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SFから語り起こす自叙伝

(2021/09/28記)

 アポロ11の月面着陸と三ヵ月違いで生まれた私は、幼稚園の卒園文集に将来の夢を「宇宙飛行士」と書いた。

 小学校の低学年から「宇宙戦艦ヤマト」にズブズブにハマり、世間が「逆コース」「軍国主義の再来」などと同作をぶっ叩いていることなどつゆ知らず。

 小学校高学年に上がる頃には「銀河鉄道999」へ。そして小学校五、六年、中学校一年が「機動戦士ガンダム」の劇場版三部作の年で、すべて今は亡き大船オデオンへ見に行った。

 当時SFに耽溺するのは小学校高学年男子のたしなみで、星新一と小松左京を出発点に、そこからどう読み進めるかは各自に委ねられた。

「狼男シリーズ」の人気は高く、「幻魔大戦」の映画人気も手伝って平井和正さんへ向かう一派がいた。

「霊長類南へ」は冷戦華やかなりし時代、小学生の意識にさえ染みついていた核戦争への恐怖を背景にした名作だが、ナンセンスから「七瀬シリーズ」のようなドラマまで描ける筒井康隆さんのファンも多かった。

 私は「マイナス・ゼロ」「ツィス」で広瀬正さんにいかれた口だが、NHKの少年ドラマシリーズの原作と言うことで「謎の転校生」「狙われた学園」の眉村卓さんにも惹かれた。

 ifモノでは「マイナス・ゼロ」と並んで「モンゴルの残光」が出色だったが、それでいて「タイムケンネル」のようなジュブナイルにも卓抜した筆を振るった豊田有恒さん。

 そして星新一さんに見出され瞬く間にスターダムに駆け上がった「星へ行く船」「……絶句」「グリーンレクイエム」の新井素子さん、「ダーティペア」「クラッシャー・ジョウ」で「グインサーガシリーズ」の栗本薫さんとともにスペースオペラの時代を切り開いた高千穂遙さん。

 海外勢なら「夏への扉」のハインライン、「ファウンデーション」「鋼鉄都市」のアジモフ、「幼年期の終り」「2001年宇宙の旅」のクラーク、「火星年代記」「たんぽぽのお酒」のブラッドベリ、「宇宙の眼」「高い城の男」のディック……

 濫読時代を迎える私は、上記の作家たちのその他の作品は勿論、矢野徹「折り紙宇宙船の冒険」、光瀬龍「征東都督府」「百億の昼と千億の夜」、山田正紀「神狩り」「機神兵団」、川又千秋「火星人先史」「宇宙船メビウス号の冒険」「邪火神」、山尾悠子「オットーと魔術師」、荒巻義雄、石原藤夫、野田昌宏、半村良、田中光二、堀晃、横田順彌、高齋正、エドモント・ハミルトン……とにかく何でも読みまくった。

 当時の私にとってはゲーテ「ファウスト」、安部公房「砂の女」「第四間氷期」、三島由紀夫「美しい星」、稲垣足穂「一千一秒物語」、渋澤龍彦「うつろ舟」「高丘親王航海記」もみんなSFだったが、石川淳の「佳人」をSF扱いしていたのは、今となっては完全に誤りだったと言わざるを得ない(笑)。

 そのうち、自分でさまざまな設定を作るようになった。ハル・クレメント「重力の使命」とラリィ・ニーブン「リングワールド」の影響は大きかった。

 恒星と惑星の位置関係、重力の過剰な世界で生命がどのような形態を取りうるか、衛星軌道の計算などなど、科学的に追求された舞台設定と、そこから導き出される物語の面白さに、徹底的に引きずられた。

 同じ頃読んだノンフィクション、立花隆「宇宙からの帰還」と大林辰蔵「宇宙に夢中」から受けたインパクトもバカにならない。

 こうしてちょっと作文が得意なだけだった子どもは、SFを入り口に、自分はモノを書いて生きていくのだ、という壮大な勘違いの一歩を踏み出した。

 しかし、まもなくSFはサイエンスフィクションの枠を離れ、まさに「SF」としか言いようのないところへ向かう。そしてテレビアニメとオリジナルビデオアニメ(OVA)の劇的拡大によって圧倒的な多様化とビジュアル化が始まる。

