かみしの
2019.10.7

2019.10.7

かみしの

日々のことを忘れていってしまう。たしかに、忘却は救済だった。だから、ぼくはあらゆることを意識して忘れるようにした。困ったことに、ぼくは記憶力がよかった。暗記科目が得意だった。努めて、忘れるように心がけた。忘却への負荷をかけた。そうすると、いつの間にか、忘れ癖がついた。薬の助けもあっただろうけれど、ぼくはあまり多くのことを記憶できなくなった。それでよかった。刹那性という免罪符で、自らを甘やかすことにした。

だけど、今になって記憶が惜しくなってきた。覚えていたいことが多くなった。読んだ本、観た映画、思ったこと、沸いた感情。どんどん忘れていってしまう。それがかなしくなってしまった。もうぼくの記憶力は衰えてしまった。だけど、記憶は文字として記録できる。そのときのこころを文字にすれば、外部委託された記憶が、感情に変換されて蘇る。だから、ぼくは日記を書くことにした。

二週間もさぼってしまった。忘れてしまったことも多いけれど、思い出しながら書いていきたいと思う。

『後拾遺和歌集』を読み始めた。

大学では和歌を専攻していたので、そのときにいくらかの勅撰集や私家集は読んだ。けれど後拾遺和歌集というのはぼくにとって影の薄い歌集だった。たまたま岩波文庫から出たので手に取った。影の薄さの原因は、たぶん名称だと思う。勅撰集は時代がくだるにつれて、『続後拾遺和歌集』であるとか『新続古今和歌集』であるとか、王朝時代の残滓を掬うだけの名前になっていく。後拾遺和歌集は八代集と呼ばれる、平安から鎌倉にかけて編纂された勅撰集のひとつを成している。受験でも扱われる重要なもののひとつだ。それにも関わらず「拾遺」、しかも「後」という後手後手のような名前が、『金葉和歌集』や『千載和歌集』に比べると、どうにも格好悪かった。

結果からいえば、読んでよかったと思う。正直、和歌の善し悪しはぼくにはわからない。解説で名歌と呼ばれる歌をいいとは思えない。逆に駄歌と呼ばれるものをいいと思うこともある。後拾遺和歌集の価値はぼくにはわからない。けれど、久しぶりにじっくりと和歌を読んだということ、発見があったということ、それは事実であった。いくつか気になった歌を書き記しておく。

この日はメモによれば春夏秋冬の巻を読んだようである。

山たかみ都の春を見わたせばたゞひとむらの霞なりけり(大江正言・春38)

春が来た喜びを表現することが和歌ではよくあるけれど、春をひとかたまりの霞と見なす大胆さが好きだった。小さい秋見つけた、ではないけれど大きい春がそのまま都を包み込んでいる様はさぞかし絶景だったのではないかと思う。

花ならで折らまほしきは難波江の蘆の若葉に降れる白雪(藤原範永朝臣・春49)

花を手折るのは現代ではマナー違反と見なされるけれど、中古時代には文化的行為であった。雪を折りたいというのはどういう感情だろう。花を折って、誰かに渡したいわけではない。ただ美しいものを永遠にしたい、というエゴイズムである。「折る」という破壊行為への陶酔すら感じる。ひどく詩的だと思う。

春はたゞわが宿にのみ梅咲かばかれにし人も見にときなまし(和泉式部・春57)

後拾遺和歌集の特徴のひとつは、女性歌人の収録数の多さである。中でも和泉式部の歌は68首収録され、全歌人のなかでもっとも多い。梅はわたしのところにだけ咲け、そうすればあの人もわたしのところに梅を見にきてくれるはずだ。まるで八百屋お七のようだ。梅に対する、あるいは春に対する冒涜的なエゴイズムだ。たまらなく好きな歌だった。

すだきけん昔の人もなき宿にたゞ影するは秋夜の月(恵慶法師・秋253)

「すだく」は虫や鳥などが集まることをいう動詞らしく、人の集いにはあまり使われないらしい。出家者ゆえの認識だろうか。「夏草や兵どもが夢の跡」ではないけれど、昔の人の幻影が月に照らされて共演している様は、驚くほど寂しいものだと思う。卒業したあとの部室のことを思い出した。もう戻ることのできない過去に、光がさしている。

秋も秋こよひもこよひ月も月ところもところ見る君も君(読人不知・秋265)

酔っ払ったり、感極まって感情になったときはこうなるな、と思った。たぶんめちゃくちゃ気持ちよかったんだろうな、と思う。解説によれば、この後拾遺和歌集には酒についての記述が他に比べて多いのだという。「高砂の尾上の桜咲きにけり」とい百人一首の歌も、この歌集に収められているけれど、その詞書にも「酒たうべて歌よみ侍けるに」とある。この俗っぽさが、後拾遺和歌集に対する同時代の評価の低さに繋がっているのかもしれないけれど、愉快でいいじゃないかと思う。王朝文化の衰退は、新たな文化の勃興でもある。この歌が酒の席でよまれたとはどこにもかいていないけれど。

木の葉散る宿は聞き分くことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も(源頼実・冬382)

木の葉が散る、という事象に音を感じ取ったことはなかった。落ち葉を踏めばガサッと音がする。それは間違いなく秋の(昔の暦では冬の)風物詩だ。けれど、木の葉ははじめから落ちたものとして認識していた。なぜだろう、ここでは視覚と聴覚の感覚がないまぜになって、不思議な空間が表出されているように思える。

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