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2022.01.28

ぼくの短歌を無断に流用して、詩として呟いている人がいるのを観測した。

このことについて、ぼくはどういうスタンスを取るべきだろう、と考えていた。その人はぼくのもともとのフォロワーであるし、ツイキャスにも来ていたし、DMをよく送ってきていた。その上での流用なので、おそらく意図的ではあると思う。問題は、フレーズを流用されていることで、例えばキャッチコピーは著作権を認められないことが多いのだけど、そしてぼくは自分の書いたものをキャッチコピーとは思っていないけれども、それでもその創作性を理解されがたいフレーズであるとは思っている。例えば、「愛はコンビニでも買える」というスピッツの「運命の人」の歌詞は、名詞自体は平易なのに、組み合わせによって見たことのないものが生まれている。これもそこにメロディが付与されることで著作物として認められているのであって、これが短歌であったら途端に著作としての実存性は薄らぐ。更にいえば草野マサムネという個性があってこのフレーズは強力に個性を帯びるのだけど、あいにくぼくは本は出しているとはいえ、一Twitter人(いちついんちゅ)でしかなく、圧倒的にマイナーな人間だ。俵万智の「サラダ記念日」であったり、穂村弘の「ゆひら」であったり(これも世界の総体ではマイナーな部類かもしれないが)は、人口に膾炙しているうえに、どちらかといえば名詞的言語の発明だ。一方で今回のものはもう少し長いフレーズである。とはいえ、その流用された言葉が、本当にぼくのオリジナルと明確に断言できるのか、と詰め寄られたら「そう思いますが……」と萎縮してしまうだろう。少なくともTwitterで調べた限りでは、ぼく以前にそういう語法を使っている文章はなかったとはいえ、である。日本語には助詞がある。助詞を変えることによって、いくらでもニュアンスの違うフレーズを作れる。検索のしようがない。短歌と著作権の話は定期的にもちあがる。ブログで感想を書くために他人の短歌をもってくるのは引用、自分の感想もなく並べるのは転載。そのグレーゾーンをいつでも行き来している、言わば綱渡りのようなことをしている。現段階では、ぼくは自分の短歌も「かみしの」というTwitterについても、自由に二次創作してください、というスタンスだ。ただし、元ネタとして言及、引用はしてほしい、それはなんというかリスペクトの問題だ。

明確に流用されたものだけでなく、その他の詩についても、ぼくのツイートを参照しているんだろうな、とはぼんやりとわかる。ぼんやりと、なのだ。パクりですよ、と突きつけられるほど明確ではない。こうやってくどくど書くことも、本当はしたくない。だけど、このことについて言及することで、ぼくに強烈に恥ずかしい、と意識させるこの感情を引き受けることが作者の、ぼくの責任だと思う。自分の創作物によって世界に生み出された何ものかについての感情を引き受けることが、作者の責任だと思うので。

曲がりなりにも魂にろ過させて書いたものの上澄みだけを掠め取られ、それで受賞されるのはかなしい。ただかなしい。ぼくのこのかなしい、という感情をあなたは背負えますか?

※2月2日 この件について、和解をいたしました。問題提起・記録として残しておきたいと思います。一部削除した箇所もありますが、ご了承ください。

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