井田真木子さんのこと

(2005/01/22記)

 月刊文藝春秋の特派記者だった吉田茂人さんの独立記念パーティで、会場を埋め尽くすスーツ姿のなか、白いトレーナーに色あせたジーパン姿の井田真木子さんを見つけた。

 私はフリーだった二〇代半ば、こうしたパーティに声を掛けていただく機会が何度もありながら、並み居る編集者や有名ライターの姿に萎縮し、といって会場を飛びまわり、こちらから名前を売り込むほどの度胸もなく、足を運ぶことが稀だったので、ラフな格好でもこうした場に顔を出せる彼女の胆力に感心する一方、それを許容させる大宅賞作家の肩書きに羨望を感じずにはいられなかった。

 井田さんは、その少し前に私の編集者デビュー作となる浅見雅男さんの『華族たちの近代』(NTT出版)を、とある女性誌に紹介してくださっていた。短いながらきちんと読み込んだことが伝わってくる書評だったので、お礼をさせていただこうと思い近寄ったところ、彼女は私が視界に入るかどうかというあたりで仔ウサギが目の前の敵から逃げ出すように身を翻した。

 いま考えると彼女の行動も、私の対応もかなりおかしなものだったと思うのだが、私は咄嗟に彼女を追って駆け出していた。パーティ会場を飛び出して階段を駆け下りたところへ二階から声をかける。振り向いた彼女をその場にとどめ、ようやくお話しできたのはうすら寒い階段の脇だった。

 ずっと後になって聞くと、やばい締め切りを抱えていて、急にタイムリミットを思い出したとのことだったが、結局は無駄話につきあってくださったのだから方便だった気がする。こぢんまりして上目遣いに人を見る視線に強い印象を受けた。怖がっていたんだ、ということが今ならよくわかる。

 私は『小蓮(シャオリェン)恋人』(文春文庫)が大好きなので、まずそのことを伝えた。そして日本の社会的規範が移民たちに不可視の圧力をかけることで、変化を余儀なくされる彼らの家族観の行方について思うところを話した。

 すると大家族制や父親を頂点とした強い家父長制を良しとするアジア諸国から、極端な少子化・核家族化が進行する日本へ来た男たちが日本人女性を嫁に迎え、自分の理想とのギャップに怒り、悲しみ、如何に観念し、抛擲するかについて書きたいといってくれた。

 抛擲という表現が面白いと思った。だが私は即座に「それを書いてください」と言えず言葉に詰まった。井田さんは明らかに不審な顔をした。自分から声をかけてきて、目の前に転がされたテーマに顔を輝かせながら身体が引けてしまった編集者に奇異の念を抱いたのだ。

 通常ノンフィクション作品は、いくつかの幸運な例外を除いて基本的に媒体への連載を経る。原稿料プラス印税でなければ取材費以前に作者の生活さえ担保できないからで、基本的には現在でもノンフィクション作家は書き下ろしだけで生計を立てることは一〇〇%不可能だ。

 私はかつて看板を掲げただけの自称フリーライターで、単発の、支払いの発生が六ヶ月も先の、交通費お土産代自腹の仕事で生活を維持するために長らく泣きそうな思いを味わってきた。

 たとえ売れっ子であろうとフリーのライターに、どれほど時間がかかるか見当もつかない書き下ろしを、その場のノリで軽々しく頼むようなことは私には出来なかった。受けた作家だって決して楽ではないはずだ。

 そんな言い訳を口ごもる私に井田さんは「あなたは編集者に向いていませんね」と言って、初めて楽しそうな顔をした。私はこのときまで、彼女以外の人には「編集者が天職ですね」としか言われたことがなかったので、ばれた、と思った。

 当時、井田さんは「最近、知り合いの誰からも電子メールを始めるように言われるのだけれど、なぜあんなものを使わなくてはならないのか判らない」と首を傾げていた。おそらくは独り言だったのだろうが、それを自分への質問と受け取った私は、くだらない一般論を述べた。当然、井田さんは、そんなこと何回も聞かされたわ、という顔は見せず、口元に曖昧な笑みを浮かべた。

「1の会という集まりがあって、そこには詳しい人も来ますから、一度いらっしゃいませんか」とお勧めしたところ、よほど気分が良かったのか「行ってみようか」という話になった。それが、彼女がたった一度だけ1の会を覗いたきっかけだった。二〇〇〇年二月一日のことである。

 1の会は文藝春秋とプレジデント社の編集者が幹事になって立ち上げ、一九九八年から二〇〇二年まで続いたメディア関係者の交流会だ。毎月一日に開催される建前だったので1の会。編集者、デザイナー、カメラマン、ライターなど多くの人間が出入りしていたが、大宅賞作家が来たのは後にも先にもこの時きりだった。私は居合わせた毎日新聞社と日経BP社のパソコン系雑誌の編集者を紹介し、メールの利便性やネットの現状を解説してもらった。

 だが、それ以降も井田さんと私のやりとりはもっぱら葉書だった。ごくたまに電話することもあったが、とりとめもない話で時間をつぶさせるのは申し訳なかったし、なにより私は手紙を書くのが嫌いでなかった。

 私の手元には井田さんからの暑中見舞いや取材先からの葉書が四通残っている。彼女のところには、私が出したそれよりすこし多い数の手紙があったはずだ。

 よもや彼女が瞬く間にメールを使いこなし、掲示板に参加し、あまつさえ、そこで血を吐くような痛ましいカミングアウトを行っているなど想像もしていなかった。

 二〇〇一年三月、彼女の死を知ったのは文藝春秋の知人からの電話でだった。彼は言った。

「井田さんの(よく行っていた)掲示板を知ってるか。つらくて見ていられないんだ」。

 詳しくは書かない。ただ死の一週間前に、来週には私は死んでいるだろうという趣旨の当人の書き込みがあったことは記しておきたい。

 ショックだった。教えられたアドレスを入力して掲示板にたどり着くと私は彼女の書き込みを遡っていった。知らず知らず嗚咽が漏れ、ディスプレイは何度もにじんだ。

 呟きのような、独り言のような彼女の書き込みは、ときに他の書き込みを思いやり、思索はたびたび過去を振りかえった。閉ざされた回路のなかで彼女が何に出会い、何を考えたのか推し量ることは難しい。だが彼女はダンジョンに閉じこめられ、無限回廊を彷徨い続ける迷子のようだった。私にはそう見えた。

 まるで関心を持っていなかったネットに彼女を繋いでしまったのは私だ。私がメールを勧めたから彼女が死んだわけではないだろう。掲示板に書き込まなくても、あるとき暗澹たる思考の隘路に嵌り、遅かれ早かれ彼女は死んでいたのかも知れない。でも、それが死期を早めたのではないか、より強く死を意識させたのではないか、と考えずにいられない。

 最後の連絡は、死の五ヶ月前に届いた旅先からの葉書で、とうとう私のところにメールは来ないまま終わった。思い上がった言葉に聞こえたら許してほしい。私は自分が、井田真木子さんの死に一斑の責任を持つのではないかと悔やんでいる。

 すべての作品を読んできた。絶筆『かくしてバンドは鳴りやまず』(リトル・モア)も手を伸ばせば届く場所にある。しかしこの本だけは未だにページをめくることができない。私は最後の最後で彼女と向き合うことから逃げている。

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