この世の全部は主観なんだから
1番好きな曲とその一節
タイトルはヨルシカのアルバム「盗作」に収録されている1曲「レプリカント」の一節である。私がこのアルバムの中で1番好きな曲であり、1番印象に残ったフレーズだ。惹かれた理由は単純で、私は「普通」という言葉が嫌いだからである。他人を評価する言葉としての「普通」は一体何と比べてのものなのだろうか。結局は主観なのである。自分と同じものは「普通」、違うものはすべて「普通ではない」という判断をしているのだ。このような核心を突いた一節がそのまま私の心に刺さった。先に述べた一節の他にも、「レプリカント」では全体的にストレートで語気強めの言葉が並んでいるが、軽快な曲調で進行していく。刺さる人には刺さる1曲だと思う。
ここから、時系列に沿ってアルバムの曲の感想を述べていこうと思う。
ヨルシカの新たな物語
3月4日、2つのフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」、「エルマ」を発売されて約半年後、新曲「夜行」が投稿された。当時は、MVに登場する男女2人が前作の「エルマとエイミー」のよう、音楽を軸に新たな物語を展開するコンセプトアルバムが出るのだと考えていた。他の曲もそうだが、小説を読んだ後にMVを見返してみると様々なつながりが見えてきてとても楽しい。
綺麗な言葉とメロディ
4月22日、「泣きたい私は猫をかぶる」の主題歌である「花に亡霊」が公開された。綺麗なアニメーション映像とともに夏を感じさせる曲である。様々な考察が飛び交う中、「綺麗な言葉とメロディを詰め込んだ」というn-bunaさんの発言。youtubeのコメント欄は現在、曲へのコメントよりも自分語りのポエムが多めなのでなんだかむず痒くなってくる。
今までとは全く違う曲の在り方
6月3日、「春ひさぎ」公開。古語で「売春」という意味で、いわゆる商売のために作る音楽。「盗作」という今回のアルバムのコンセプトが発表された直後に公開されたものであり、前作との音楽の在り方は真逆である。大衆に向けたテーマ、ポップなメロディ、綺麗に言語化されたわかりやすい作品、というようなものを皮肉めいた曲になっている。
泣きたい私は猫をかぶる
6月18日、溜まっている課題も一旦捨て置き、このためだけに加入したNetflixにて「泣きたい私は猫をかぶる」を視聴。複雑な家庭環境で辛い気持ちを抱え込みながら、周りにはお調子者を気取って無理しているムゲの姿に胸が痛くなった。「夜行」、「花と亡霊」、「嘘月」が絶妙なタイミングで流れ出す。映画のために制作した曲ではないが、歌詞も心なしか映画とマッチングしているように感じた。
盗用とオマージュの曖昧さ
6月24日、横長の特徴的なMVとともに「思想犯」が公開された。曲の入りからsuisさんの低音がスッと耳に届く。今までの曲からはまた違う雰囲気の歌声で、歌い方の幅の広さや表現力の高さを痛感する。盗用とオマージュには境界など存在せず、そしてその違いを知る必要すらないのだ。こちらも小説を読んだ後にもう一度MVを見直すことをお勧めする。
破滅衝動に駆られた男
7月22日、「盗作」発売日1週間前に表題曲「盗作」が公開された。ヨルシカの中で初となる顔出しの実写MVに驚いたファンは多い。この曲では「月光」のフレーズが使われている。名作を盗んで作った曲が売れたが心は満たされない。そんな盗作家の男の破滅を描いた作品となっている。
作品に罪はない
最後に小説を読んだ感想を述べていきたいと思う。「作品に罪はなく、作者に罪がある」という内容に関して、私もまったく同じ考えである。他にも「芸術作品において作者なんてのは付属品」、「どんな経緯で曲を作っても音楽の価値は変わりない」といった、作品と作者を切り離した考えが主張されている。実際、不倫や浮気で非難を浴びる俳優でも迫真の演技には魅了されるし、麻薬に手を染めたミュージシャンでも作った曲は素晴らしいものだ。ただ、世間一般にはこの考えは理解されない。不祥事を起こしてしまえば、当人だけでなくその人が関わったもの全て、さらには家族にまで誹謗中傷が集まる。このような「作品にも作者にも関係者にも罪がある」という風潮に息苦しさを感じる。もっと、作品を純粋に評価するべきだと思う。
ただ、これまでに述べた内容は他人にどう受け取ってもらえるかはどうでも良いのだ。
だってこの世の全部は主観なんだから。
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