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土岐友浩『ナムタル』

ナムタル。聞き覚えのない言葉だ。その正体は、冒頭のエピグラフによって明かされる。「疫病をふり撒くナムタル」。これは中島敦の「文字禍」からの引用であり、アッシリア人の知る多くの精霊の中のひとつであるらしい。このナムタルは、メソポタミア神話では冥界の女王であるエレシュキガルの伝令としてもはたらいている。さらにナムタルについて語るなら、その名前はシュメール語で「運命」を意味し、擬人化した死として扱われているようだ。運命という逃れられなさそのものであるナムタルが歌集名に据えられていて、かつ古井フラの、時に人間に、時に魚に、時に鳥に、時に木々に、時に炎にも見える、揺らめく装画に真向かうと、思わずぞっとしてしまう。

先ほど、ナムタルは冥界と天界を繋ぐ使者であると書いた。あちらとこちらを行き来する伝令であるナムタルという存在には、何か境界のものとしての性質がある気がする。何かと何かの間に立って、見つめるもの。傍観するもの。それは干渉されない運命そのものであるナムタルだからこそ、佇むことのできる孤独なのかもしれない。

平成と令和のようにテディベアふたつ並んだ木の椅子がある
フィクションとノンフィクションの分かれ目の子午線に手を合わせるばかり

こういった歌に、対象と観察者の距離感、パースペクティブの程度を読み取れる。平成も令和も生きて、まさに今は令和の真っ只中であるはずなのに、その最中にあるのではなく客体化され、テディベアのようなかわいいぬいぐるみとなって椅子に置かれている。令和から平成を見るのではなく、令和でも平成でもないところからそれぞれを眺める。まるでスクリーンに映し出された映像を見るように。「モデルナ」「ワクチン」というコロナウイルスに関係する短歌も歌集にはある。あとがきにあるように医療従事者である土岐さんには、コロナウイルスに関して、まったく異なる世界が見えていたと思う。コロナに罹患したとはいえ、ひどい風邪にかかったくらいの影響しか受けなかったぼくにしてみれば、Twitterのタイムラインを流れていく様々な狂騒(としかいえないようなものたち)はフィクションめいていた。医療従事者の人たちにとっては、人の生き死にに関わるノンフィクションであったはずだ。それでも、ルポルタージュ的に歌うのではなく、その「分かれ目の子午線」に手を合わせるような場所に立っている。

ドン・キホーテに真冬の月がおちてきておちそこなって僕にぶつかる
気づくとは気づいたふりに近いことだろう だろうか パプリカを見る

すごくロマンチックな想像なのだけど、凍った冬の月が直接僕に向かうのではなくて、ドン・キホーテを逸れて偶然的にぶつかる、というちょっとした経由がある。なんでドン・キホーテなんだろうと思ったのだけど、ドン・キホーテのロゴにはドンペンが座る『ペーパー・ムーン』みたいな月がある。これもまた空想的な話だけれど同族かと思った空の月が、地上の偽物の月とひとつになろうとして、交流しようと落ちてきたのかもしれない。プラトンの『饗宴』にもとはひとつであったアンドロギュノスがまたひとつになろうと片割れを探す、という逸話が紹介されているけれど、ちょうどそれみたいなものだ。だとすれば、月は間違った番の元へ落ちたことになる。他者の物語に不意に巻き込まれる。まるでナムタル=運命が突然訪れたように。そんな気もしてくる。「気づくとは気づいたふりに近いことだろう」と一時は断定するものの、すぐに「だろうか」という疑問により距離を置き、『パプリカ』の鑑賞に入る。今敏の映画の『パプリカ』と、この思いつきの直接的な繋がりはわからない。だけど、人間の深層心理に潜ったり、夢という彼岸が溢れ出して狂気となったりするあの映画は、まさに境界が曖昧になることの驚異を描いている。「気づく」と「気づいたふり」の境界を融解させるように、『パプリカ』を観ているのかもしれない。ここでも「気づくとは気づいたふりに近いことだろう」という生な直感を、スクリーンに投射させている。歌集全体として、そういう抑えられたトーンを感じた。雲の歌が多いことがあとがきに書かれているけれど、真夏でも真冬でもない、どちらかというと春先のまだ寒さが残る季節くらいの温度感がずっと続く。

先程から映画の話題を出しているのは、個人的に土岐さんとは映画の話をしているから、という先入観がまったくないわけではないけれど、映画の歌が歌集に多いからでもある。『シン・エヴァンゲリオン』や『鬼滅の刃』、『ストーリー・オブ・マイライフ』みたいに直接作品名のあがる歌もあれば、次のような歌もある。これらは全部好きな歌だ。

