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喉元過ぎたトイペとマスク

また数日眠れない日が続いた。最長に眠れなかった日はある人の命日であった。きっと未だにこの人を想って胸を痛めて夜を過ごしている人がいるのだろう。なんてことを言い出したら一年中、誰かの命日だし、誰かの誕生日なのである。桜の木の下どころではなく地面はすべて死の堆積である。過剰に死を美化したり特別視したりするのはどうだろうかと思うがそんな人間の過剰さが死んだ瞬間になくなることが理解できなくてだからいつもこわい。幽霊が死んだことを自覚できなくて成仏できないのは考えること感じることをやめられないからなのかもしれない。全部やめた瞬間に消滅する。死がこわいのは考えることをやめられないこわさなのかもしれない。

コロナ禍でトイレットペーパーが不足していた頃に買ったメーカーが謎のものをようやく使い終わった。ピンクで花柄で香料付きのふだんなら絶対買わないやつだがそれしか売ってなかったのだから仕方なかった。素材が良くないんじゃないかと思ったけどそうでもなく不便は感じなかった。一方、マスク。ついに箱で買っていた60枚入の安心メーカーのマスクがなくなり、とりあえず買っておいた謎のメーカーのマスクを使うことになったのだが、これはかなり素材が悪い。最近、マスクによる肌荒れのケア情報が散見されるのはこの手の謎の粗悪品による肌荒れに違いないと感じる。ドラッグストアにはだいぶマスクも戻ってきてるが去年まで当たり前に使っていたメーカーのマスクはない。鼻セレブマスクが恋しい(一応まだ2枚ほど残っているがこうなると使えない)。安全マークーー検査済みみたいなものが選択基準。粗悪品は廃棄して、いま売り出しているものを買い直そうかなあなどと考えてる時間や脳のストレージがもったいな気がしてならない。パソコンが動かなくなってきてストレージを見ると不明なものが容量を占めている。その不明な部分。こんなくだらないことしか考えないのだったら消滅しても惜しくないんではないか。

このストレスによって今度はちょっと良さげなスキンケア商品に目がいくようになった。私はボタニカルというワードに弱い。気の利いたことをまったく考えつかずボタニカルというよくわからないワードで無駄な消費を行ってしまうつまらない人間はすごい人に会うことでエネルギーのおすそ分けをもらって生き延びて来た。リモートだとそれができない。最近、ようやく対面取材ができるようになって、エネルギーのある人に会っているからか、大きな画用紙に絵を描きたくなった。iPadではなくて大きなスケッチブックに鉛筆で描いたり、水彩絵の具を大胆に乗せていくセツモードセミナーでやっていたようなことをしたくなった。たぶん、人と直接会うようになって身体感覚が拡張したのだろう。

役に立たない日々の記録であるが、例えば同業のライターの人やライターを目指す人がなぜかここを見てしまったとき、自分のほうが断然いけるという安心材料になるという点では役に立っているのではないだろうか。





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