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前日譚

(2021/10/12記)

 二〇一二年の春まだ浅き頃だったと思う。

 珍しく早い時間だったせいか、狭い階段を上って新宿ゴールデン街「こどじ」の扉を開けると、カウンターには偉丈夫がひとり座っているだけだった。

 彼は丸めた背中をひねるようにこちらの様子を窺うと、見知った顔に気づいて相好を崩した。

 写真家の石川武志さんだった。

 石川さんも私もこどじの常連だ。初めて出会ったときのことなど微塵も記憶にない。ただ新宿のバーではありがちなことに、いつの間にやら顔見知りになり言葉を交わすようになっていた。

 あるとき「私はインドでヒジュラというトランスジェンダーの写真を……」「石川さんって、もしかして青弓社から出ている『ヒジュラ』の石川さんですか?」というやりとりがあって、以来いくらか本格的に親しくなった。

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 とはいえ、独り気ままに訪れるバーのカウンターで特定の人と隣り合うことなどまれで、むしろ賑やかな酔客に分断され、店に入るときと出るとき軽く目配せをするだけ、という関係が長く続いていた。

 その日、石川さんは大きなポートフォリオを抱えていた。

「写真集の出版が決まりそうなんです。これから打ち合わせで」

 石川さんはそう言って、隣に座った私に分厚いかたまりを押しやった。

 素晴らしい。聞けば、やはり顔なじみの出版社社長Nさんと待ち合わせをしており、それで早い時間からのご登場となったらしい。

 このときまで私は石川さんについて、ヒジュラをライフワークとして撮っているベテラン写真家くらいの認識しかなかった。申し訳ないがバーで隣り合わせるくらいの関係で、そのプライベートにあれこれ踏み込むガッツは私にはない。

 だからごく軽い気持ちで、ヒジュラの写真集ですか、と問いかけつつ重々しいファイルのページをめくった私は、そこに現れた被写体の意外さに首をひねった。

「水俣ですか?」

 石川さんは言葉少なに、自分がユージン・スミスのアシスタントとして足かけ三年にわたる氏の日本(水俣)滞在中ずっと傍らにあったこと、ユージンが、おまえはおまえの水俣を撮れ、とフィルムを分けてくれるような人物であったこと、などを語った。

 私は驚愕した。ポートフォリオをめくる手を止めることが出来なかった。すさまじい情景がそこにはあった。伝説の巨人であるユージン・スミスの視界をのぞき込み、その生々しい息づかいを聴く思いだった。

 言葉を失ったままファイルを石川さんに返すとまもなくドアが開き、N社長が姿を見せた。私は何気ない顔で黙礼したが、内心はかなり動揺していたと思う。

 N社長も私が編集者であることはご存じだ。他社の編集の前で本の相談はしにくかろう。一杯くらい飲んではどうかと誘う石川さんを制し、N社長はさっさと支払いを済ませて店を出て行った。

「じゃあ、いってきます」

 慌ただしく荷物をまとめ、そう言ってN社長の後を追おうとする石川さんがドアを開け、暗がりに通じる下り階段に足をかけようとする直前、私は何の予感もないまま石川さんのジャケットの袖を掴んでいた。

 急なことに驚きの目を向ける石川さんに、私は運命の一言をかけた。

「もし、万が一、今回の写真集の話がうまくいかないようなことになったら、かならず僕に声をかけてください」

 大きな声ではなかったが、今考えるとそれなりに強い調子だったと思う。念押しもしたかもしれない。

 一瞬、何を言っているんだろう、という表情をした石川さんは、それでも、あぁ、とか、うんうん、みたいな返事をしてくれたような気がする、がじつははっきりとは覚えていない。

 「あのときの話って、まだ生きてますか」という電話が石川さんからかかるのは暫く先の話だ。

 こうして、創業から九十年近く、一度たりとも写真集を刊行した経験のない千倉書房から、石川武志さんの『MINAMATA NOTE』が出版される「種」はまかれたのだった。

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