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7月25日のお話

2007年7月25日

天神祭で賑わうこの日、美樹が勤める会社の入っている大阪ビジネスパークは大阪城の隣、弁天島にあるという立地柄、夕方になると社員は仕事を放棄して最寄りのコンビニへ買い出しに走ります。花火が見えるスポット(川沿いの窓側)に缶ビールと乾き物のおつまみを出して、涼しい室内で花火を見てやろうというのです。

企画しているのが管理職のおじさんたちだからでしょう、音もかすかで風情も何もありません。彼らはオフィスで飲みたいだけで、あわよくば部署の女の子にちょっかいをかけようという魂胆も見え見えです。若手は若手でそんなものには加わらず、それぞれ仲間ごとに穴場スポットを探しては、会社の可愛い女の子に声をかける口実として社内のメールでお誘い合戦が始まります。

そういう中で、オフィス用の缶ビール・おつまみの買い出しに向かっている美樹ですが、若手組に誘われなかったわけではありません。21歳独身、派遣社員という立場の美樹は、今日までに10通以上のお誘いメールをもらっていました。しかし、美樹はそれら全てにお断りをしていました。別にオフィスでおじさんたちに媚を売ろうと思っているわけではありません。単純に誰かと天神祭に行くことは、避けたかったのです。

そういう意味で、おじさんイベントの方に行かなければいけないので。という状況は、断り文句として大変好都合でした。美樹が配属されている、経理の部長は気難しいことで有名です。部長から命令みたいな誘われ方をしてしまって、、、と言えば、みんな、ご愁傷様という顔をして引き下がってくれます。

まぁ、部長のこと、そんなに嫌いじゃないし。せっかくだから、次の更新で時給アップしてもらえるように媚でも売ろうかと考えながら、美樹はふらりとオフィスを出て、徒歩3分のコンビニへ歩いて向かいました。外は蒸し暑くクーラーとの温度差で一気に体に汗が滲みます。こんな中で、外で花火を見るとか、よっぽどじゃないと無理ね。と改めて思ったときに、後ろから声をかけられました。

「苅野さん」

美樹の名前を呼んだのは、同じ経理部の、確か3つ上の男性社員です。美樹と違い、彼は経理部長のことが大の苦手でした。今日も確か、部長から逃げるように人事部の人たちのグループに混ざって出かける予定だったのですが。

「小川さん。あれ、行かへんのですか。」

この時間にここにいると、外の観覧スポットまで間に合いません。美樹の問いに、小川さんは「いやぁ。それが。」というと、片側だけ口角を上げて笑うと「四方ちゃんがさ、彼氏できたんだって。」と自嘲気味にいいました。

小川さんは、美樹と一緒に入社した同じ派遣スタッフの四方友理子のことを、配属当初から一目惚れで狙っていました。確か入社3日目で、美樹に声をかけてきて、四方ちゃんと仲良くなりたいから協力して欲しいと申し出てきたのが小川さんです。

社会人経験がまだ豊富でない美樹は「会社って、本当にこういうことがあるんだ」と半分面白がって、その協力を引き受けました。そして、四方ちゃんが人事部の花火観覧に加わることを聞き出し、小川さんに伝えたのですが。どうやら、その人事部の誰かと、すでに付き合っていたということでしょうか。まあ、ちょっと考えればわかりそうなものだけど。と、あえてそういう「推測」を話さずに小川さんに事実だけ伝え、あとは自分で判断するだろうと思っていたのが美樹でした。社会人経験は少ないですが、恋愛経験はすでに豊富です。

16歳の頃に付き合い出してから、彼氏が途切れたことがないというのが、つい最近までの美樹のちょっとした自慢でもありました。つい最近まで、といっても、前の彼氏と別れてから、すでに4ヶ月が過ぎようとしています。夏はデートやイベントが楽しい季節ではありますが、どうにも、彼氏が欲しいと思えない状況が、美樹には続いていました。

前の彼氏のことが、忘れられないのです。

そうなってしまったのは、別れた後も、彼からの連絡はこれまでのように普通に来ること、拒もうとしても情に絆されて拒みきれないことが直接の原因ですが、別れを決めた出来事となった、三股をしていた、ということの中で、美樹以外の二人とも4ヶ月前に別れたという状況がずっと心を前に進めなくしていました。

美樹が別れたいというなら、別れるよ。それで、他の二人とも別れる。

そう、カッコつけて言った元彼の言葉に、「それは、格好つけていうこと?」と冷ややかに思うほど、美樹は彼に対して冷めていたのですが、本当に別れて、どうやら一人になったようだということを共通の友人から聞いてから、どうしても、心の中がざわつくのです。

もしかしたら、私のことが一番好きだった、ということかも。そんな自尊心をくすぐる状況に酔いしれているだけなのは理解しているのですが、その事実を確かめたいような、それが事実ならもう1度やり直せるような、そんな考えを頭から締め出すことができずにいました。

「小川さん、諦めるんですか?」

コンビニで缶ビールを購入するのを手伝ってくれている小川さんに、美樹は単刀直入に聞きました。相手に彼氏がいるからということで、引き下がれる恋だったのですか?なんて、ドラマのような台詞を続けようとしましたが、そこでふと、「相手に彼女がいるからって、引き下がれるような恋だったのか?」と、元彼との恋愛に疑問を感じた自分に気づき、はっと息を飲みました。

