岡本呻也という人

(2016/05/18記)

 一九九七年末のことだったと記憶する。文藝春秋の田中裕士さんに「メディアの若手が集まる会を作るから来ないか」と誘っていただいた。ありがとうございます、と返事をしながら、僕はそこに参加しようとしなかった。

 当時、僕は文藝春秋の特派記者として働いていたが、契約はまもなく切れようとしていた。猪瀬直樹さんの事務所を辞めてからというもの、文春に拾ってもらうまで、フリーライターの看板を掲げながら、じつは警備員のアルバイトで食いつなぐ日々だった。契約が切れればそこに逆戻りとなることは目に見えていた。そんな人間が、そんな晴れがましい場(←当時は本気でそう思った)に顔を出すべきではない、と僕は思い詰めていた。

 「1の会」と名付けられた、その若手メディア人の会に初めて足を踏み入れたのは一九九九年秋のこと。この年の六月、僕は文藝春秋の浅見雅男さんの口添えもあってNTT出版に就職していた。ずっと雑誌ジャーナリズム畑にいたにもかかわらず突如、人文社会科学系の単行本を編集することになり、右も左も分からない僕は同業の先輩を求めて1の会の門をくぐったのだった。

 1の会には会則のような文章があって、案内のメールには先ずそれが掲載されていた。会のアウトラインはそれで察してもらえるだろう。

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“昔、「番屋の会」というのがあったそうです。まだ喰うや喰わずのノンフィクションライターが50人、60人と集まってお店を占拠し、ワイワイガヤガヤやっていたとか。「お前は認めねえ!」「うるせえ、このやろう!」なんてことも珍しくなかったらしい。時代は変わりましたが、我々も同時代のメディア関係者が定期的に目的もなく集まる会を作ったらどうかと思いました。

集まる日にちは毎月始めの1日午後7時30分とする。60年代生まれのメディア関係者、メールアドレスを持っている者により幹事団を構成する(参加者の年齢制限ではありません)。会の連絡はEメールにより行う。同伴者に資格制限は設けない。ただし広報、PR担当者はご遠慮戴く。会の目的はもうけない。社利社欲、私利私欲を追求しない”

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 番屋の会は若き日の猪瀬直樹さんや佐野眞一さんが参加していたことでも知られる有名な集まりで、それに倣おうという稚気が垣間見える。わざわざ「メールアドレスを持っている者で幹事団を構成する」とあることでも分かるように、まだメールを使っていない人も散見された、そんな時代の物語。岡本呻也さんはそこにいた。

 幹事団とは言いつつ、実際には月刊プレジデントの編集部にいた岡本さんと、週刊文春で「ニュースの考古学」(猪瀬直樹さん)や「読むクスリ」(上前淳一郎さん)の連載担当だった田中さんが二人幹事で、その他の人は会計のお手伝いなどはしても運営そのものにはかかわらなかった。

 「会の目的はもうけない」という一文は、常に高い目的意識を掲げていた岡本さんをよく知る人には若干意外に思われるかもしれない。しかし、彼が1の会に先行、あるいは並行して主催していたB&Bの会やフロンティアーズパーティのような、(昨今のような揶揄を含まない意味で)意識の高い人たちの集まりとは違い、まずは人と人を結びつけるところから始めよう、というのが岡本さんの趣旨だったのだと想像している。

 テレビ、新聞、雑誌、書籍、ライターやカメラマンまで、およそ媒体がらみのあらゆるジャンルの若手が顔を出していた。通常でも七、八〇人。クリスマスなど少しイベントっぽい集まりのときには一四〇人近くが出入りしたという。あまりにも混み合うと、気の合う何人かと抜け出して近所の居酒屋で飲み直したりしていた。明け方まで飲んで、そのまま出社と言うことも少なくなかった。僕はまだ二十代だったのだ。

