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新約聖書を読む‥神を愛せよ、隣人を愛せよ

知り合いと、聖書を読んできた。
この度は初めから、知り合いと会って嬉しい筈なのに、楽しくお喋りする気もせず、帰りに一緒に食事をして私だけジョッキを空けたけど意気が上がらず、モヤモヤしながら帰ってきた。
何でかなぁ、低気圧のせい? そういえば、お肌の調子も悪いしなぁ。

で、いつものごとく今日の箇所を反芻。
マタイ22章34-40節。
ユダヤ教の学者たちが、イエズスに挑戦しに来た。
掟の中で一番大事なのは何かと。
イエズスが答えて、心を尽くして、、、あなたの神である主を愛せよ、、、隣人を自分のように愛せよと。
学者たちは舌を巻いて退散しました、と。

なーんかこう、後味悪いのよね、ここ。
何がどう自分は気に入らないのかと考えてみた。
‥で、モヤモヤしてたものが、ハッキリとした形になった。
田川建三の本に書いてあった事が、知り合いの発言と結びついて、ストンと腑に落ちた。

マタイとしちゃ、サドカイ派もファリサイ派もやり込めた我らが親分イエズスは偉いのよね。
子分の自分たちも偉いのよね、と。

大きなヒントになったのが、だけどファリサイ派のようにならないよう気をつけましょうねっていう知り合いの言葉だった。

要するにイエズスという虎の威を借りたマタイ、それに同一化しちゃった信者たちが、自分は偉いんだと優越感に浸る。
そしてマタイがファリサイ派を貶めてるから、何かよく知らないけど、自分もファリサイ派をバカにしちゃおうって。

根拠のない優越感と独善性。
それがプンプン臭ってくるから後味が悪かったんだなと、家に帰ってから思い至った。

イエズスがせっかく、これが大事だよと言ったのに。
それを帳消しにして余りある、マタイの描きっぷり。

家に帰ってから自分が何に引っかかっていたのかに分かって、でも知り合いと話してる時に気づいたとしても、どうせ知り合いには共感して貰えそうにない。

イエズスは偉い。
その子分である聖なるマタイ様は偉い。
そういう観念が強固だからなぁ。

そういうのを偶像崇拝っていうんじゃないかと思うけれども、そこから来る根拠のない優越感と独善性が、歴史的にも隣人を愛することをこれまで散々妨げてきたと思うのだけど、聖書を一緒に読んでそういう話にはなかなかならない。

うーん‥まあとにかく、これを知り合いが読むことのないように、今日ばかりは祈ろう。

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