見出し画像

学びのたね

「よしえ食堂ができるまで」ということで、このnoteで私の人生を振り返っています。おかげでいろいろなことを思い出しています。同居していた母方の祖母と一緒に土間や台所で学んできたことをお話しましたが、今にして思えば、学びはいたるところにあったなぁと思い返しています。

愛読書
小学生の時も、中学時代も高校時代も私の愛読書は母が購読していた『暮らしの手帖』と『家庭画報』、そして『栄養と料理』でした。母が高校で家庭科を教える中で参考にしていたのだと思いますが、町に唯一あった本屋さんから定期的に自宅に届けられていました。

画像1

『暮らしの手帖』
表紙も華やかではなく文字が多くて、子どもながらにおもしろいという本ではありませんでした。それでも、それが届く隔月を楽しみにしていました。丁寧な料理の特集は、自分で作ることはなくても、その手順を思い浮かべながら、味を想像したり、ごく稀に、作ってみたりもしました。正統派な器への盛りつけなども、「あぁ、料理ってこうあるべきなんだ。」と思っていました。家電製品の特集や手芸など記事も、「エプロンメモ」も、「すてきなあなたに」も大好きでした。祖母も母も、私も3人で変わるがわりに目を通していたものです。母は、11年前に随筆を執筆する機会をいただきました。長年あこがれていた雑誌への寄稿をとても喜んでいました。今回、思い出して引っぱりだしてきました。当時も読んだと思うのですが、今回は格別で胸がいっぱいになりました。

「百点満点の煮豆」
母の随筆は「百点満点の煮豆」と題して書かれ、祖母への思いがつづられていました。祖母が炊くお多福豆、母が炊くようになったお多福豆、そこには特有の機微があったように思っていましたが、1月に急逝した母の文章は、まるで私に語りかけているようでした。11月末に発刊されている奇遇にも。
母は祖母が亡くなるまでお多福豆を炊いたことがありませんでした。祖母亡き後、そら豆を植えては収穫して乾燥させて、毎年毎年せっせせっせと炊くようになりました。実は私も同様で、母が亡くなってから初めて、そら豆を炊いてお多福豆にしました。わが家系にとって煮豆には特別な思いがあるようです。いつか煮豆の話も聞いてくださいね。そうそう、年末には、恒例のおせち用にたくさんお多福豆を炊かなくては…。母はたくさん炊いてはふるまうのが大好きでしたが。

画像2

『家庭画報』
この雑誌も本当に大好きでした。大きな雑誌で、写真はきれい、華やかでラグジュアリーな女性誌として誰もが知るところです。小学生の私にはおませな雑誌だったに違いありませんが。私は、自分の生まれ育っている町が田舎であることを、この雑誌を眺めることで知ったように思います。料理の特集は、限りないあこがれでした。特に、お正月のおせち料理の特集などは、今でも私のなかのどこかに息づいています。田舎にいて、洋食も、フレンチもイタリアンも、懐石も何にも知らなかった私は、ここで空想の世界を広げていきました。フルコースの料理や、カトラリーの並ぶテーブル、ワイングラスのある食卓、美しい日本料理の世界も、いつか実際に覗いてみたいと思うようになるのです。
そんな思いが、ここ十数年のテーマである「食を伝えたい」「食でしあわせに」に繋がっていったのだと思います。
その後光栄なことに、母はお正月料理や郷土料理の特集で、私はお雑煮の特集で『家庭画報』には登場させていただきました。

「家族の転機」
ある時、『家庭画報』の特集で、私がまだ小学生だったとき、「農家の改造」という特集を目にしました。今でもそのページが目に入った時の衝撃を覚えています。「すごいっ!!田舎の農家の暗い土間や台所が、こんな斬新でモダンなリビングやキッチンになるなんて」。興奮して隅から隅まで読みました。そこには埼玉県入間市「独楽蔵」(埼玉県入間市)とありました。その『独楽蔵』という名前が印象に残ったのです。そこには築80年の農家を改造した様子が掲載されていました。ちょうどうちの実家が当時同じくらい築年数で、昔ながらの商家は不便だと思ってところだったので、「こんなうちに住んでみたい。」そう思ったのです。何しろ、子どものころからの愛読書が『家庭画報』ですからね、妄想はふくらみます(笑)
実は、その妄想が現実になり「民家の蘇生 宇佐長洲新町の家」ので。
私が子どものころ目にした記事がきっかけとなり、10年近く経って世界文化社を通じてご縁がつながり、その独楽蔵星野厚雄氏に改築をお願いすることになるのです。(この話も長くなりますので、いずれ)
その後、実家の改築が『家庭画報』に掲載されるのです。『家庭画報』が取り持ったご縁でしたから。田舎の漁師町、通りに面したかつて商家だった実家は暗くて不便だったのが、斬新でモダンに生まれ変わり、高校の国語の教科書に登場していた『陰影礼讃』をテーマにお願いした通り、ほの暗いながらもいい味わいのうちになりました。オープンキッチンも、外流しも、それまでもライフスタイルを変えることなく、新しく効率よく仕上がったのです。
ちなみに、それから30数年経ちますが、今も変わらず使い勝手のいい、居心地のいい実家です。
そして何より、この改築がきっかけとなって、家族でどう生きていきたいのか、どんな家族像があるのか、家庭生活を送っているのか、そんなことを洗いなおして、家族の人生をも組み立てていったのです。
それてまたご縁がつながってと、今私が活動をしている台所だけの建物「生活工房とうがらし」も独楽蔵星野厚雄氏が設計をすることになるのです。母と父の思いを実現させ1997年に完成しました。

一期一会というか、出会いというか、ご縁とは本当に不思議です。
雑誌を購読するという小さな学びから、人生を培いながら、そこに何かを組み立てていくという、当然と言えば当然の、不思議といえば不思議な人生の流れを生みだしていくのですね。
実家に帰って、その場所に立つたびに、それまでの人生の流れを思い出します。職場でもある生活工房とうがらしで、樹木が大きく育ち、台所だけの建物で、料理を作るたびに、その流れに思いを馳せるのです。「住まいはその人の生き方を表す」そんな星野厚雄氏の思いがいつもそこにあります。学びのたねは、至るところにあるのだと思い返しているところです。

そうそう、料理の本については、また次回お話したいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?