 比較的年齢の近い、会社は違うが(←ココ重要)メディアについてそれぞれ思うところのあるメンバーと語り合うことは実に面白かった。今にしてみれば若気の至りで、生意気、知ったかぶりを平然と垂れ流していた自分に恥じ入るばかりだが、それを許容し、生暖かい目で見てくれる度量の備わったメンバーに恵まれたことには、どれほど感謝しても足りない。もちろんその面々を選んだ岡本さん、田中さんにも……。

 会が大きくなると、話を聞きつけ、つてを頼って突然参加する人も増えた。あるとき若手を連れて参加した新潮社の偉い人がいた。その人が帰り際、「こりゃダメだ、面白すぎて、コントロールの効かない若手はダメになる。ウチはこの会、出入禁止だな」といったのが今でも忘れられない。実際、1の会に参加することに、鼻持ちならない得意意識を持ってしまう人はいた。それくらい、毎回、熱に浮かされるような高揚感、充実感があった。

 分派活動と称し、スキー好きのメンバーでスキードーム・ザウスへ繰り出したことが二度ほどあった。三歳になるかならずの息子を連れて行ったところ、フジテレビの青木美枝さんや読売新聞の後藤裕子さんに面倒をかけてしまい恐縮した。その息子は今年大学受験である。ザウスが解体されてからも一二年になる。

 温泉好きが集まって伊豆修善寺へドライブしたこともあった。NBAにいた永田朋之さんや作家の久保田正志さん、僕も車を出し、十数人で賑やかな旅だった。後藤さんが借りてくれた会社の保養施設(コテージ)での雑魚寝は修学旅行を思わせるもので、誰だったか(おそらく永田さん)が「おれ、社会人になってからこんな付き合いのできる友だちが出来るとは思わなかったわ」と言うのを納得の思いで聞いた。

 今はなくなってしまった恵比寿駅前の居酒屋で、永田さんと僕がダイビングのライセンスを持っているという話になり、じゃあ行くか、と周囲を見渡したら、ライターの矢吹明紀さんを筆頭に思いがけずライセンス持ちが七人もいて、そこからダイビングチームが生まれた。このメンバーで宮古、石垣、与那国、果てはグアムまで行った。

 二〇〇〇年の二月一日、ノンフィクション作家の井田真木子さんを1の会に連れて行ったことは既に『編集漂流記』(インプレス)に書いた。このブログでも紹介している。彼女が亡くなった年齢をとうに越えてしまった自分に気づいて暗澹とする。

 福島の土湯温泉にいたら、いきなり岡本さんから電話がかかり、「今晩、粕谷一希さんと会うことになりました。是非ご紹介したいので、すぐ帰ってきてください」と無茶を言われ、やむを得ず湯治を切り上げて池袋の粕谷邸へ伺ったのは、いつのゴールデンウィークだったか……。

 この日、絶好調だった粕谷さんは池袋で飲んだ後、神楽坂まで足を伸ばし馴染みのバーを紹介してくれたのだが、岡本さんと僕に挟まれて盛り上がったままカウンターに突っ伏して眠ってしまった。僕たちは粕谷さんの頭越しに議論を続けたが、二人ともベロベロに酔っているので肝心の人名や書名が出てこない。

 そこでふざけて「粕谷さん! トクヴィルの、あの本、米国行って、衝撃受けて、書いたやつ、アレ、なんていうタイトルでしたっけ!」と肩を揺すったら、完全に沈没して鼾までかいて寝ていた御大が突っ伏したまま「う~いぃ、あ~め~り~か~の~みんしゅ~せいじ~」と返事をして息が止まるほど笑ったり……。

 知る限り、1の会をきっかけに結婚したカップルは三組いる。なかでも当時ニューズウィークにいた川口昌人さんと小学館の後藤千鶴子さんご夫妻とは、今もたまに一緒に酒を酌み交わす。小さい頃、一緒に沖縄にも行ったご長男は両親のいいとこ取りしたハンサムになった。

 こんな具合で、思い返すときりがない。よくこんな会が立ち上がり、多彩なメンバーが集まり、適度に継続し、限界や分裂を迎える前に解散したものだと感心するほかない。しかし、それはすべて岡本さんと田中さんの仕掛けだった。会を立ち上げ、メンバーを集め、継続させ、解散を決断したのはすべてこの二人である。頭が下がる、というか畏敬の念さえ覚える。

