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第11回神谷学芸賞(2022~2023年)

(2023/07/01記)

1.口上

 2年ぶりに7月1日に発表することが出来そうだ。コロナ禍中の介護、看取り、葬儀、相続など諸々から解放され、新盆、秋春の彼岸会、先にはお施餓鬼も済ませた。

 累代の墓は鎌倉最奥の山懐にあって、週末、家族と連れだって散歩に赴くには悪くない。生活は間違いなく落ち着きを取り戻しつつある。

 しかし、読書の量やペースは容易に旧に復さず、じつはそれらは介護などのせいではなく、自身の劣化老化が問題だったのだと、いまさらのように気づいてガッカリしたりする。

 本賞の条件は緩い。奥付日が前年の6月1日から同年の5月31日までであること(とはいえ見落としが目立つ前年5月刊行の書籍については、後から読んで拾うことも少なくない)。そして日本語で公刊された単独著者による学術・学芸・教養書であること(範囲が広がりすぎるため編著・共著および翻訳書は除外。また、私自身が担当した書籍と、奥付に私への謝辞がある書籍も候補から外している)。

 年齢制限は設けない。過去の本賞受賞者も拒まない。書籍の刊行時に著者が亡くなっていても構わない。他の学術系の賞を取っている作品については、やや辛めの採点となるが重複受賞も妨げない。

 上記のうち、私が買うか、もしくは献本いただき、実際に読んだものを対象に、啓発された作品、感じ入った作品、教導を受けた作品を勝手に賞揚することが目的なので、残念ながら賞金・副賞はない。

 だから「おめでとうございます」ではなく、心の中でそっと「ありがとうございました」と言う。

2.政治・経済部門

◆候補作品

川中豪『競争と秩序』(白水社)2022/06
金成垣『韓国福祉国家の挑戦』(明石書店)2022/07
平野克己『人口革命』(朝日新聞出版)2022/07
野添文彬『沖縄県知事』(新潮選書)2022/09
若林悠『戦後日本政策過程の原像』(吉田書店)2022/09
板橋拓己『分断の克服』(中公選書)2022/09
烏谷昌幸『シンボル化の政治学』(新曜社)2022/10
西脇修『米中対立下における国際通商秩序』(文眞堂)2022/11
砂原庸介『領域を超えない民主主義』(東京大学出版会)2022/11
井上寿一『矢部貞治』(中公選書)2022/11
北村周平『民主主義の経済学』(日経BP社)2022/12
柳原正治『帝国日本と不戦条約』(NHKブックス)2022/12
岩瀬昇『武器としてのエネルギー地政学』(ビジネス社)2022/12
小野寺史郎『近代中国の国家主義と軍国民主義』(晃洋書房)2023/01
後藤啓倫『関東軍と満洲駐兵問題』(有志舎)2023/02
安中進『貧困の計量政治経済史』(岩波書店)2023/02
鶴岡路人『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』(新潮選書)2023/02
鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』(みすず書房)2023/03
中山俊宏『アメリカ知識人の共産党』(勁草書房)2023/04

3.社会・風俗部門

◆候補作品

佐藤文香『女性兵士という難問』(慶應義塾大学出版会)2022/07
三橋順子『歴史の中の多様な「性」』(岩波書店)2022/07
村瀬孝生『シンクロと自由』(医学書院)2022/07
鈴木貴宇『サラリーマンの文化史』(青弓社)2022/08
大澤絢子『「修養」の日本近代』(NHKブックス)2022/08
谷原吏『サラリーマンのメディア史』(慶應義塾大学出版会)2022/08
近藤祉秋『犬に話しかけてはいけない』(慶應義塾大学出版会)2022/10
森田勝昭『クジラ捕りが津波に遭ったとき』(名古屋大学出版会)2022/11
寺澤優『戦前日本の私娼・性風俗産業と大衆社会』(有志舎)2022/12
里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)2022/12
渡部純『<戦いの物語>の政治学』(風行社)2022/12
林晟一『在日韓国人になる』(CCCメディアハウス)2022/12
中森弘樹『「死にたい」とつぶやく』(慶應義塾大学出版会)2022/12
佐藤文彦『聖家族の終焉とおじさんの逆襲』(晃洋書房)2022/12
坪井秀人『戦後表現』(名古屋大学出版会)2023/02
王昊凡『グローバル化する寿司の社会学』(ミネルヴァ書房)2023/03
麻生武『6歳と3歳のおまけシール騒動』(新曜社)2023/03
舟津昌平『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房)2023/03
八束はじめ『汎計画学』(東京大学出版会)2023/03
李英美『出入国管理の社会史』(明石書店)2023/04
園田薫『外国人雇用の産業社会学』(有斐閣)2023/04
石岡丈昇『タイミングの社会学』(青土社)2023/05

