かみしの
2019.10.14

2019.10.14

かみしの

頭が痛かった。体調が崩れやすいので嫌になってしまう。『後拾遺和歌集』の雑歌の部を読んだ。

山のはに入りぬる月のわれならばうき世の中にまたは出でじを(源為善朝臣・雑857)

後拾遺和歌集では雑歌の部がやや多いように思える。全体の3分の1が雑の部である。あとで触れるけれど、その中でも神祇や釈教という部立て―内―部立てまで登場する。とはいえ、なぜこれが恋の巻ではないのか、これは釈教ではないのか、などと基準を曖昧に感じるものも多い。このあたりは模索的だったのかな、と思う。この歌は確かに雑歌かな、と感じる。ぼくもこの世から完璧に隠れることができるのだったら、二度とこの世界には出てこないと思う。旧約聖書の「コヘレトの言葉」には「幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」という一節がある。ぼくはそこに何重にも線を引いている。

世の中を何にたとへむ秋の田をほのかに照らすよひのいなづま(源順・雑1013)

「世の中を何にたとへむ」という万葉集の歌の上句を固定して、いくつか歌を作ったうちのひとつらしい。下句はまるまる世の中の喩になっている。これはものすごく面白いと思う。村上春樹の『ノルウェイの森』には「私のことをどれくらい好き?」という質問に「春の熊くらい」と答える場面がある。ここにはあまりに広い想像力の幅がある(ちなみに同じような会話で「山が崩れて海が干上がるくらい」と答える場面もあり、これは『金槐和歌集』の「山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」の引用ではないかと思うので、案外村上春樹と和歌は遠いものでもない)。ぼくだったら、あなただったら、世の中をどのように例えるだろうか。

さか月にさやけきかげの見えぬれば塵のおそりはあらじとを知れ(雑・1160)

後拾遺和歌集ではじめて、勅撰集に神祇や釈教という言葉があらわれた。神道や仏教の教えをうたったものである。これはのちのちひとつの部として雑歌から独立していく。この歌は神祇に収められたもの。杯に明るい月(仏教では月は釈迦如来そのものになる)がうつっているんだから、まったく恐れることはない。強くて好き。

もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る(和泉式部・雑1162)

この歌も神祇に入っていた。なんという幻想的な歌だろう。この歌をはじめて知ったのは、たぶん高校生のときだったと思う。そのときから蛍は、ぼくにとっては魂の形をもった暗喩となった。実際に蛍を見たことはほとんどない。澄んだ川にしか蛍は近寄らない。和泉式部は澄んだ川のほとりにたって、その水の音に耳を寄せて、みずからの魂を幻視した。電気のない時代。月を中心に暦が動いていた時代。暗黒の中に灯る蛍は、どれほどの明かりだったのだろうか。後拾遺和歌集の中でもっとも好きなのは、やっぱり和泉式部の歌だった。


こうして後拾遺和歌集を読んできたけれど、脳がぐにゃっとひらいてとても楽しかった。わからない歌ももちろんたくさんあった。こうして政治と芸術が深く関係していた時代のことを思いやると、なんだかうらやましくなる。次は『玉葉和歌集』をとおしてよみたいと思う。また扉がぐにゃっとひらかれることを夢見て。


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