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清濁併せ呑むとは。

これから、大学のゼミや授業で話したことなどを、残していきたいと思います。誰かに読んでもらうというより、ただ、残しておくだけですので、覚えていることをさらっと書きておきたいと思います。

「清濁併せ呑む」という言葉があります。今の世の中、この意味を勘違いしている人ばかりのように思うんですよね。

ちょろまかしみたいな小賢しいことをやり、その小賢しいことをごまかすために、屁理屈に屁理屈を重ねていたり。自分のことならまだいいが、えらいさんが小賢しいことをしたのを、何とか守ろうと「忖度」して、一生懸命ごまかそうとする人ばかりではないですか。

そして、そういうことができるのを「大人」だと勘違いしているひとばかり。要は、悪いこともできることを「清濁併せ呑む」ことができる、成熟した大人だというわけです。何を言ってるんだと思いますね。

「清濁併せ呑む」っていうのは、あくまで「清濁」だということを忘れてはいかんのです。「濁」の前に「清」があることが大事なのです。

そりゃ、世の中というのは難しいものです。渡世のためには、時にはどうしても泥水を飲まないといけないようなことがある。大事なものを守るために、ウソをつかなければならないようなこともある。悪いことに、手を染めないといけないこともあるでしょう。

しかし、泥水を飲まなければならないか、ウソをつかねばならないか、悪いことに手を染めるべきかの判断は、まず徹底的に「正しいこと」を理解し、身につけておかないとできないのです。例えば、過去の偉大な政治家が「墓場まで持って行く」覚悟で泥水をすする時、その判断の基準になるのは、「国家を守る」「国民を守る」ために自らを犠牲にしてでもやらなければならないことはなにか、ということなのです。

その判断ができるためには、まず自らが徹底して「正しく」あるために、日々研鑽を積んでおかないといけないのです。だから、「濁」の前に「清」がなければならないのです。

今の世の中で、小賢しいことばかりする人間は、「濁」の前に「清」がなければならないことをわかっていない。ただ、悪いことをして、それを「清濁併せ呑む」だといって、ドヤ顔で正当化するという、浅はかなことをやっているのです。

バカな奴らだと思います。あえて言います。どうしても悪いことに手を染めないといけない時は、「信念」をもってやらなければならない。そのためには、まず徹底して「清」を極めないといけないのです。

大学でも、1回生から就職活動を始めないといけないようになっており、大学は「実学的」という名の「世渡り」を教えよという風潮があるように思います。完全に間違いです。

学校というところは、徹底的に「正しく」なければならないのです。学校で小器用な世渡りを教える必要はない。そんなものは、世の中に出れば、みな必死に学ぶことになるのだから。学校というところは、泥水ばかりの世の中に出ても、そのなかで飲み込まれることなく、しっかりと立っていられるために、そして、いざという時には確固たる信念をもって、泥水を飲める人間を作る場です。

そのためには、何度でも言いますが、学校というところは世渡りは教えない。徹底して「正しい」ことはなにかを追求するべきだと思います。その先に、「清濁併せ呑む」大きな人物が生まれるのです。


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