4.歴史・思想部門

◆候補作品

阪西紀子『北欧中世史の研究』(刀水書房)2022/06
濱野靖一郎『「天下の大勢」の政治思想史』(筑摩選書)2022/06
瀧井一博『大久保利通』(新潮選書)2022/07
神谷正昌『皇位継承と藤原氏』(吉川弘文館)
星野博美『世界は五反田から始まった』(ゲンロン)2022/07
岡本隆司『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)2022/08
木下恵二『近代中国の新疆統治』(慶應義塾大学出版会)2022/09
池田憲隆『近代日本海軍の政治経済史』(有志舎)2022/09
家永真幸『中国パンダ外交史』(講談社選書メチエ)2022/10
小宮京『語られざる占領下日本』(NHKブックス)2022/10
稲吉晃『港町巡礼』(吉田書店)2022/10
井上寿一『矢部貞治』(中公選書)2022/11
平山優『徳川家康と武田信玄』(角川選書)2022/11
玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』(筑摩選書)2022/12
伊故海貴則『明治維新と〈公議〉』(吉川弘文館)2022/12
三谷宗一郎『戦後日本の医療保険制度改革』(有斐閣)2022/12
宇野重規『日本の保守とリベラル』(中公選書)2023/01
栗原優『ヒトラーと第二次世界大戦』(ミネルヴァ書房)2023/01
君塚直隆『貴族とは何か』(新潮選書)2023/01
東島誠『「幕府」とは何か』(NHKブックス)2023/01
猪木武徳『地霊を訪ねる』(筑摩書房)2023/01
山口航『冷戦終焉期の日米関係』(吉川弘文館)2023/01
王子賢太『消え去る立法者』(名古屋大学出版会)2023/02
池田真歩『首都の議会』(東京大学出版会)2023/03
宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』(NHK出版)2023/05
鈴木曜子『転換期の長崎と寛政改革』(ミネルヴァ書房)2023/05

5.自然・科学部門

◆候補作品

佐伯緑『What is Tanuki?』(東京大学出版会)2022/07
梅崎昌裕『微生物との共生』(京都大学学術出版会)2023/04

6.文化・芸術部門

◆候補作品

松井健児『源氏物語に語られた風景』(ぺりかん社)2022/05
吉田美和子『ダダ・カンスケという詩人がいた』(共和国)2022/06
長谷川章『桂離宮のブルーノ・タウト』(工作舎) 2022/08
中村隆之『第二世界のカルトグラフィ』(共和国)2022/08
三好賢聖『動きそのもののデザイン』(BNN)2022/09
尾崎真理子『大江健三郎の「義」』(講談社)2022/10
土田知則『二一世紀のパトリック・モディアノ』(小鳥遊書房)2022/10
諏訪部浩一『薄れゆく境界線』(講談社)2022/11
坂崎重盛『荷風の庭 庭の荷風』(芸術新聞社)2022/12
中村隆之『環大西洋政治詩学』(人文書院)2022/12
築地正明『古井由吉』(月曜社)2022/12
西村将洋『谷崎潤一郎の世界史』(勉誠出版)2023/01
西野嘉章『ことばとかたち』(東京大学出版会)2023/02
ハーン小路恭子『アメリカン・クライシス』(松柏社)2023/03

7.受賞作

◆金の神谷賞

里見龍樹『不穏な熱帯』(河出書房新社)2022/12

 私の学生時代、「学際」という言葉はまだなかった。

 様々な学問のキワに生まれる繋がりや反発にひどく興味を惹かれたが、そういった問題関心を満たしてくれそうな、大学で学べるひとかたまりの名前を持った学問ジャンルは、当時「文化人類学」だけだった。

 時間だけはいくらでもあったので、バイト代が入ると本を買い込み、それらをヒントにアジア各地へバックパッキングに出かけたり、ロングツーリングで日本国内を放浪したりしたが、諸々を学問的に深める力も方法も私は持たなかった。

