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悪は存在しない

21:45に見終えてすぐにこの文章を書きはじめている。まだ心が新鮮なうちに言葉にしておきたいと思ったからだ。

いきなり違う作品の、しかも映画ですらなく小説の話をしてしまうのだけど、ぼくは村上春樹の小説の中で「かえるくん、東京を救う」を特別なものに思っている。面白い、面白くない、というものを越えて、とても本質的な、クリティカルな短編小説だと考えている。

十年近く前に書いた記事でも同じことを書いているので、おそらくぼくはずっとこの小説に描出された事柄に、率直にいって影響を受け続けているといえる。

みみずくんのような存在も、ある意味では、世界にとってあってかまわないものなのだろうと考えています。

村上春樹「かえるくん、東京を救う」

それは、端的にいって世界は善と悪の単純な二分法によってはできあがっていない、ということだ。悪、というのはある種の感情を取り扱い可能なものにするための言葉だ、と認識している。これは繊細な部分で、この世には悪は存在しないので、何もかもは許されている、ということとは違う。村上春樹が、そして濱口竜介が『悪は存在しない』の作中で言葉にしたような「バランス」の問題なのだ。

もうひとり、この映画を見て想起した小説家がいる。舞城王太郎だ。舞城王太郎は、推理小説を根幹に置きながらある種の感情についての物語、民俗学的なナラティブを描いてもいる。舞城王太郎の小説を読むと、「謎」との対峙の仕方をずっと描いているのではないか、と思わされる。『短篇五芒星』の「あうだうだう」にはこのような一説がある。

「ちょっと叩くだけや。神様殺したらあかんやろ」
「何で?」
「だって、でもあうだうだうって、悪い奴なんでしょ?」
「悪い箱やけど、神様はこの世を作ってるもんやで」
意味が判らない。「だから、殺しちゃえば悪がなくなるんじゃない?」
「悪はなくなる必要ないよ」
「何で?」
「ほやさけ、この世の一部やでやって」
「もう……」
堂々巡りだ。
「悪をなくすことが善ってことではないんやで?」

舞城王太郎「あうだうだう」

記憶力がいい方ではないので、印象的だった二つのことについてのみ、今は書いておきたい。ひとつは陶酔に浸る間もなく切断される劇伴。もうひとつは結末のシーン。ネタバレを含みます。

書きます、といいながら、もう一回話は紆余曲折する。舞台となる諏訪市の話だ。長野県の出身であるから、諏訪には何度もいっている。諏訪湖には「御神渡り」という神の息吹を感じさせる自然現象があり、御柱祭という奇祭も残る。ミジャグヂ信仰という、鹿を神とともに餐する信仰もあり、土着的な塑像も残る一方、光溢れる諏訪湖を臨むようにダリの彫刻が納められている美術館もある。近代と前近代の狭間にあるような、そんな印象を受ける土地だ。

冒頭の空の長回しとともに流れている音楽は、突如切断される。そして、これは劇中何度も何度も繰り返される。先取りしていえば、最後の唐突にも思われる巧の行動もまた、わかりやすい物語から急に中空に投げ出された感覚に陥るような行動である。途中までは、田舎と都会の共存、一見悪者に見えるプロダクションの人間も感情を抱えた人間である、というアナログ性を描いていく物語なのかと思っていた。でも、そういう判断こそがひとつのナラティブであり、全能感であり、陶酔であるともいえる。劇伴の切断は、やがて訪れる唐突な結末を予見するようになされているのではないだろうか。「悪は存在しない」という題の「悪」は、そのまま「善」とも入れ替えられるものなのではないかと思う。

水の暗喩は、とても率直だ。上流の汚れは下流に流れ、やがては暴力的に上流へと還る。毒が蓄積されるように、循環する水は悪の方向へ導かれていく。悪とは絶対的な下流ではなく、巡り続ける過程、方向性だ。これは政治的なものへの批判である一方、もっと抽象的な、世界の本質的な考察でもある。

結末の巧の行動。これはかなり解釈に寄ってしまうのだけど、「バランス」を取ろうとしたのではないかと思う。花の母親は、死別なのかどうかは不明であるにしろ永遠のような別離によって隔てられている。「行ってしまった(そしてもう戻っては来ない)」ということが、なんとなく理解できる。花もまた「行ってしまう」「連れていかれてしまう」、理解のために言葉を当てはめるのなら「神隠し」の寸前だったのではないか、と思う。舞城王太郎の小説には「行ってしまった」(多くは「神」の側へ)からもう返っては来れない、という絶望感、無力感がときおり現れる。巧が高橋を締めたのはバランスを取るためだった、そして花を「行かせない」ようにするための行動だったように思える。一般的に言って、あの行動は「悪」だ。でも、大切な人間を守るとき、人は悪を成さなくてはならないことがある。それへの罰は訪れるだろうけれど、覚悟の問題である。高橋は、決して悪い人間ではなかった。しかし、あの場面では、犠牲になるしかなかったのだ。鹿の代わりに、あるいは花の代わりに。

納得のいく結末はない。とんでもないところへ放り出されたような感覚のまま、短いエンドロールの暗闇を眺めることになる。「悪」についての判断保留を強制されたまま。

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