 若手とはいいながら、別に仕事がないわけではない。むしろフットワークがよく無理が利く若手は前線に投入され、自分で時間をマネージできない分、滅茶苦茶忙しかった気がする。それが何十人も月に一度集まるなんて、なんと無謀な会だったのだろうと思う。今ではとても考えられないことだ。

 僕自身、初めて参加した一九九九年秋から最終回となる二〇〇二年一二月まで、よほどの事情がない限りほぼ皆勤だった。そのため結構無理をしたこともあるが、それを下支えしたのは若さだったに違いない。

 その後の話を書く。もともと1の会でしか接点のなかった岡本さんと僕は、会がなくなると、数年に一度、昔なじみ(永田さん、もしくは電通の岡村雅子さんであることが多い)が声をかけてくれるカラオケ飲み会以外で会うことはなくなった。会えば普通に話をしたが、編集の仕事や最近の本の話はほとんどしなくなった。

 岡本さんが東日本大震災後、名古屋に居を移す前から、僕がすこしだけ彼と距離を置いていたからである。僕はとうとう彼の自宅で催される集まりに顔を出さなかったし、何度か声をかけてもらった1の会よりもやや敷居の高い勉強会にも参加しなかった。1の会がなくなって、もういいや、と思ったわけではない。

 それは二〇〇二年前後が画期だった気がする。岡本さんが「僕はもう本を書くのは止めます」と言いだしたのだ。「あんなものにね、もう意味なんかないんですよ」「誰も本なんか読みませんって」。

 今ならば、もしかしたら反語だったのかも知れない、と思う。意地の悪い見方をすれば、(後述する)自分の本が売れなかった腹いせに口を突いた悪態だった可能性だってある。でも当時の僕が、敬愛する編集者であった岡本さんの言葉として受け入れるには、つらすぎる内容だった。

 岡本さんは二〇〇〇年に盟友・田中さんの手になるデビュー作『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』(文藝春秋)を上梓している。僕はアマゾンのレビューに以下の推薦文を書いた。

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“本書が同時代を描き出す卓抜したノンフィクションであることはお断りするまでもない。しかし一癖も二癖もある魅力的(それは時に悪の魅力であったりする)な登場人物たちが、時代に翻弄され、つまずきながらも信じる道を行くストーリーに私は古き良き青春小説の香りをかぐ。

ベンチャー、起業家には様々な毀誉褒貶がつきまとう。しかしある種の偏見をぬぐい去って読むとき、そして、それらが煽るでも非難するでもない淡々とした著者の筆によって描かれるとき、自らの人生に訪れなかった選択肢への憧憬と重なり、私は深い感動を覚える。敢えて言う。本書は九〇年代を鮮やかに切り取った『夢の砦』なのである”

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 その一年後には、やはり1の会の仲間である土江英明さんの手によって『慮る力――できる人には顧客の心をつかむ「慮る力」がある』(ダイヤモンド社)が刊行された。これにも僕はレビューを上げている。

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“『慮る力』は異色のビジネス書である。同時代のベンチャー群像を歴史ノンフィクションの手法で鮮やかに切り出した前作『ネット起業! あのバカにやらせてみよう』の読者は、著者の筆遣いの変化にいささか戸惑うかも知れない。

一読、ビジネス事例に学ぶサービスハウツーといった体裁である。著者もまえがきで「当たり前のことしか書いていない本」と名乗りを上げる。しかしプロ意識という観点から様々なビジネスモデルの根本にあるサービス(良き仕事と言い換えてもよい)の有り様を粘着質とでも呼びたくなるような取材を通して描き出している点で本書は他書と峻別される。