退屈なロングショットが続きます。ツナおにぎりを半分食べる
幽霊になった気分でとめどないエンドロールに拍手をおくる

ロングショットの映画って、なんというか上級者向けな気がして、神妙な顔をして見た方がいいんだろうな、と思うのだけどそこでツナおにぎりを半分食べる、という絶妙なバランスに微笑んでしまう。映画の緊張したシーンではポップコーンを頬の内側で溶かすように食べる、というあれに近いものを感じる。わかめとか梅とかじゃなくて、ツナというのがいい。映画館でエンドロールを眺めるとき、どんな顔をすればいいかわからない。岡田斗司夫がやっていたように作画監督やスタッフを記憶するのもいいかもしれないのだけど、日本語ではない言語の映画となると、いよいよ他人の人生を眺めているような気持ちになってしまう、そんなとき、自分は確かに幽霊になったような気分になる。直前にシン・エヴァンゲリオンの歌があるからかもしれないけれど、あの長かったエンドロールを思い出す。まさにとめどないエンドロールだった。

以下は好きだった短歌だ。関西圏の、特に京都の歌がたくさん入っていて、懐かしくなった。

緑茶まで売り切れている真夏日の御池通を南に曲がる
こころからこころがこぼれそうになる北野天満宮を歩けば
地図をよく見れば見るほどまちがえて行きどまりには小舟が揺れる
これ以上モラトリアムをこじらせてどうする蝉の抜けがらを踏む
彗星が迎えにきてもあの狭いマクドナルドでくだぐだしたい
これからもマカロン、きっとふたりでは二元論から逃れられずに

コーラやアクエリアスはよく売り切れているけれど、緑茶まで売り切れか、と思うことはこれまでの人生で確かにあった。これはもう芯から夏の真夏日だ。御池通という水を名にし負う大通りを離れていく、というのにちょっとしたユーモアを感じる。北野天満宮といえば梅園が有名で、二月には見事な梅が咲く。やっぱり桜とは少し違って、そこには隙間がある。桜は散るけれど、梅はこぼれていく。地図を見れば見るほど間違える、ということはよくあって、そもそも東西南北を勘違いしていた、ということもある。でも行きどまりにも小舟が揺れている、というのはもしかしたら李白が落ちて死んでしまった跡のような水墨画っぽい不在の表象なのかもしれないけれど、まだ先に行ける、という希望のようなものに、ぼくには思えた。『イニシエーション・ラブ』や『少女邂逅』で効果的に用いられているように、繭や蛹はちょうどモラトリアムを感じさせる。すでに抜け殻になっているそれに固執する人間というのはたくさんいて、それを踏みにじることもひとつの通過儀礼のように見える。でも、結局は逃れられないのだと思う。「彗星が迎えにくる」というのも真冬の月が降ってくるたのと同じくらいにロマンチックな想像だ。ひょっとしたら『君の名は。』なのかもしれないけれど、ここで仮定されているのはきっと世界の終わりである。そんな超越的な状況がもし訪れたとしても、マクドナルドという青春みたいな場所でぐだぐだしていたい、という思いはやはりモラトリアムな感情だと思う。大雑把にマージナルマン(境界人)といってもいいのかもしれない。境界に手を合わせる存在としてのナムタル。けれど、マカロンの歌には綻びがある。マカロンはどら焼きやオレオみたいに上下にわかれる。そこでは必ずどちらかの側に立つことになる。「逃れられない」という認識は、本当は中庸というものはなく、したがって観察者という立場も本来存在していない、ということが痛いほどわかっている、ということが示唆されている。そうでありつつも、やはり観察するという立場を選ぶということの意志を感じる歌集だった。

一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、何故、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。

中島敦「文字禍」

文字の精霊を発見したナブ・アヘ・エリバ博士は、ついに現実のあらゆる物体がばらばらになっていく経験をする。せっかくひとつとのものとなった鏡像が、また寸断されていく。今ではゲシュタルト崩壊と呼ばれるこの現象に囚われた博士は、壮絶な最期をとげる。『ナムタル』の温度を下げている原因のひとつには、目次に明らかなカタカナの利用というものがある。意味をはらむ漢字はほとんど用いられることなく、表音文字のカタカナでほぼ統一された目次。「意味の無い一つ一つの線の交錯」として抽出されたカタカナが立ち並ぶ入口は、氷柱の垂れ下がった軒下のようにぼくたちを迎え入れる。

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