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厚さ45ミリの薄い本

(2021/06/07記)

 わが社の「鈍器本」四天王が見守るなか、新たな伝説が生まれようとしている……

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 というのは冗談であって、本当に見て欲しいのはこちらである。

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 これは束見本(つか・みほん)といい、実際に利用する資材で作るダミーである。机上のイメージ頼みでなく、より精緻なデザインワークを行うためのサンプルと考えて欲しい(だから中身は真っ白)。

 ちなみに上に乗っているのが、普段私が使っているメヌエットライトクリーム(A/T43.5)という紙で作った束見本で、厚さ63ミリ、重さ1.4キロという堂々たる体躯である。

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 下はオペラクリームHO(A/T43)という紙で作られている。厚さは45ミリ、重さはなんと997グラムと1キロを切っている。

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 なにがスゴいかというと、下の束見本は私が指示して作られたものではないという点である。

 私は20年近く前から、写真を多用するなどよほどの事情がない限り、本文用紙はメヌエットライトクリームに決め打ちしている。三菱製紙がこの紙を漉くのを止めたら、編集者を引退しようと思っているほど愛してやまない。

 紙の腰、ねばり、平滑性、めくりやすさ、蛍光灯や太陽光による表面反射、インクの乗り、コントラストの柔らかさ、学術書にふさわしい持ち重り、価格、汚れの目立たなさ、入手の容易さ、これからも継続的に漉かれるか(急に無くなったりしないか)などなど、様々な観点から吟味した結果、今のところこれ以上の紙はない、というのが私の揺るがぬ結論であった。

 もちろん今回も、本文二段組み928ページという編集者人生で最厚の単行本を刊行するにあたり、デザイナーと装丁イメージを共有するため、印刷会社にメヌエットライトクリームの束見本を発注していた。

 ところが約束の日、精文堂印刷の福田正臣さんが持ってきたのは、この厚さの違う二つの束見本だった。

 何事かといぶかしむ私を前に福田さんはプレゼンを開始する。

 製本の現場が言うには、背の厚さが60ミリを越えると、いくら最近の糊はよくなっているとはいえ、開いたときに「背割れ」(と呼ばれる破損)が起こりやすくなります。

 そして、一番の問題はこれです。本を開こうとした時、メヌエットだとこうなります。

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 一方のオペラはこうです…………

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 まいった。福田さんの言いたいことは一目瞭然だった。メヌエットの腰の強さはページ数が一定以上多くなると利点を越えてマイナスに作用する。

 資料的な価値も高い今回の本は、研究者や学生が必要なところを開きつつ、他書と並べて読むという使い方が想定されていた。

 しかし腰の強いメヌエットでは紙の重さでもページを開いて保つことが出来ず、これを開ききろうと力を入れれば糊が剥離して背割れが起こる可能性が高い。

 その危険性を私に伝えるために、彼は独断で別の特性を持った紙で束見本を作り、並べて見せたのだ。繰り返すが、本当に参った。あっぱれな営業力としか言い様がない。

 もし、同じ事を口頭で伝えても、私は「言いたいことは解る。しかしそうは言っても束見本の現物がある方が安心だから」と、その提案を容れなかっただろう。これは当面の安全策を優先する、現在の自分の性格を顧みてほぼ間違いないと思う(制作の進行上、その時点から改めて束見本を取り直すという選択肢はなかった)。

 実際に束見本を見ることで、この厚みの本にしたときのメヌエットの問題点と、オペラにすることによる利便をはっきりと感得し、読者にとっての商品としていずれを選ぶべきかという、判断基準を持ち得たことは明らかである。

 「神谷さんの好みからすると、紙色が赤過ぎるのは解っているのですが……」と、唯一気になっていたポイントにまで心配りを忘れなかった福田さんのファインプレーによって、私はより読者のニーズに添うと思われる商品を世に送ることが出来たのだった。

 蛇足を加えると、いつのまにやら自分も大人になったものだなぁ、という思いもある。もし20代の頃だったら、ただただ、やたらと多いページ数にはしゃいで興奮し、読者のことも市場のことも考えず、可能な限り厚いスペックで本にしようとしただろう。

 たとえ福田さんが束見本を2パターン用意してくれても、きっとその意図を理解しようとせず厚意を無下にしたに違いない。

 本当は心のどこかに、厚さ63ミリの本を出してみたかったという気持ちがないわけではない。束が45ミリになったことで、928ページもあるのに、過去にメヌエットを使って手がけた500~600ページの書籍より薄くなってしまったからだ。

 しかし今の私は、ただ分厚い本が自己満足に過ぎず、虚栄心の求めるところのものであり、冷静に読者や市場のことを考えられることのほうが編集者として正しい、と思っている。

 おそらくそれは間違いではないのだろう。

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