統一の一歩先へ
(2008/09/01記)
「『米国』は全部『アメリカ』に統一するんですね」
とっさに何を訊かれたか判らなかった。
というのは、すでに何度もお願いし、とっくに承諾を得ていたつもりの統一ルールに関するダメ押しだったからだ。
「英国」は「イギリス」に。「米国」は「アメリカ」に。その他のルール共々、初校と一緒に一覧表をお送りしてあった。
ホテルオークラのラウンジで二ヵ月ぶりに返ってきた三校を間に挟み、私が対峙しているのは防衛大学校校長の五百旗頭真先生である。
沈黙は一瞬だった。なぜ、今さらそんなことを確認するのだろう。きっと私の表情にそんな不審が浮かんだに違いない。
五百旗頭先生はクスリと笑って「仕方ないなぁ」という風に切り出した。
「アメリカを使う場合には『アメリカ合衆国』といわないと、あの国のことにならないでしょう。国としては『米国』が正しいと思うんですよ」
「『アメリカ』だと北米大陸や南北アメリカのような、やや広い地域を指すことになる。そこに気をつけて使い分けているんですよ」
虚をつかれた。
日頃、編集者は用語を統一することしか考えない。用語のブレは編集上のエラーだ。そう叩き込まれてきている。
いま私が編集しているのは『歴史としての現代日本』(千倉書房)というタイトルの書評集である。五百旗頭先生が十三年にわたって毎日新聞に寄稿してきた書評をテーマ別に六章に編んでみた。日本の近現代、政治外交に関するきわめて優れた読書案内となるだろう。
しかし、である。本書の原稿は非常に用語のブレが多く、この統一には初校の段階からかなり気を遣った。
新聞書評は文字数に制限がある。限られた紙面のなかで書籍の内容に触れ、読む意義を語り、さらに自分なりの分析を織り込む。
それはとても難しいことだ。その時々の語るべきことの分量次第で、臨機応変、言葉遣いも変える必要があるのだろう、と私は思っていた。
普段は「アメリカ」と書いているところでも、原稿の文字数が二字出ていたら「米国」と書いて収めるだろう。
その他諸々の用語も含め、それらのブレは原稿を規定文字数に抑えるための方便だと思いこんでいたのである。
しかし違った。五百旗頭先生はそれぞれ厳密に意味を持って使い分けていた。そのことに私はまったく気づくことができなかった。
「章タイトルや小見出しで使っているところは『アメリカ』とした方が通りが良いし、統一されていれば読んでおかしいことはないから、別にこれで構いません」
わざわざ直すことはないよ。でも、ちゃんと書き手の意図は汲んでね。
先生の眼は最後まで穏やかなまま言外にそう告げていた。
だから、三校という変更の自由が利かないタイミングになってから、それを教えてくれたのだ。
本当に参った。まもなく業界二十年生になろうかというのに、ただ統一すればいいという原則から一歩も離れることが出来ていなかった。
基本はきちんと抑えた上で、その先にまで思いを致す。込められた著者の意図をきちんと汲み上げる。それこそが編集なのである。
五百旗頭先生が研究者、教育者、実務家のいずれにおいても優れた人物であることは重々承知している。
日頃、研究会などを通して親炙しているつもりではいたが、そうは言っても五百旗頭先生の教え子でも何でもない。そんな私にまで、この厚情である。
編集は深い。そのことに改めて気づかせてくれた五百旗頭先生に心から感謝している。