「うーん。そうだなぁ。諦めたくないけど、付き合いたてのカップルに横槍入れるのも、分が悪そうだしさ。」

その程度か、と思った反面、それが良識ある人の考え方かもねと感じた部分もありました。転勤で大阪配属になった小川さんは、関西弁は喋れません。そういうところも、もしかしたら四方ちゃんにとっては魅力が少なかったのかもしれません。彼女は生粋の大阪っこで、大阪をこよなく愛していたからです。

東京の人とは、付き合わんかもしれへんな。となんとなく思っていたこともあり、ここで引き下がってくれて良かったと良心が安心しました。

「あ、俺、ビール持って行ったら帰るから。飲み会は参加しないからよろしく。」

荷物を半分持ってくれた小川さんは、オフィスに戻る道すがらにそう宣言しました。オフィスに戻るんだし、ちょっとくらい顔を出せば良いのに。部長に嫌われるのは、小川さんのこういうところだな、と分析をしながら、「でも持ってくれただけ感謝」と思い至り、参加しないのに一緒に運んでくれていることへの感謝の気持ちを伝えて返答としました。

いい人、ではある。いや、元彼もこういうところは手伝ってくれたし、こういうことだけで人の良し悪しを判断してはいけない。自分に優しくても、その反面で平気で他人を傷つけている人はたくさんいるのだから。(今回のことで、部長は別に傷付かないだろうけど。彼の評価は傷つく。)

それにしても。と、エレベーターで黙ったタイミングで、再び美樹は、先ほどの思考に戻ります。美樹は、「相手に彼女がいるから、引き下がったんやっけ、私。」と、先ほど疑問を感じた問いを、改めて自分に問い直してみました。

そう自問してみると、答えは「否」です。美樹が彼と別れを決意したのは、他の女性がいたからではありません。他の女性がいることを隠し、嘘をつき、自分を騙した人だったからです。他の女性の相手もしている、と知れば、理解ができることも、その状況を知らないと理解できないことというのが、意外とたくさんあります。

普通なら、電話ができるであろう時間に、電話ができないことが多い。

普通なら遊びに行けるイベントの日に、必ず仕事が入っている。(天神祭もそうでした)

普通なら、なんて事ない約束を守れなかったりする。

わかってしまうと、そりゃあできないよねと納得できるものばかりですが、その前提条件を知らない時は「なぜできないの?」「なぜそんなに忙しいの?」と、ぶつけられない疑問を抱えて悶々としていたものです。

事実を知らなければ、理解できないことも多い。壮大な嘘をつかれたことによって、美樹は「嘘」や「偽り」による不具合がどういうものかを、齢21にして知ってしまったのでした。

「小川さん、四方ちゃんについての私の考察、聞いてみたいですか?」

考えながら、エレベーターを降りたときにふと、そんな言葉が美樹の口をついて出てきました。

「え、なに。考察?」

「はい。私、四方ちゃんの情報、一部しか伝えてないんです。不確かな情報を与えて小川さんが判断を誤ることを避けたくて。」

まじで。うーん。それで?と廊下で立ち止まると、すこし歩調を緩めて小川さんは聞きました。

「でも、情報が隠されていたり、伝えられてへんものがあっても、正しい判断はできひんなと気付いたのです」

今日、私、この後の飲み会、乾杯終わったら抜けますので、大阪港あたりで待ち合わせしませんか。と、美樹は合わせて提案しました。大阪港は花火大会とは反対側のエリアです。天神祭を楽しむつもりはない、という美樹の意思も伝えつつ、美樹は小川さんのリアクションを待ちました。

天神祭には、十代の頃に付き合った彼と、2度デートした思い出があります。その彼とのお付き合いが、後にも先にも、一番素敵な付き合いが出来ていたと今でも思うので、その思い出を汚したくないというこだわりがあるのです。

オフィスに戻ると、ビールを待ちわびたおじさんたちに一斉に囲まれました。始まるよ、と促されて近づいた窓辺からは、今から3年前に浴衣を着て歩いていた私と当時の彼の歩いた河川敷が見下ろせます。2度目の天神祭のすぐ後、美樹から彼にお別れを告げたのですが、その後に付き合った元彼にこんな仕打ちをされたのは、もしかしたらあの彼を蔑ろにした罰なのかも知れません。

小川さんからは、ぜひ聞かせてください。とメッセージが来ていました。

その罪滅ぼしというわけではありませんが、誰かの恋愛は、最大限応援しよう。「私のはしばらくいいから、その代わり。」そう思った、美樹に、十数分後、大阪港に到着した小川さんから写真が送られてきました。

「夕焼けすげー綺麗。四方ちゃんとみたい!」というコメント付きです。

東の暗くなった空を目掛けて打ち上がる花火と、西の暁に染まる夕焼けを見ている彼。一緒に行けなかった花火に背を向けても、やっぱり四方ちゃんとの思い出を紡ぐことを考える小川さんに、もしかしたら本当の愛とかかも。などと三度ドラマのようなことを考えながら、私も次は、そういう人を捕まえよう。と美樹は改めて思うのでした。

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