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母のこと

「よしえ食堂ができるまで」ということで、毎週月曜日に、このnoteで私の人生を振り返っています。誰もがそうであるように、母親の影響を大きく受けて育ちました。教わった料理もたくさんあります。そんなことを振り返ってみようと思います。

母というひと
母佐佑子は、今年1月に78歳で急逝しました。今となっては、あれも聞いておけばよかった、これも聞いておけばよかったと、日々の生活の中でたびたび思うことがあります。それでもすぐそばにいるようにも感じて、母に問いかけることも増えました。
亡くなる日の朝、いつもと変わらず元気に、なじみも美容院に出かけた母でしたが、昼前には自宅近くで倒れていて、あまりにあっけなく旅立ってしまいました。後悔先に立たずとはいうものの、人の死は突然やってきます。

かわいがられた幼少期

母は、3人姉妹の長女として生まれました。永らく子どもを授からなかった長男長女の祖父祖母。大きな商売をやっていた曾祖父曾祖母にとって、母の誕生は待ちわびたこの上なく喜ばしいことだったと聞きます。幼いころの写真の数々をみれば容易に想像ができました。
当時はまだ、後継ぎが生まれなければ離縁も致し方ないという時代だったのでしょう最近になって、亡き母の除籍のために戸籍を取り、よくよく目にして驚いたのですが、母の誕生を機に祖母もやっと入籍させてもらえたことを知りました。祖母たちの心情は計り知れませんが、母の誕生は待ちに待ったものだったのだろうと。
手広く商売をやっていた曾祖父はよちよち歩きの母の手を片時も離さないくらい「右手にそろばん、左手に佐佑子。」といわれるくらいかわいがっていたそうです。

そんな母は期待に応えるように、幼少期も明るくて活発、学級委員をするようなしっかりしたタイプだったようです。時代の流れで、祖父は戦争にとられ、祖母の実家のある大分県宇佐市に疎開し暮らしていました。祖父は大学で東洋哲学課インド哲学専攻という、本ばかり読むようなタイプだったと聞かされていましたが、商売家に向いていないのは、誰が見ても歴然で、曾祖父からもよく𠮟られていたとか。そんな祖父ですから、戦争にも向くタイプではなく帰ってきたものの、心を痛めていて元気がなくしていたそうです。そして、まもなく敗血症になり急逝します。いろいろな話を聞かせてくれた祖母でしたが、祖父の当時の話を聞くことはほとんどありませんでした。祖母にとっては触れられたくない思い出のようで、私も子どもながらにも聞くことはありませんでした。そこから祖母の苦労がはじまります。

祖父を亡くして

祖父が亡くなった時は、母は中学生、妹のおばたちが小学校低学年と幼稚園でした。
母の人生が一変するような出来事になりました。未亡人になった祖母は女手一つで3人の娘を育てることになり、朝から晩まで働くことになりました。母は、努力家でまじめでもあったので、学業も優秀、模範的な中学生となり祖母を支えます。希望する大学への進学や、おぼろげながらもっていた自分の夢をもあきらめて、家政学部に進学し、高校の家庭科の教員になります。それは少しでも早く祖母の力になりたいと思った結果でした。母は、妹たちの進学の面倒もみました。昔はよくあった話でしょうが、その苦労を思うと頭が下がります。

人気者

娘の私いうのも気が引けますが、母はとても美人でした。おしゃれさんでもありました。赴任した新設校では、女子高生の人気者、あこがれの先生になります。そんな話をよく物語っているのが、その女子高生が卒業して50年以上にわたって母を囲む同窓会は続いていたことがあげられます。自分たちとあまり年齢の変わらない母を、姉のように慕っては、当時教わった料理を作ってきたり、郷土料理を先生に食べてもらいたいからと届けにきたり、新しく作ってみたお漬物の味をみてもらいたいと、毎年恒例で集まるのでした。
母の告別式の日も、朝から「先生がこれ好きだったでしょう!」、お弁当を携えてやってきて、亡きがらとなった母を囲んで「最期の晩餐よ!」なんて言いながら食べていました。50年以上も慕える師がいることが本当にうらやましいと思います。母の財産は、そういう教え子さんたちだったと思います。

(母が嫁ぐ日の朝)

母の原点

新設校で家庭科の教員になった母の原点は「高校の教科書で教える料理は、全国共通でいいのだろうか?」というものでした。「地域には地域の産物があり、そこここにそれぞれの調理法があり、食文化が根付いているもので、それを伝えていかなくていいんだろうか?」という疑問からはじまります。
そんなことを教員になりたてのときに、ベテランの先輩教師に投げかけて、厳しく叱責された話はよく聞かされました。「まずは、自分の目のまえにあることをしっかりと勉強してから一人前のことを言いなさい。」当然ですが、そこから母の努力ははじまりました。

母は、本当によく勉強し、よく学ぶ人でした。
今でも覚えているのは、例えば、家庭科実習でシュークリームを作る日は毎日毎日シュー皮を焼いてみます。当時はいろいろなレシピの本から数字をあつめてきて実験は続きました。プディングのときは、蒸し器で作ったプディングに、オーブンで作ったプディング、数日それが続きます。パンを教えるとなれば、明け方からパン屋に通い、パンの作り方を習ってきます。実際に体を動かして、実践して、繰り返す、一貫していました。そんなあくなき探求の姿勢は、果てしなく晩年になっても続きます。

築80年くらいの実家の改築を機に、土曜の午後は、近隣の家庭科の先生をあつめて、お花、お茶、着付け教室、ハーブの勉強会、料理の勉強会を行うようになり、たくさんの先生方が、入れ代わり立ち代わりうちにやってきては学んでしました。多くの先生方は忙しく時間を作ってわざわざ習い事に出かける時間がない中、わが家にその道のプロを呼んで、場所を提供して、共に学んでいました。何が母をそこまで突き動かしていたのかはわかりません。それでもその努力をやめることはしませんでした。

それでも飽きたらなかったのか、日常の食を研究するために、とうとう台所だけの建物生活工房とうがらしを建てるに至るのです。
母の話は尽きません。次回は工房での活動などもお話しますね。

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