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美醜を気にする時期は長い人生の中の本の一瞬なのかもしれない

 最近娘がよく言っている。
「はあ、私が思った顔と違った顔で生まれてきちゃった」
「なんか自分の顔が変に見える」
 まだ一年生なのでちょっと早いなと思うが、まあ基本的に何もかも早い子どもなので、そういうのも気になってくるようになったのだろう。
 つい最近までは、自分の可愛さを一ミリも信じて疑わず、「ほんと大人ってみんな、私というこどものことが好きだな~。またかわいいねって褒められちゃったし。まあでもそりゃこれだけの美少女だし仕方ないけどね」というスタイルでやっていたので、何か心境の変化があったのだろう。ほんのりとそういう時期にはいったのかもしれない。
 でも私にはまだまだ彼女が自分のことを美少女だと思ってることはわかっている。少し表面上のセリフを変えた方が良いと認識してきただけだと思う。

 しかしまあ、人生で本格的に美醜を気にする時期というのは、長い人生の中の本当に一部だとしか思えない。
 平均すると、たぶん16歳から30歳くらいまでが最も気にする時期なのではないだろうか。
 基本的には結婚してしまったら、というか、自分の存在を肯定してくれるパートナーを見つけて、それなりに満たされて、モテとかより生活を大事にするフェーズに入ると、もう気にしなくなると思う。
 整形することで自己肯定感を得たという若者はたくさんいるけど、本当にこのことについて死ぬほど悩むのって今の時期だけなので、別にしなくてもいいのになとも思ってしまう。

 保育園や小学校に通わせていると、いろいろな親たちに出会う。みんな美醜はそれぞれ違うが、共通していることは割と幸せそうなことだ。
 美しくないと幸せになれないなんて完全に間違ってるとしか思えない。みんな普通にそれぞれ納得できる相手を見つけて、互いに思いあえばそれだけで幸せになれるはずだ。
 ブサイク夫婦だと迫害されるとかない。人と付き合う基準に相手の容姿を入れて、ブサイク夫婦プププなんて言ってる奴らなんているとしたらマジでどうかしてる扱いになる。もうみんな見た目とかマジでどうでもいい。
 たぶん、私も、ほかの人々もみな、誰のお母さんがかわいくないとか全く気にしていないと思う。「あの人めっちゃきれいだよね」くらいはあるとは思うが、それ以上でも以下の意味もない。単なる特徴の話で、もはや人間づきあいと美醜はなんの関係もない。全員、そんなどうでもいいところに神経を割いている暇がなくなってしまうのだ。

 そして、そうやって生活を豊かにするフェーズになってくると、自分の中で大事にしたくなってくるのが、美醜ではなく、清潔感とセンスである。
 それなりに身支度をきれいにして、ちょっと流行を取り入れたりして、それなりに若々しくあることの方が大事になってくる。
 顔面偏差値の話とか、本当にどうでもよくなってしまうのだ。他者の目とかより、自分との闘いになっていくだけである。
 正直、同い年で、誰がブスだブサイクだとか、十代と同じ感覚で話している人がいたら、ふつうに引いてしまう。「えっ、まだそのフェーズにいるの?」状態である。

 ここから先、年を取るにつれ、また美醜の概念の話が復活するなんてことは、きっとないと思う。全員それどころじゃなくなるからだ。次は更年期!迫りくる老いのなかでどう人生を楽しく豊かに過ごすかしか大事じゃない!

 だから本当に本当に、美醜を気にするのなんて、人生のほんの一瞬なのだ。美人じゃないと自分に合ったパートナーが見つからないとかありえないし、美人だと最適なパートナーが見つかるとかも特にないのである。
 まあ、最適のパートナーの条件に、一緒にいて幸せになれるという以外に、絶対に顔面偏差値が高い人、という謎の条件を課すのであるならば、まあ自身が美しいに越したことはないだろうが…。
 しかし、本当に見た目なんてどうでもよくなるのである。そんなに暇じゃないのだ。人生は揺れ動くのだ。いつまでも自分の価値観が変わらないことを前提に、竿をさして、流されないようにしてはいけない。時の流れに身を任せると、どんどん変わっていくのだ。
 なので、みんな、そんなに自分の見た目にこだわって整形したりしなくていいのにな~と、ヤフーのトップによく上がってくる、整形で自己肯定感を得た記事を見ると、思ってしまうのである。

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