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第五回毎月短歌(2023年11月)

自由詠

突然に「好き」と言われて飛び出したハートは黒ひげ危機一髪だ/くらたか湖春

「好き」と言われて、どきどきする状況になって心臓のある位置からハートの記号が飛び出してきたり、あるいは口からハートが飛び出してきたり、そういう漫画的な描写というのがあって、そうしたリアリズムが現実に逆輸入されているのがまず面白い。さらに、そのハートが「黒ひげ危機一髪」であるという比喩もまた面白さを加速させる。なんとなく二人きりの情景かな、とは思うのだけど、黒ひげ危機一髪はパーティーゲームだし本来は大人数でやるゲームなのだと思う。きみ以外の人が刺した言葉の剣はひとつもささらなかったけれど、きみの不意の言葉だけがわたしには刺さった。運命みたいなものを表現するのに、とてもいい道具の選択だと思った。

花柄に花柄合わせるばあちゃんが真摯な姿勢できゅうりを選ぶ/琴里梨央

花柄に花柄を合わせる、というのはたぶんあまりないことなのだと思う。それでもそういう組み合わせを選んで服を着る、というのには好きなもの好きなように着ることへの意志を感じる。そうやって生きているおばあさん、というディテールの提示がまず効いていて、そんなおばあさんがきゅうりを選んでいる。それも「真摯な姿勢で」である。ぼくとしては、きゅうりは結構生活的な野菜であるように思う。ひとつひとつの生活を、手を抜くことなく、しかも強制されずに過ごす、という生活の強度を感じさせる歌だった。

マフラーの巻き方変えてみたけれど凝れば凝るほど自分じゃなくなる/古城えつ

マフラーの巻き方を変える、というのは料理においてはちょっとした味変みたいなもので、本来は変革がもたらされるはずなのだけど、あくまでそれは自分という範疇でのことだ。ハンバーグに多少ナツメグを加えようが、ハンバーグには違いない。どんな服を着たって、どのように着たってわたしはわたしだ、という自己同一性があるからおしゃれを楽しめるのだけど、あまりに凝りすぎたせいで、もはや外装だけじゃなくて中身の、わたしのわたしらしさすらもわからなくなってしまう、という感覚にぼくは覚えがある。「けれど」の前後が逆接ではなく、少なくとも見かけ上は順接になっている、という意外性を面白く思った。

「食」

メイドカフェで出されたオムライスの味が驚くくらい母のに似てる/宇井モナミ

母、つまり家族という圏域とはまったく別の場所にあるはずのメイドカフェという仮想/仮装空間で、不意に現実っぽい、生っぽいものに出会ってしまう悲喜劇だ。それにしても「驚くくらい」という形容に、その衝撃の計り知れなさが表現されている。そうなってくると、この仮想現実は一気に嘘っぽく見えてきて、萌え萌えきゅん、みたいなお呪いにも家族の顔が重なって見えてきたりするのだろう。ちっとも心が休まらない。

たらこスパぐるぐる巻いて神様はこうして銀河に星をこぼした/ぐりこ

『古事記』の冒頭には国産みの神話が語られている。イザナギとイザナミは地上に天沼矛を差し込んでかき混ぜることで国を作っていった。それに似た、神話的な発想が「たらこスパ」(スパゲティやパスタではなく略称)によってもたらされるということから、日頃から奇妙なことを考えていると伝わってくる。たらこの白いつぶつぶと星という連想。あるいは渦巻銀河と巻かれたパスタの発想。ちょっとした妄想によって、生活は楽しくなるんだ、と微笑ましく思う。

胃カメラの検査の前に麻雀の牌を食べるとしたら、四萬/深山睦美

奇妙すぎる発想で笑ってしまう。よくよく考えてみると白だと発見できないし、筒子だと腫瘍に見えて医者が焦ってしまうかもしれない。索子は繊維に見えるかもしれない。發なら異物感があるけれど、一文字より二文字の方が、より悪ふざけしている感じが出るかもしれない。多くの麻雀牌の中で、確かに四萬くらいが洒落としては向いているのかもな、とめちゃくちゃな発想の裏にある論理にユーモアセンスを感じた。

自選

サイダーを振って渡したあの夏に殺意がなかったとは言い切れず/高原すいか

炭酸飲料は青春とあまりに親和性がありすぎる。「桃色の炭酸水を頭からかぶって死んだような初恋」という田丸まひるさんの歌があるけれど、「死んだ」「殺意」という強い言い回しもまた、グラデーションをまだ発見できていない頃の全力さが伝わってくる。「言い切れず」というやや古風な言い回しは「言いきれない」とするよりも留まる力を生む。その時の「殺意」をまだ完全には手放せていないのかもしれない。

たたずんだ案山子のように非接触体温計もしずかな晩秋/くらたか湖春

非接触体温計はコロナ以降どこでも見かけるようになったのだけど、そこまでの脅威が失効した今となっては田舎の案山子と同じくらいに「懐かしい」ものとなっている。建物に入るたびに、案山子の風景が重なって見えてくる。その季節は確かに晩秋だと思う。しずかな、と晩秋がちょっと過剰かもしれないな、と思いつつも、またたたずんだ、と案山子も意味としては重なっているかな、と思いつつも、出会ったことのないであろう取り合わせを喩にしたところに魅力を感じた。

オリオンのくびれを見上げウォーキングコンビニ前の甘いカフェオレ/よしなに

オリオン座はもういいよ、と思うことがある。別に短歌とかでなく、あまりに星座すぎるからである。あんなにわかり易く三ツ星があり、厳密な建造物のようにリゲルとペテルギウスが対峙する。あまりに身近すぎる奇跡なのだ。なのに、ぼくはあの体型をくびれと認識したことはなかった。カタカナが多く、上の句と下の句が体言止めになっているその軽さに、胸がすく思いをした。健康のためのウォーキングなのに、甘いカフェオレを飲んでしまうくらいの軽さで世界をとらえることのくすぐったさが、よかった。

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