朱色の子守唄⑨
その男は一見、ただの青年にしか見えなかった。真面目で、大人しくて……イタチのようにおどおどした目をしていて……。男の名前は、犬江治郎。反コロナを謳っていたスピリチュアルグループの手で恋人とお腹の子供を死に追いやられた男。
ここ数日、誰かに尾行されているのは分かっていた。あれは誰だろう?知り合いでは...ないな。覚えがない。ミナの知り合い...でもなさそうだ。まあ、いいや。死んでもらおうかな。僕はあの歌を口笛で吹いた。すると脳内に無数の赤黒い犬たちが涎を垂らしながら吠え始め、歌詞が流れ込んできた。
赤い血溜まり できりゃ そこは地獄かな
赤い夕陽も 浮かびゃ そこは地獄かな
人の情など ないのと同じ
この世は地獄 この世は地獄
あの子はどこさ あいつはどこさ
憑いて 泣かして 山うめろ
朱色の子守唄 子を寝かせ 赤い忌火
僕とすれ違う人たちがどんどん倒れて行く。
買い物帰りの主婦が、小学生たちが、会社員が...みーんな倒れて行く。笑いを堪えるのがこんなに難しいなんて。みんな、これがいま流行りのコロナってやつだよ。いや正確には呪いだよ。口元を押さえて笑いを押さえながら歩くのがこんなにしんどいなんてな...。
治郎とすれ違う人々が次々と高熱と咳をしながら道端に倒れて行く。その身体には次々と犬の噛み跡がくっきりとついていた。犬神の呪いの凄まじさは古来より語り継がれていた。しかし治郎から発せられる呪いは特定の誰かに向けられたものではない。不特定多数の人間に向けられたものだ。治郎は邪悪な微笑みを隠しながら歩いて行く。
ただ、このとき治郎は気がついていなかった。自分を尾行している男...狼谷には犬神憑きの呪いが一切通じていないことに。狼谷は無言で治郎の後を追う。獲物を捉えた狼が、相手に喰らいつくチャンスを狙うように。狼谷の耳元で以前聞いた冷たい声が聞こえた。
「犬ジャ...犬ジャ...呪イ犬。取ッテ喰ライタイ、取ッテ喰ライタイ...」
あのタラチ姫という存在の声だ...狼谷は冷静にそれを考えていた。そして治郎が向かった先は、とある墓地であった。
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