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金曜日の日記/『かいじゅうたちのいるところ』『マリッジ・ストーリー』などなど

 こどもが寝る時間に森山直太朗がインスタライブをしてくれていたので布団のなかで一緒に聴く。聴きながらスヤスヤ寝始めてなんと気持ちのよさそうなことか。宇多田ヒカルとか、さだまさしとか、くるりとか、マッキーとか、私は日本語がすきなんだと思う。

 二年前の妊婦生活は酷暑の夏だったこともあって、ほとんど家から出ずに過ごした。そのころから今もオイシックスを利用していて週に一度の注文がとてもたのしい。オイシックスを利用する前は欲しいものをリストにして夫にスーパーで買ってきてもらっていたのだけど、欲しいものが手に入るにも関わらず不満で仕方がなかった。しばらくしてから重要なのは自分で選ぶことなんだと気がついて、生鮮食品も自分で探して注文するようになった。商品を見比べたり、新商品を見つけたり、そんなふつうのことが毎日を高めていたのだとこのときに初めて知った。出産後も、以前までふつうに行っていた居酒屋やカフェや本屋なんかに気軽に行けなくなって落ち込んだけれど、焼き鳥屋のテイクアウトをしたり、空いてる時間を見計らって子連れで飲み屋に行ったり、ベビーカーでも入りやすいテラス席や地上階にある本屋を探したり、工夫はゲームみたいで案外たのしい。同時に世界が不自由に満ちていることも学んだ。こういったそれぞれの生き方に合わせた工夫は、これからますます必要になっていくのだろうなということを、ひとりで散歩しながら考えた。

 映画『かいじゅうたちのいるところ』をひさしぶりに観て冒頭から涙が溢れてしまったのは、マックスの気持ちをわかりたいけど本質的には理解してあげられないかもしれない、という乖離からだと思う。「ぼくのせいじゃないのに」というマックスの叫びを「そうだよね」と抱きしめたいけど現実ではむずかしい。たのしい時間が台無しになる瞬間が苦しい。少し前に観た『ワンダー 君は太陽』や『マリッジ・ストーリー』のことも思い出した。もういっそ社会や常識からふるい落とされても構わないからこどもたちの声が聞こえるところまで戻りたい。そういうことを美術ではできるんではないか、というのが私の希望だ。『かいじゅうたちのいるところ』はkarenOの音楽がすばらしくて、彼女は音楽でマックスの心に触れていると感じる。思いっきり創作のなかに沈みたい、と言うと現実逃避に映りそうだけれど、私は創作が現実なのだ。

 夫が、カーネーションを買ってきてこどもに渡させるというヤラセを演出してくれて、単純だけれど母の日がうれしいものなんだと知る。ケーキとワインも買ってきてくれて、我が家の記念日はケーキとワインとお花を定型にしようということになった。自分の両親には今年もなにもできなかったので、まめに孫の写真を送って帳尻を合わせる。免疫が上がる、とよろこんでくれる。

 最近は本棚の前のスペースがお気に入り。暑くなったから洗って片付けようと思って積み上げたセーター類は景色になってきた。申込みをして捨てようと思ってる粗大ゴミも随分前から景色になっている。来週はこれらを片付けよう。

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