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空き地探偵

空き地探偵はじめました。とか言いたい。はじめてないけど。はじめる兆しもないけど。

空き地はふいに現れる。元に何があったかわからないことがよくある。一向に何にもならない空き地に生えている意味のない雑草が好きだ。湾岸は空き地とビルがなにひとつ調和を考えずに各々勝手に存在しているような気がして寄る辺ない。誰とも交わらない感じ。埋立地で歴史が浅いからか借り物感がある。住宅展示場的な。でも西日が当たって黄ばむと少しだけ取り付く島ができる。朝、モノレールに乗ったときの海辺のキラキラはどこかドラマくさい。もちろんフジテレビのドラマ。

今日から朝ドラが再放送になった。副音声があるというからいつものように起きて聞いたが特筆すべきことはなかった。違う原稿を午前中に1本書いた。朝ドラレビューを書かない月曜日の朝。といっても年末年始は書かないからまだ実感がわかない。実感がわくのは1、2週間経ってからだろう。仕事がなくてすることがないという数ヶ月前のみなさんのような実感はまだないし、することなくて断捨離、ネトフリ三昧ってことはもはやないだろう。第2波さえ来なければ。どのみち来ようが来まいが元の生活はもう来ないだろう。それはふいにできた空き地か。空き地に建った新しい建物なのかどっちだろうか。

配信でKAAT『「未練の幽霊と怪物」の上演の幽霊』を見た。いまの国立競技場は上から見ると0の形状をしていると言うセリフがあって驚いた。知らなかった。千駄ヶ谷のあの土地に巨大な0を作ってしまったのか。0といえばグランドゼロを思い出す。02年に映画の撮影でニューヨークに行ったとき立ち寄ることができたのは良い経験であった。火事のあった土地みたいな重さがあった。ニオイなのかなあの重さは。

ところで千駄ヶ谷。東京の真ん中の巨大な0。それはまずかったんじゃないか。去年の11月に完成した頃、たまたま囲いに囲まれたそれを見る機会があった。すぐ下の地下鉄の駅もなんかリアリティーがない。映画のセットみたいだ。人が入って使って汚してホンモノになっていくものとはいえ。競技場の竣工式は12月。世界で新型コロナの感染者がはじめて確認されたのは12月末らしい。符号を感じてちょっとこわい。

『「未練の幽霊と怪物」の上演の幽霊』は配信だけどすごく練られていた。いつか劇場で完成版を見たい。

去年の11月に立ち寄った国立競技場からコロナ禍がとりあえず第一波収束した時期に国立競技場のことを描いた演劇を配信で見たことで、この記録も一旦終われそうだ。

今年に入ってコロナでざわつきはじめ、高齢者が亡くなっていくということが心配された頃、母親が珍しく電話をしてきて、これは現代の姥捨山だと言った。最近、めっきり元気がなくなっていたのに、絶対生き残ってやるみたいなことを言い出した。逆境に燃えるたちなんだなとこれまでの歴史を思った。身内のなかで一番しっかり者で誰かのために生きてきた人である。そういう人はもうひとりいて、それはもうずっと前の6月のビヨウヤナギが庭に咲いて雨に濡れていた頃に亡くなった祖父。身近な人の死をはじめて経験したのが祖父。生き物だったらウズラ。昨日まで普通にかごのなかでぼーっと生きてのに次の日にころんと横になっていた。庭の椿の木の下に埋めた。

自分で0にするのはいいけど他人に0にされたくない。



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