びかけて「お先にー」と店を出てしまうと、いよいよ彼女は店内に一人になってしまいました。しかし、当の本人はそんなこと全く気に留めない様子で、声をかけてくれた子に「おつかれ!」と返事をすると、再びノートに向き合いました。

しかし、彼女の手元のノートは、数時間前と同じ状態、つまり白紙のままです。店の女主人が近づいていくと、いくつか、書いては消しした痕跡はみとめられましたので、全く時が止まっているというわけではなさそうです。

「ずいぶん難しそうな顔をしているのね。」

女主人に話しかけられて、彼女ははっと顔をあげました。

「すみません。閉店ですよね、もう。」

何も描かれていないノートを隠すように、パタンと閉じると、彼女は見た目だけ急いで片付けるフリをしました。こんなに長時間居座ったということは、「今日、カフェでやりきろう」と思っていた何かがあったのでしょう。

「一体何にそんなに悩んでいるのかわからないけど。」そういいながら、女主人は一度カウンターに戻ると、透明なポットに黄色い乾燥した花をパラパラいれてお湯を注ぎ、女学生の前に持ってきました。

「サービスよ。カモミール。気持ちがほどける効果があるから。」

それに、女子がアイスコーヒーを何杯もおかわりするなんて。体を冷やしていいことなんて何もないのよ。そう、母親のように独り言をいい、再びカウンターの方に歩いていきました。

「…。ありがとうございます。」

「どういたしまして。えっと、みなつ?さん?」

先ほどの同級生たちとの会話を聞いていたのでしょう。女主人は彼女の呼び方を確認するように口に出しました。

「あ、はい。かいづか、皆に塚で皆塚です。よく”みなつか”と間違えられてまして、それが、あだなです。」

そう答える皆塚に、女主人は「そう。皆塚さんね。」と反芻して、ポット、熱いから気をつけてねと注意を添えました。

はい、とうなずくと、皆塚はポットの中の液体が黄金色に染まるのを少しだけ待ってから、ゆっくりとカップにそれを注ぐと、ふんわりと立ち上る爽やかな香りに「ふっ」と顔の強張りが抜けていくのを感じました。口元で少しさましながら、ひとくち、ふたくちと口に含むと、その温かさを体が待ち望んていたかのように、身体中の血液が喜び回るような気がします。私、疲れてたんや…。熱い液体が喉を通り胃に染み渡るのを感じると、彼女はそこではじめて、今日は何も食べていないということに気がつきました。

「美味しいです。でも、お腹空いてたんを思い出しました。」

カウンターで何かをしながら、こちらを向いている女主人に、皆塚はお礼を言います。お腹が空いたという事実を伝えた時は、思わず自分自身がおかしくなり笑みがこぼれました。

「そりゃ、お腹もすくでしょうよ。クッキーならあるけど、食べるかしら。」

女主人の提案を魅力的に感じた彼女は、テーブルの上のメニュー表をみて、それがいくらなのかを探しました。しかし、クッキーというメニューはありません。これまでも、見た記憶もありませんでした。

「メニューじゃないのよ。だから、お金はとらないわよ。」

そう言いながら、女主人は彼女の行動が「ほしい」という意思表示だと理解したのでしょう。カウンターの裏の戸棚をあけて、掌サイズの透明な瓶に入ったクッキーを取り出すっと、数枚を小さな小皿にならべました。

そうして、「どうぞ。」と差し出されたクッキーたちを見たとき、皆塚は、一瞬その皿の上を二度見して、思わず、ふふっと声をだして笑いました。

「なんですか、これ。」

思わず女主人に笑いながら聞きます。

皿の上には、四角い手作り感のあるクッキーが盛られています。問題は、その四角の中に描かれた「顔」です。それが一様ではなく、丸い目と鼻の、可愛らしい表情もあれば、棒で引いたような目の、無気力系の表情もあります。皆塚は、特にその無気力系の表情のクッキーがツボで、そんなクッキーがこの世に存在していること自体が面白く思えてきたのです。じわじわと笑いがこみ上げてきて、仕舞いには、ぷっと吹き出してしまいました。


ひとしきり笑った後、クッキーを食べてみたら、また美味しい。そして懐かしいような味が口の中いっぱいに広がります。これは、昔、実家にいるときに母親と作った、型抜きクッキーの味です。

「美味しい。手作りですか?」

そう聞く皆塚に、女主人はうなづくと「自分用のお菓子よ。米粉なの」と付け加えました。

「誰にも見せない、自分だけのためのお菓子でも、こうして遊ぶのって大事よ。」

女主人は、カウンターに座り、頬杖をつきながら皆塚に話しかけています。誰かを楽しませたい、誰かに楽しんでもらい、そういうことをこれから長い生涯考えていく可能性のある芸大生なら、尚更よ。

「尚更、日々の生活の中で、自分自身を笑わせる仕掛けを忍ばせなくちゃ。」

そこまで聞いて、皆塚はようやく、女主人が自分を心配してアドバイスをしてくれているのだと気づきました。そして、そういえば今この瞬間は、夕方から何時間も悩んでいた企画が生まれないモヤモヤを忘れている自分にも気がついたのです。

「自分自身を笑わせる仕掛け…。」

確かに笑うと、なんだかちょっと良いアイディアに近づける様な希望がわいてきます。今なら、何か思いつきそう。皆塚はそう思って、鞄の中に仕舞ったノートを再び取り出し開こうとしました。そのとき、机に、パサリっと音を立てて、紙飛行機が落ちてきました。

「え?」

もちろん、紙飛行機を飛ばしたのはカウンターの向こうの女主人です。その証拠に、先ほどまで座っていたはずの彼女は、まるで助走をつける必要があったかのように立った姿勢で、腕を大きく振りかぶったような名残がみてとれました。

「クッキーの作り方よ。芸大生たるもの、自分を楽しませるものがなければ、作り出すくらいの気概を持ちなさい。」

あっけにとられている皆塚にそういうと、女主人は、さてと、と伸びをして店の前の看板の電気を消しに向かいました。

「閉店。」

短くそう言って、ノートの続きは、家に帰ってからやりなさいね、と言われている様な微笑みに、皆塚は慌てて、今度こそ本当に机の上を片付け始めました。

緑の魔女の店「Cafe-KuKu」は、緑の魔法で、人生をちょっとだけ後押ししてくれる場所なのかもしれません。




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