 中学生のとき、大友克洋「童夢」、そして「AKIRA」に出会い、まもなく士郎正宗「攻殻機動隊」が、私の中のSFという世界観そのものを塗り替えていく。「AKIRA」「攻殻機動隊」の連載は私の中学、高校、大学時代までを貫いており、社会へ出る頃には内田美奈子「BOOM TOWN」くらいまでには一般化していった。

 それでも血気盛んな青二才は「自分にもまだ何か表現できることがある」と思い込もうとしていた。

 これはヤバイ、と思った最初はヘッドギアだったかガイナックスだったか。どちらが先だったか調べもせずに書くが、前者の「機動警察パトレイバー」、とくにthe movie2と、後者の「王立宇宙軍」、次いで「トップをねらえ!」には言いようのない焦りを感じた。

 おごりも極まれりという感じだが、恥を忍んで言えば「自分のやりたかったことをやられてしまう」と本気で思ったのだ。

 自分が創作を諦めるのは、並行して書いていた小説が齢30近くなっても各新人賞の一次選考にすら残ることがなく、相談した編集者に「物語としての構成がきちんとしていれば、最低でも一次には残るよ。引っかからないと言うことは物語の構造の根本に問題があるんだと思う」と指摘されたことだった。

 そして、それまで作っていたノートやスケッチをすべてズタズタに破って捨てさせ、完全にとどめを刺したのがアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」、そして「攻殻機動隊SAC」だった。

 私は未だに、なんの事前情報もなく全く偶然見てしまった「エヴァンゲリオン」テレビシリーズの第一話から受けた衝撃を忘れることができない。

 この両者は自分が考えていたこと、面白いと感じることの遙か遠く先を行き、それ以上の何かを自分が創造することは出来ないという確信を私に与えた。

 劇場版『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』でも、劇場版『鬼滅の刃 無限列車編』でも泣かない私が、今でも「攻殻機動隊SAC」の第二話「暴走の証明」、第三話「ささやかな反乱」、第一二話「タチコマの家出」などを見るとこみ上げるモノを抑えきれないのは、そうした挫折感も与っているはずだ。

 私は痛切な思いとともに、押井守さん、庵野秀明さん、神山健治さんを尊敬している。彼らの作品を同時代に見ることができるのはおそらくとても幸せなことなのだろう。

 島本和彦さんの「アオイホノオ」に渦巻く息苦しさを、私は何十分の一か理解できるつもりでいる。同じ大学、まったく同世代に庵野さんたちのような才能がいたら、クリエイティブを志す人間として到底耐えられないと思う。

 それでも折れず、曲げず、嫉妬に身を焦がし、七転八倒の末に「炎の転校生」「逆境ナイン」「燃えよペン」などを世に送り続けた島本さんはスゴい、と、感じている。

 さてさて、何処にでも転がっている、そして創作者として何事も成さずに終わる人の典型的遍歴、お笑いぐさを長々と供してきた。

 では自分には何事も描き得ないと完全に諦念した私はどうなったか。

 今や一介の武弁ならぬ編集者となった私は、自身が人生をかけて関心を寄せ、面白いと信じるものを書こうとしている研究者を求めて鵜の目鷹の目だ。独りよがりでなく、世に問うに足る価値をもつと思われるテーマを、我が事として胸に抱く書き手の仕事を手伝いたい、と渇望している。

 これは私の編集者としての原点、根源である。

 ときおり小山宙哉さんの「宇宙兄弟」をパラパラめくり、アポロ11からずいぶん遠く離れてしまったものだとため息をつきつつ、それでも、自分が死のうが、国が滅ぼうが、この世界に爪痕を残し、その普遍的価値を敢然と証立てようとする作品を求めて「漂う編集者」の挑戦は続く。

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