瀬川兄弟の考察、コクトー的な共依存について①
はじめてかれらをみたとき、何というか、極限まで吸った煙草の先の火の、ゆらめきの、その消えかかる一瞬間を引き伸ばしたみたいな奴らだと思った
というのは、ちょっと、個人的な想像力が働きすぎていて興醒めされるかもしれないが、みょうにふしぎな目、4つの目、一切のバイタリティというのを欠きながら辛うじて消失せずにこの世に残り続けてるような、目
ほんとう、きれいだとおもった
顔とか身体でなく、おそらく目つきというのから発せられる、存在じたいが。取り立てて強靭な存在感などでなく、むしろ振り向いたら消えていそうなくらいなのに、その存在というのは、角張って尖った、ひどく乾いた輪郭を持っている
そこに閉じ込められた空気は遊び疲れた子供部屋のしずけさに近く、権力的なものから最も遠い。なのに、怒りがある。だけどそれは年齢的なものからきていて、あと数年もすれば跡形もなく消え去ってしまうという予感を同時にたたえている
そうしたアンビバレンスそのものは平成生まれの若者に見られがちできわめて凡庸だが、その平板さに足されるのか引かれるのかわからない形容し得ない何かが、かれらのムードを作っている。それを僕が言葉にすることはできない
どうやらそのもどかしさそのものが、僕の目には神聖さとして形式化されているらしい
男のひとに、しかもふたり併せてこういう美的感覚を起こしたのは初めてのことだった。この人たちにさわりたいし、そこからかんじて、何かを作りたいし、服を着てほしい。なにより、この人たちなら自分を理解してくれるに違いない。そう思った
あるいは、そう思いたかっただけのかもしれない
* *
たしかその日、僕は夏だった
八月の午後、表参道で展示をやっていて、受付をしてもらっていたまおから、
“まったく顔の同じ男性が2人きて藍染のワンピースを買いたいと言っています”
というようなLINEがきた
そのとき僕は例に漏れず混乱していて、自分から展示会をひらいたというのにひとに見られるストレスに負けて、にげて、酒ばかり飲んで、いろんな人にいろんなことを任せきりにしていた。それでその日は行けなかった
まお曰く、どうやら双子らしかった
「ふたりで一緒に試着室に入ってほとんどの服を試着して、この生地は何だとか神山さんはどんな人なのかとか、ずっと、聞いてきます」
そんな人がいるなんて思いもしなくて、怖かったけど、僕はずっとどきどきしていた
次の日、会場へ行き、ふたりに会った
それで目をみて、すぐに吸いこまれた
出られなくなった
いろんな話をした
ドランやカラックス、GEZANやテニスコーツ、あと、ka na taのこと
それからはあまり覚えていないけれど最終日の3日目に服を取りに来てくれたとき、僕は血まみれで泣いていた。尋常ではない他人に迷惑をかける種類の泣き方をしてしまっていた。空になった秩父の酒の一升瓶を咥えつづけて。何でそうなったのかすべて覚えてるけど書かない
ありがとう、といって、でたらめなことを言って、何かから千切った紙切れにでたらめなことを書いて渡し、服を渡して、お金をもらって、別れた。雨が降っていた
それから季節が変わって11月になる
兄の蒼くんに連絡をとり、撮影しに九十九里浜に行くことにした
〈弟の創也くんも連れてきて欲しい、2人を撮りたいんです。撮影のイメージは個人ではなくて集団から発生するエネルギーという感じで、 i というテーマなんですが、固有名詞の向こう側というか、個を超えた全体としての一人称の認識なんですね。色素の薄い海辺で、皮膚と夕暮れの光と水とがすべて繋がっているような写真を撮りたくて…もしよかったらka na ta の下駄を履いてきて欲しい、あれ好きなんだよ俺〉
東京に帰ると夜だった
僕らは阿佐ヶ谷の居酒屋にいた
そのときいろんなひとがいて、今はいろいろあって疎遠になってしまった楓くんという友達もいた。双子は2人で窓際に座っていた
ぼくは、
「ふたりは、共依存ですね」
そう言うと、
「そうかもしれないですね」
蒼くんが言った、照れているのか誇っているのかわからない顔の動きを、僕は今でも鮮明に覚えている。その折の表情をみて、僕は自分のうちから激しい嫉妬のようなものが湧き立つのをかんじていたから。創也くんは隣でただ笑っていた
あのとき僕はコクトーのアンファンテリブルを思い出す。それから高校の時ひとり繰り返し見続けたドリーマーズという映画のこと
それらの物語を大事にしていたこと
それらの物語を大事にしなければならなかったこと
その日は、長く一緒だった
店を出て冬の冷えはじめた高架下から高円寺にはしごしてる途中、ふたりのうしろを歩いた
どれだけ大人数でいても自然とふたりでいて、そういう親密さをひけらかすような狡さをしらず、ふたりとも耳をそばだてないと聞えないような声で話すから周りの人間はふたりが何を話しているのか、誰もわからない
ふたりともka na taのデニムに両手を突っ込んで似たような肩掛けの、くたくたの鞄、1000円カットの揃いの髪型、癖毛、猫背、ひとと話す時の不慣れな瞬きの多さと肩の力の抜け方が互いによく似ている、ひとを観察するときに意地の悪くなる視点の角度も、だらしなさのタイプも同じ。ある種の物事への執着の感受性は、全くちがう
蒼の方が背が低く、いつも履いてるスニーカーの底の真っ青が歩くたびにちらちらとくうを切る。細くごつごつしたゆびには”静”と刻まれた銀のリングをしている
創也は歩くときほとんど踵を見せず延々と喫煙してる、赤マル。一人称が”僕”で、いかなる時でも敬語が使えない
ふたりの背をみて、僕は僕も双子だったとうすぼんやり思い出していた
朝方、仲良くなっていきそうだね、と言って別れた
* *
かれらの共依存には、引け目というのがない
それは、永遠の上に成り立っているからだ
ふたりは血縁というソーシャルに約束された制度の中、出生証明書に契られた関係として、この地上に許されている
ある種の美というのは、人為的な側面を超える必要がある気がする。それは下らない優生思想なんかではなくて、またポップアート的な感性の否定でもなく、宗教的、いや、もっと、土着的な、非言語の、にんげんの、なまなましい関係性に棲みついている固有の美しさのことなんだろうとおもう
服と、皮膚の関係が、いまのところ、ka na ta 先生じゃないけれど、僕が思うに、いちばんそれにちかい
・・・・瀬川兄弟との話はまだ続く
蒼くん、創ちゃん。いつもありがとう
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