著者はサービスの源泉となる意識の持ち方を「慮る力」である、と説く。第Ⅰ部でその正体を探り、第Ⅱ部ではサービスの現場に立つプロフェッショナルたち20人にインタビューし、彼らの気遣いの実際に迫っている。ホテル、葬儀社、クラブ、ゴルフ場、自動車セールス、コンピュータのカスタマーサポートなど業態は様々だが、登場人物たちが徹底的に追及するのは顧客満足のための自身の有り様なのである。彼らは異なる業種にありながら全員が真摯であり、繊細である。そして数え切れないほどの失敗事例に学んだ自負と技術を持っている。

著者はそんな登場人物たちを「慮る力」の発揮のさせ方によって分類する。関係構築力、利害調整力、コミュニケーション力という比較的耳にする機会の多い能力と並べて「対人影響力」を置いたところに私は著者の異能を見る。それはビジネスが人間にとって如何なるものかを理解する、あるいは位置づける作業でもある。

また著者の圧倒的なインタビュー力についても称揚したい。人を探し、出会い、語り、聞き、その人となりを引き出すには大変な力量が必要である。原稿レベルで如何に手を入れるにせよ、これだけまとまった情報をテーマに沿って深く引き出し、自分の言葉で語らせるためには、まさに相手を「慮る力」が必要なのだろうと推察する。

本書はインタビューノンフィクションの一形態と見ることも出来そうである。ビジネスマン、特にサービス部門に働く人々が受ける示唆は大きいものがあるだろう。しかし本書の締めくくりに登場するのが茶道裏千家家元の千宗室氏であることから想像されるように、著者が描きたかったことの芯には「人と接する心の有り様」という普遍的、かつ今日的な主題があるものと考えられる。

ダイヤモンド社は本書をヌケヌケとビジネス本に仕立てたが、書籍の体裁にとらわれることなく、多くの人に手にして欲しい内容といえる。本書の提示するテーマ「慮る力」が単にビジネスの問題としてしか捉えられないようでは日本の将来は覚束ない”

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 友人の本だから褒めているわけではない。じつに岡本さんらしい、問題意識のはっきりした、それでいてやや迂遠に思われる問題解決へのアプローチというかヒントの出しかたが、とても好ましかった。正義感と含羞にあふれた文章であり、プレゼンテーションと言える。でも、残念ながら両作品とも著者が勢い込んだほどは売れなかった。

 そして二〇〇二年、三冊目の単著となる企画『「新日本人」革命――いま日本で起きつつあるルネサンス』が脱稿。「神谷さん、御社でお願いできませんか」と電話があったのは二〇〇二年の二月だったと記憶する。かなりの時間をかけて用意した原稿だったらしく、意気込みも相当のものだった。

 そのころ僕は、勤務するNTT出版で上司と関係を悪くしていて、上程する企画が取締役会に上がる以前に、部内の編集会議ですべて潰されるという事態に直面していた。同じプロセスを踏んでも状況が変わる見込みはなかった。僕は意を決して、直接、社長に企画書を持ち込んだ。

 社長は一晩で原稿を読んでくれたが、主張の主体がよく分からなかったとの返事だった。岡本さんは原稿のなかで「抵抗勢力や守旧派に分類される『旧日本人』では、経済回復・構造改革はありえない。経済合理性を備えるなど意識改革されたニュータイプの『新日本人』を定義し、その台頭をうなが」したい、と述べていた。

 NTTなどという「旧日本」を代表する企業の取締役を経て、たまたま子会社の出版社に天下ってしまったサラリーマン社長にとって本書の主体はさぞ不分明だったことだろう、と今なら笑える。が、当時はそうもいかなかった。不採用の返事を聞いた岡本さんは、わかっていたよ、とでもいうような気軽さで、「次の手を考えないといけませんねぇ」と呟いた。

 その次の一手が明らかになったのは、同じ年の四月一七日のことだ。毎日新聞の経済面に岡本さんが個人で出稿した全五段広告が載ったのだ。広告は「日本を没落から救えるのは新日本人」と高らかに訴え、自分の原稿を本にしてくれる出版社を求めていた。

