瀬川兄弟の考察、カポーティ的な共依存について ②
蒼も創也も言葉の人間ではない
通常、「ある感覚」というのを言葉に変換するとき、われわれはほとんど無意識に自らの無象の地へ触手をのばし、広大な暗がりをまさぐりながらそれに最も近い言葉を説明的な視点から選びとり、外界へと運んでいき、喉を通り、対象へ向かってこの唇を震わせる
その一連のダイナミクスの過程じたいが、表現として目に見えるかたちとなり、その形式でひとはひとを認識し、優劣をつけたり、受容したりする
が、かれらからは、この社会へのチューニングとでも呼ぶべき過程そのものが絶たれている
それはかれらは沈黙のうちにすべてを認め合っているからだ、とかいう甘やかなJ-POP的レトリックさえ喰い殺すような、ふたりのコミュニケートの繊細さというのは、獣的にとがった、ミクロの、圧倒的に非言語の世界のお話である
(ここに筆を入れるのは、とても勇気が要る。なぜならかれら自身がかれら自身のことを言語で理解していないからだ。語り部なき閉ざされた世界でかれらは永遠に永遠だったというのに、今、それを僕というある種の穢れが侵入し言語化しようとしている。やめてくれ。そんなことをしたらじきにエンドロールが流れてしまうじゃないか。それは僕が最も恐れていた”イノセンスの剥奪”なんじゃないのか? 誰か俺を止めてくれ。タイプの止まらない俺の右手を砕いてくれ。誰か)
つづまるところ、かれらは言葉をコミュニケーションの方法論として使っていない
というか、とくに言葉を必要としていない
かれらは、眠れない夜更けに互いの呼気のおとや(ふたりは普段二段ベッドで寝ている。創也が下で蒼が上)、
互いの注文する珈琲の種類や(ふたりは休日になるとよく中央線沿いの喫茶へ行きささやかな時間を過ごす)、
トレードする服のパッチポケットに残されたライターのオイルの残量や(ふたりは服の趣味が同じなのでよく貸し合う。基本的に創也は金がないので蒼の服を借りてばかりいる)、
そういう共有された時間からこぼれる情報を手がかりに、互いをうつし鏡として、この世界との距離や違和をはかっている
僕が、必死にあらゆる言い回しを使って女の子を口説いている横で、かれらは「え? ねえみてあの人まだ言葉なんか使ってるよ?」 と、ふたりで優雅にみつめあっている。まるで、お前なんか情報にしか価値を見出せない劣化したこの現代社会の犬だな、とでもいうように
かれらの世界認識は、かれらに依存している
すなわち(断定的な言い回しが許されるなら)かれらの世界というのは、かれら自身のことだ
それは相互補足、とはわけが違う
蒼、と口にするときそこには創也が含まれ、
創也、と口にするときそこには蒼が含まれる
かれらはもはや”関係”ではなく、”体験”なのだ
自己からの脱出(脱我)と、他者へのシンクロ(一体)の溶け合いのバランスが、生活という規範の中でゆるされながら保たれているという
いわゆるこの状態が、共依存である
僕は小さい頃からずっとこの状態を外界の女性と作ってきてなんども危険な状態になってきた、というと止まらなくなってまた痛い記憶にイマジネーションが足されていって花が咲きドラッグに溺れ雨に打たれ母が死に花が枯れ短編が書けてしまうので今は書かないけれど、とにかく、瀬川兄弟は今もこうして生きている。かれらを想うとき、おれはいつもカポーティの短編や『遠い声 遠い部屋』のイメージを思い浮かべる…………
〈 蒼くんおはよう。昨日僕の note 読んだ? 〉
〈 読んだよ
よくみてるね
ありがとう 〉
蒼くんとのさっきのLINEは6文字の感想により終焉を迎えた。あたしはかなしかった。だがかれらは言葉の人間ではないので仕方がない。かれらの合わさった獣じみた目線はもはや体系だとおもう。言語のあちら側で揺れるふたつの魂は、冷徹にストイックに物事を捉えすぎていて、それが言語化された事象に比べてあんまり本質的なものなので、かれらのそばで、僕はいつも静かに傷つくのである
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