物語が降ってくる
(2020/07/13記)
過日、島田雅彦さんのトークにお邪魔する機会があって、氏の小説作法の根っこのようなお話を伺うことが出来た。
印象的なフレーズはいくつもあったが、私がとりわけ関心を引かれたのはおおよそ次のような話である(メモから再構成しているので、あくまでもこんな感じの話だったということです。この通りの順番、口調でお話しされたわけではありません)。
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小説は主人公、語り手、作者といった具合に分裂した、あるいは多層的な語りの構造を持っています。
私はどこにでもいる、退屈で、不機嫌な、ただの中年ですが、小説の中では少女や老人やスパイにもなります。
それを描き出すには憑依する技術がいるわけです。あるいは意識のコスプレといってもいいでしょう。
個性は個人の来歴や記憶に由来し、人物造形にあたっては、それを引き受ける覚悟が必要です。
もしその没入が浅いものであれば、ただの書き割りになってしまうでしょう。
だから書き手は、そのいちいちに逐一憑依し、語りに没入しなければならない。そのとき書き手の中では高速度で人格が入れ替わっているのです。
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この話を聞いて真っ先に思い出したのが栗本薫さんだった。彼女も創作や人物造形においては、圧倒的な没入(コンセントレーション)が必要だと語っていた。
評論活動を行う中島梓と、作家・栗本薫を完全に使い分けた彼女は、まさに憑依する創作者としての自分(栗本)を客観視する自分(中島)という人格の二重構造を生きていた。
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小説は違う人がやってるから……。ただ、書き終わった直後というのは、まだ着地していない(現実に戻ってきていない)んですよ。
いちばん神経質になるのが書きはじめて10枚くらい。それからクライマックスの部分の間に邪魔が入ると人間じゃなくなりますよ(笑)。それはあまり経験しない方がいいんじゃないかと思うくらい。
以前、うちの旦那がそれにぶつかってしまって、あとで聞いたら青い雷がまわりで鳴ってるって言ってましたけど。だから、その辺はちょっと常ならぬ力を使っているんだろうな、って思います。
音速で飛んでいる飛行機みたいなものなんですよ。だからなにか支障があると真っ逆さまに墜落してしまうんです。きりもみ状態ですから自分ではケアできないんですよ。
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いずれ機会があったら島田さんにお尋ねしてみたいのだが、上記のインタビューをしたとき栗本さんはこうも語っている。
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大学生のとき、母たちと島根県の松江に行ったんです。きれいな町でね。ある小さな交差点で信号待ちをしていたんです。その瞬間、パッとトリップがきたんですよ。
そうしたら私はそのとき、松江で生まれて死んでいく女子大生なんです。もちろん、その前は子供で、もっと前は赤ちゃんで、その後、松江で結婚するんだけれど、松江の家から松江の家へ嫁いで、そこでお婆さんになって一生を終わって死ぬ、という人生が全部、一本の道になって見えたんです。
走馬灯ですね。何か、本当にそこ(松江)にいた誰かの一生がそのまま頭の中に流れ込んできたような気がしました。
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果たして、島田さんにも、巨大な物語が突如自分の中に降りてきて(島田さんなら、インストールされて、とおっしゃるかもしれない)、その物語を速記者のように書き綴っていくという経験があるのかどうか。
とても興味深い。
この話を書評家の青木逸美さんにしたら、自分も作家へのインタビューでそうした話を聞いたことがあると言う。
『この時代小説がすごい! 2016年版』(宝島社)巻頭で、この年、文庫書き下ろしランキングで第一位となった竹内涼さんにインタビューした際のことである。
彼女は、映画やテレビ制作の現場にいた経験を持つ竹内さんに、そのことが執筆に関係しているか尋ねた。
竹内さんはデビュー作である『忍びの森』(角川文庫)を引き合いに、以下のように答えている。
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『忍びの森』を考えた時は、(公園のベンチに座っていたら)映像で全体の流れが見えたんです。頭の中で3時間以上の映画がノンストップで再生された感じでした。
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作家は、それぞれ多様な創作の根っこを持つモノと思う。
その昔、栗本さんのエピソードを披露したら、水上勉さんには言下に否定されたところをみると、突如現れる走馬灯(笑)が創作のスタイルや筋道として普遍性を持つとは言いがたいようだ。
が、同様の経験を持つ作家は少なからずいる(私がインタビューしたかたの中では作曲家とアニメーターからも似た話が出たことがある)。いずれにせよちょっと面白い話ではある。
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