 「この原稿を私と共に世に問う出版社を募集します。岡本呻也」の文字が光を放っているように思われ、僕は脳髄が痺れるような衝撃を受けていた。この人はここまでやるのか、この人にここまでさせてしまうのか……、と、それこそ主体が出版社なのか、日本社会なのか、個人としての僕なのか、よく分からない感情と想いが渦巻いて頭がおかしくなるかと思った。

 本書は二〇〇二年一一月、講談社から刊行された。個人で新聞広告を出すというど派手なプロモーションに取材が入ったようで、夕刊フジに「出来れば二万部スタート」みたいな強気の発言が載っていたが、果たしてあの当時でも講談社がそこまでの初刷でスタートさせてくれたかどうかは分からない。

 何万部出たのか、重版がかかったのか、書籍としての成否は知らないが、個人的には前二冊ほど面白く感じなかった。アマゾンにもレビューを書いていない。「僕はもう本を書くのは止めます」「あんなものにね、もう意味なんかないんですよ」。岡本さんがくだんの発言を繰り返すようになったのは、この本が出た後である。僕は長らく愉しみにしてきた、本をめぐる彼との会話から、そっと離れた。

 サシで会うことがなくなり、ダイビングチームにリクルートの宮下英一さんや漫画原作者の添田忍さんが加わったメンツでたまにカラオケ、という関係になってからも、年に一、二度のペースで、電話がかかってくることだけは変わらなかった。私からかけたことは一度もない。すべて岡本さんからで、少し酔っている感じのときが多かった気がする。内容はわりとグチっぽく、毎回一時間以上になることを覚悟しなければならなかった。

 話題は、政治のこと、メディアのこと、三・一一後は原発の話も加わった。なにより共通の関心事である歴史・古典が会話に上ることが多かった。僕が本や出版に過剰な思い入れをもって関わっていることを、岡本さんは良くわかっていた。だから「本なんて」とは、ある時期から直接は言わなくなった。僕が直近の出版事情の話をあからさまに避けたので、折り合いをつけるために古典の話が多くなったのは申し訳ないことだった。

 古い馴染みだという塩野七生さんの話は多く、『ローマ人の物語』の取材秘話みたいなことを随分聞いた。ギリシャ、ローマ、その流れで村川堅太郎さんの話にもなった。村川さんの還暦記念論集である『古典古代の社会と思想』(岩波書店)の内容を諳んじられて、その記憶力に舌を巻いたことがある。ホッケの『マグナ・グラエキア』(平凡社)が面白かったという話をしたら、電話越しにキーボードの音がするので「買ったの?」と訊くと、「買いました」との返事。その場でアマゾンに注文していたらしい。

 政治とメディアについては、やや気の滅入るような話が多かった。彼としては、その後、(書かない、出さない、と言いつつ)二〇〇四年に実業之日本社から出した『「人間力」のプロになる――誰もここまで教えてくれなかった仕事ができる人の基本メソッド』と、二〇〇七年にPHP研究所から出した『「超」人間力』を加えた計五冊の著作で、社会に向けて言いたいことはおおよそ尽くしているつもりだったのではないかと思う。

 最後の長電話は二〇一四年一〇月三〇日の夜更けだった。翌日には、この年の五月三〇日に亡くなった粕谷一希さんを偲ぶ会がある。「神谷さんは行くんですか。僕は行きませんよ」。電話の向こうで岡本さんはいきなりそう宣言した。

 え、粕谷さんが寂しがりますよ、都合が悪くて出席できないならともかく、行かないってどういうことです、と問いかける僕に、岡本さんはだだをこねた。偲ぶ会の式次第には粕谷さんと親しかった佐々淳行さんの挨拶が予告されていた。「僕はもう、粕谷さんとも佐々さんともお別れを済ませてあるんです」。岡本さんはB&Bの会以来、佐々さんと浅からぬ縁がある。「だからもう偲ぶ会に行く必要はないんです」。

 六月六日、土砂降りのなか護国寺で営まれた粕谷さんの告別式に岡本さんは参列している。そこでも長時間、佐々さんと話しこむ彼の姿を見ていたので、言いたいことは分からなくはない。しかし話せば話すほど、勇気ある先達であり、時に甘えを許してくれる良き理解者を失った岡本さんの悲しみの深さが身に迫ってくるようだった。