 それだけに、東日本大震災からまもなく南太平洋へフィールドワークに出た著者が、そこでの体験から、人間の関与以前と以後の世界の在り方に思索をひろげ、自在に学問の分野を横断しながらまったく新たな人類学を編み出していく過程を羨望と驚異の思いで読んだ。

 タイトルもいい。読み物としても、物質的な意味での書物としても、その端々にまで何をどう伝えたいかという著者の細やかなメッセージがある。

 かつて夢中になった世界観の拡大や世界認識の伸張、それらを鮮やかに思い出させてくれた里見書に金の神谷賞を差し上げたい。

◆銀の神谷賞

板橋拓己『分断の克服』(中公選書)2022/09

 私のお手伝いした本が、とある賞の最終銓衡で板橋書と争った。差はわずかだった。しかし「ウクライナ情勢を背景にした今、本書(板橋書)を採るべき…」と銓衡委員たちは決断した、と仄聞する。

 悔しくはあるが、私もその意見に同意する。賞は時の運だ。「この本が取っていても良かった」といわれる作品があるのは構わない。しかし「この本が取るのはおかしい」と言われては賞の沽券に関わる。

 その意味で本書は文句の付けようがない。冷戦の終焉に伴う東西ドイツの統一過程を、西ドイツ外務省と、時のコール政権の外相ゲンシャーに着目し、西ドイツ外交のダイナミズムとして見事に描き出している。

 50半ばを迎え、多感な時期に自分が目撃してきた風景が歴史として描かれ、当時すでに名前も顔も承知していた国際政治のプレーヤーたちが何を考え、どのように振る舞い、如何に決断したのかを、史料的な裏付けと共に知る読書の面白さは無類であった。迷うことなく銀の神谷賞を差し上げたい。

◆鋼の神谷賞

森田勝昭『クジラ捕りが津波に遭ったとき』(名古屋大学出版会)2022/11

 すぐに思い出した。「あぁ、『鯨と捕鯨の文化史』(名古屋大学出版会)の著者だ」と。あれも凄い本だったが、本書は東日本大震災の津波で壊滅した石巻の捕鯨会社を主な舞台に、その後とこれからが描かれる。

 深い学識に立脚しながら描き出された、「不屈」としか表現のしようのない人間の強さや豊かさ、思いもかけない人の命のはかなさ、文化とビジネスと反捕鯨の狭間に立ったリーダーの決断などが、圧倒的なドラマ性をもって立ち上がってくる。

 一読、鋼の神谷賞は本書だと確信した。

◆政治・経済部門

川中豪『競争と秩序』(白水社)

 今期は東島雅昌『民主主義を装う権威主義』や中山俊宏『理念の国がきしむとき』(ともに千倉書房)をお手伝いした関係もあって、今さらのように民主主義の足許を見つめ直す本を大量に読んだ。

 今にして思えば単純かつ無邪気すぎる、東西冷戦終焉前の教育で国際政治経済や近現代史の常識(たとえばイデオロギーの二項対立や社会[経済]発展段階説みたいな奴)を形成してしまった私にとり、改めてそこから脱却して世界を眺め渡すのはなかなか骨の折れることなのだ。

 ともに民主主義体制にとっての利益と正義を持ちながら、時に相反しがちな自由競争と社会秩序のバランシングは国家の安定に欠くことのできない要素である。本書は、現在まさに世界各国で進行する「民主主義の後退」の遠因として、そのジレンマの様相を比較分析する。そうした作業を東南アジアという、私にもかろうじて土地勘のある地域の比較によって行ってくれたことも有難かった。

 「なにが民主主義をはばむのか。」という本書の帯の問いかけに、「そりゃあなた、民主主義を阻むのは民主主義でしょ」と喉元まで出かかるのを何度も我慢した(苦笑)。

鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』(みすず書房)

 版元による鈴木書の紹介に「近代化と資本主義の内に、アディクションを生み出す認知的なメカニズムが潜んでいるのだ」と脅かされた私は、なんだかいろいろ心配になって定価5830円の本書に手を伸ばしてしまい、なるほどこれがアディクションか、と得心した(笑)。

 個人の孤立が進む現代、その不安が人々の依存的傾向を加速させ、資本主義を不安定化させ、さらなる孤立と依存に向かうスパイラルを生み出すという前提には、いつか来た道、とでも言いたくなる嫌な感じの説得力がある。

 資本主義と規範の緊張感に満ちた関係、そして90年代以降の金融自由化、その放埒への流れを丁寧に解きほぐす作業から見出される道筋は、プラザ合意以降のバブル経済とその消長を体験し、近年も高橋和宏『ドル防衛と日米関係』(千倉書房)を編集した私にとって、身につまされるものであった。

 近代以降の社会哲学や政治思想(ホッブズ、ロックからマルクスまで)が次々登場して横糸を成す本書は、著者の巧みな筆づかいがなければ相当難解な書物になっていた可能性がある。複雑に入り組んだ事柄を、読みやすいシンプルな構造の文章で語るには、明晰な思考が必要だ。

 依存の対象がクスリやギャンブルばかりとは限らない。その行き着く果ては、面倒なことは何も考えたくないから独裁制でいいや、などという未来かもしれないのである。木鐸の書として読んだ。

中山俊宏『アメリカ知識人の共産党』(勁草書房)

 アメリカ政治研究の世界でも長らく捨象されてきたアメリカにおける共産党の歴史をたどり、そこにシンパシーを抱いた知識人の系譜をさぐる作業が、分裂の進むアメリカ社会を解析する上で、どれほど高い価値を持っていたか、それがこの20年のアメリカの変容を経る中でどれほど意義を深めたか、着眼と分析の鋭さをどれほど賞揚しても足らない。

 同世代に属する旧知の著者の急逝に衝撃を受け、本書とほぼ同じタイミングで、中山俊宏『理念の国がきしむとき』(千倉書房)を編集していた私が挙げるのは適切ではないのかもしれない。

 それでも来年のアメリカ大統領選を前に、叶う限り多くの人に読んで欲しいと念じている。

◆社会・風俗部門

坪井秀人『戦後表現』(名古屋大学出版会)

 あまりの長さゆえ、ひとくくりには手をつけかね、どうにか総括できないものかと思いながらいつも立ちすくんでしまう「戦後」。坪井書はそこに鮮やかな補助線を引いてみせる。

 日露戦争から大東亜戦争に至る戦中の詩歌から筆を起こし、復員、強制収容、ヴェトナム戦争、転向、変態、新人類、あるいは花田清輝、大江健三郎、高橋和巳、寺山修司、村上春樹、吉本ばななへといった具合に、折々の詩歌や小説、言説に現れたレトリックを手がかりに幅広く多様なアプローチを試みている。

 はや3世代にわたって直接的な戦争とは無縁であり続ける日本だが、この間も戦争を描こうとする表現者はあとを絶たなかった。省察か、想像か、同情か、観察か。書き手と戦争の距離感覚によって異なるそれらを重ね合わせてみることで、日本人の「戦後」を考える上で重要な視座が浮かび上がる。1989年を「転形期」と位置づけていることもユニークに感じられた。

 手にした当初、このテーマを語るにあたって本書の構成が最適なのかどうか疑問を抱いた。しかし戦後を語る際、得てして脇に置かれがちな「現在」(SEAL’sやオバマのヒロシマスピーチ、死者をめぐる東日本大震災後の言説など)をきちんと取り込もうとしていることに着目すると、腑に落ちるところがあった。

八束はじめ『汎計画学』(東京大学出版会)

 そもそも「計画」という言葉の響きには独特のチャームがあり、それはスケールが大きければ大きいほどいや増す。ロマンあふれるマッチョな計画は一歩間違えればすぐさま統制や動員に直結し、満州国だの大躍進政策だの困った帰結を招くことも多い。本書のテーマであるソ連の「5カ年計画」などその極みと言ってよかろう。しかし、その抗いがたい魅力は対立する民主主義陣営さえ魅了した。

 本書は、ソヴィエト政府が十月革命に引き続く内戦を経てNEPに至る中でイギリスやドイツから理論的モデルを学び、さらに様々な路線闘争や運動によって形作られていった経済、農業、工業、建築、文化芸術にまたがる巨大な「計画」の全容を、第一次5カ年計画の終焉をおおよその着地点に描き出す。

 レーニン、スターリンは言うに及ばず、トロツキー、ブハーリン、マヤコフスキーなどはまだいいほうで、有名無名の登場人物や組織があまりにも多いので、所々ノートに模式図を書かないと関係性や時系列がなかなか頭に入ってこない。しかしそこがいい。本読みとしての咀嚼力が問われる、歯ごたえのある読書の醍醐味を堪能した。