 初めのうち電話の意図が分からず、「そんなこと言ってて来るんでしょ、どうせ」などとからかい半分だった僕だが、そのうちそれではダメだと気がついた。恩人の最期を偲ぶ集いに参加したいという気持ちはありつつ、でも意地やら想いやら様々なものが邪魔して、自分に対して素直に行くという決断ができないから、岡本さんは僕のところに電話してきたのだ。ならば言い様はある。

 「僕も岡本さんに会いたいから来てくださいよー。待ってますよー」。フンと鼻を鳴らした彼は「まあ、たぶん行かないと思いますけどね」と受話器を置いた。

 翌日、開始時間ギリギリになって偲ぶ会に現れた岡本さんがソソッと寄ってきて「来ちゃった、テヘペロ」と言ったときは、正直かなり嬉しく、笑いながら腹にグーパンチを入れた。彼も笑っていた。直接会ったのはそれが最後になった。

 今年(二〇一六年)の一月末に岡村さんから連絡があり、勤務先のベトナムから急遽出張で帰国するから二月八日にカラオケ行こう、という話になった。青木、永田、添田、川口、後藤、後藤……、岡本さんも誘ってしまえ、名古屋から呼び出せ呼び出せ! というFBのグループメッセージに応答した、一月三一日一六時二四分のタイムスタンプがある「福岡から帰ってきた岡本です。2/8はいけないんだけど、できればベトナムに遊びに行きたいなあと。フランス料理安いみたいだし」という書き込みが、我々との最後のやりとり。

 三月五日、桜内文城さんのFBに衝撃の訃報が掲載されてからは、永田さんや川口さんと四谷・新宿に繰り出して勝手に聖地巡礼(新鮮市場→レンピカ)をやったり、熊本地震の晩に銀座ライオンで開かれた追悼会に出席しそびれたり、後はもうなんだかよくわからない。

 そして迎えた五月一六日。麹町のホテルルポールで開かれた彼自身の「偲ぶ会」に多くの仲間たちが集まるのを、僕は不思議な気持ちで眺めていた。

 四谷の外れに「1の会の二次会と言えばココ」という居酒屋がある。偲ぶ会がはけると僕たちの足は自然とそこに向かった。特に約束をしていたわけでもないのに、三々五々集まって、気づいたら1の会の主要な顔ぶれがほとんど揃っていた。

 このメンバーが揃っているのに、この居酒屋に集まっているのに、なんで、岡本さんがいないんだろう……。みんな「バカ」だの「デヴ」だの言いながらしみじみ杯を傾けた。

 僕のipadには二〇一一年以降の一の会がらみの写真がすべて入れてある。古い写真を回覧していると、僕の向かいの席に座った宮下さんが、左右を青木さん、岡村さんという綺麗どころに挟まれた自分の写真を見つけ、「あ、この写真のデータちょうだい」と声を上げた。

 そのときだった。宮下さんの手が滑り、全然違うフォルダの写真をタッチしてしまった。まったく偶然、ディスプレイに表示されたのは、二〇一四年二月に代々木駅前のカラオケで飲んだときの写真だった。

 岡本さんを中央に、その左に僕が、その右に芦川さんが並んだスリーショットだった。宮下さんが息を呑んだ。今まさにipadを手にした僕の左隣は空席で、その向こうに芦川さんが座っているのだ。

 宮下さんから見たら、目の前の光景とその写真はまったく同じ構図に見えたに違いない。ただ一つ違うのは、真ん中に彼がいない、ということだけだ。

 芦川さんと僕が並んで座っているのも偶然。僕が席を詰めなかったため、芦川さんとの間に一席空いていたのも偶然。でもそんなこと……。

 突然、宮下さんが、温かな陽が差し込むようなおどけた声をあげた。

「なぁんだ、デヴ、ここにいるんじゃん」

 瞬間、視界が大きく滲んでぼやけるのをとめることは出来なかった。

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