 なお、本書は超巨大な「汎計画学」のソヴィエト・ロシア篇であり、次回作の主題は戦間期アメリカの由。となるとテーマはアレだよなぁ。こちらも期待したい。

園田薫『外国人雇用の産業社会学』(有斐閣)

 研修制度や看護師受け入れなどをはじめ、すでに多くの事件や問題が山積しているテーマに、社会学と経営学の観点から切り込んだ好著で、板橋書と一緒に銀の神谷賞にしようか、ギリギリまで思案した。

 突き詰めると日本人論、日本型組織論にまで射程が伸びる深い論点を内包しており、私が新書編集部の所属なら即座に執筆依頼に行っている。著者と相談しながら問題関心をいくつかに分けて絞り込み、語り口と事例を工夫すれば相当面白い新書が二、三冊書けてしまいそうだ。

 「雇用関係のなかの「同床異夢」」というサブタイトルは、じつは日本人サイドに立ったとき初めて現れる視点であり、「外国人が日本で働くこと」と「日本人が外国で働くこと」には、おそらく根本的な差違があるのではないかと想像させられた。

 また、作法に則ったお行儀の良い日本語タイトルより「The Fragile Employment Relationships: Sociology of Work and Organization in Regards to Employing Foreigners in Japan」という英文タイトルのほうが、本書の主眼と著者の問題意識をより鮮明に表しているような気がする。

◆歴史・思想部門

稲吉晃『港町巡礼』(吉田書店)

 2015年に『海港の政治史』(名古屋大学出版会)で藤田賞を受賞した著者の第2作。学術と文芸のバランスがとれた、よくこなれた筆で15の港の来歴を読ませる。

 1章が函館から始まるので、単純に北から南へ向かう港町紀行かと思えば、さにあらず。函館で「国際社会への参入」が、横浜で「条約の運用」が、広島で「軍隊との共存」が、基隆で「植民地経営」が語られることからわかるように、近代日本の成長という大きな時系列に沿って物語は進む。

 故郷を離れる移民たちの希望と惜別の港・神戸、留学先あるいは亡命先としての日本の窓口・長崎、遠洋漁業と捕鯨を下支えした下関、国家と軍拡に依存した鎮守府の港・舞鶴、人と物の集積地・東京。いずれの記述も史料に拠りつつ余情ゆたかで好ましい。

王子賢太『消え去る立法者』(名古屋大学出版会)

 現在お手伝いしている、そしてこれからお手伝いが始まる書籍のため、おぼつかない足取りで西洋政治思想の読み直し中(ようやくホッブズにたどり着いたところ)だった私にとって、冒頭、モンテスキュー、ルソー、ディドロの政治理論と歴史認識の関係を探求する、と宣言する王子書は泣けるほど高い壁であり(そもそも本書に出会うまでディドロを知らなかった)、とにかく傍らに中公クラシックスの『法の精神』(井上堯裕訳)と『人間不平等起原論・社会契約論』(小林善彦・井上幸治訳)を置きっぱなしにして、本書との往還に努めた。

 正直に告白すると、本書を読んで、パズルのピースがはまるように何かはっきりしたことがパチンとわかる、という瞬間は訪れなかった。ただ、グローバリゼーション、サプライチェーン、情報通信などが近代以降の個人と共同体の関係性(相互に対する意識)を大きく改変した、あるいは、すると思われている時代への非常に根本的な示唆が含まれており、おそらくそれは本書がいま改めて「消え去る立法者」と題されたことと無関係ではないのだろうと拝察する。

 今後、私は本書の第5章「社会契約への遡行、社会契約からの反復」に、繰り返し立ち戻ることになるような気がしている。

◆自然・科学部門

梅崎昌裕『微生物との共生』(京都大学学術出版会)

 小学校の家庭科以来、栄養のバランスだの五大栄養素だの教え込まれてきた私は、食生活の大半をサツマイモに頼る人々は、どうやって筋肉を発達させるのか、と真正面から問われて立ちすくんだ。あれ、タンパク質はどうやって補給しているのだろう。確かに気になる。

 著者は調査対象であるパプアニューギニア高地人の集落に入って、彼らと同じ食生活を送るが次第に様々な不具合を生じる。それは日本の食生活に慣れた日本人の体内にサツマイモで同じ機能を果たす為の仕組みがないからだった。では、パプアニューギニア高地人の身体の中ではいったい何が起こっているのか。

 ヒントは微生物。その共生のメカニズムこそが「ホモ・サピエンスが適応と進化を繰り返すなかで獲得してきた生存システム」なのだという。腸内環境のことをフローラ(flora)と呼ぶことは割と知られていると思うが、もともと植物相を表すこの言葉を当てたのは言い得て妙としか言い様がない。

 本書は京都大学学術出版会が刊行するシリーズ「生態人類学は挑む」の9冊目になる。どれもユニークで興味深い。一読をお勧めする。

◆文化・芸術部門

松井健児『源氏物語に語られた風景』(ぺりかん社)

 「源氏物語」をめぐっては、それこそ10年とか15年に一度くらい、驚くような発見や知見を盛り込んだ書籍が刊行されて、感興を新たにするのだが、松井書は近年の白眉と言ってよい。

 1986年の尾崎左永子『源氏の恋文』(求龍堂)は例えとして適切でないかもしれないが、2007年に河添房江の『源氏物語と東アジア世界』(NHKブックス)を読んで以来の個人的ヒットは確実。

 これまで我々は平安仮名による散文で描かれた源氏の風景を、描写という近代的作法に則って読み、感じ、味わってきた。それを今一度分解しようというのが本書の野心的試みである。

 それは往時の人々が感得していたはずの知覚世界を追体験する旅路に他ならない。よくこんなことを思いついたなぁ、と感心して調べたら、著者には『源氏物語の生活世界』(翰林書房)という著作があり、同書は2001年に紫式部学術賞を受賞しているではないか。なるほど、と得心した。紫式部のお墨付きなのだから間違いない。

中村隆之『環大西洋政治詩学』(人文書院)

 荒木圭子『マーカス・ガーヴィーと「想像の帝国」』(千倉書房)をお手伝いした折、BLM運動の背景を少しかじった。解放と連帯を希求する、苦悩に満ちた長い闘いは今日においてもなお実を結ばず、あるときは暴力や非合法な手段ともあいまって弾圧を受ける歴史を負ってきた。

 著者は、そうした運動の姿を、20世紀の知識人たちが言語、言説、文学、それらをひっくるめた「詩学」によって如何に政治と架橋してきたか、そこにどのような意図と価値判断があったのか、といった問題に応えながら解きほぐしていく。

 もうひとつ。この問題を考える上でやはりフランスの存在は極めてユニークだと感じる。素人は、無理してインド太平洋国家を名乗らずともアフリカに地歩を固めれば国際安全保障上も独自のポジションを確立できるのでは、と思ったりした。

8.総括

◆いつも息抜きのように専門違いの自然・科学書へ手を伸ばしてしまうのだが、どうも今期の読書はそちらに向かわなかった。一方で、文化人類学に対する偏愛が数十年ぶりに大爆発といった感じである。

 金の神谷賞の里見書、鋼の神谷賞の森田書、自然・科学部門賞の梅崎書、そして候補作の中にも社会・風俗部門の近藤祉秋『犬に話しかけてはいけない』(慶應義塾大学出版会)など、関連する書籍は引きも切らず。何故そうなったかは自分でもよく分からない。

◆ながらくノンフィクション・ドキュメンタリータッチの作品を候補にすべきか否か悩んできた。2020年には、梯久美子『サガレン』(KADOKAWA)を逡巡の末、外したが、どのあたりに線引きをしたら良いのか迷いは晴れなかった。

 今期は試みに、社会・風俗部門で林晟一『在日韓国人になる』(CCCメディアハウス)、歴史・思想部門で星野博美『世界は五反田から始まった』(ゲンロン)を挙げている。このあたりを境界線にしてみようかと考えているが、次期以降のことは分からない。

◆文化・芸術部門で中村隆之さんが『第二世界のカルトグラフィ』(共和国)と部門賞受賞の『環大西洋政治詩学』(人文書院)の2作品エントリー。思い出す限り複数作品の同時エントリーは初めてではないか。気がついたので特記。

◆あぁ、また10000字も書いてしまった。ここまでお読みくださったみなさまに心よりの感謝を。みなさまに今年も良き書籍との出会いがありますように。

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